第37話、神月唯華の高校生活!3
あの夜の事件から数日が過ぎた。世間は依然として公安警察の失態と、未だ捕まらぬ「テロリスト」の存在に騒然としていたが、唯華が通う都内有数の進学校は、まるで嵐の後の凪のように、再び穏やかな日常を取り戻していた。生徒たちは、受験、部活動、友人との他愛ないおしゃべりに夢中で、社会の喧騒はどこか遠い世界の出来事のように感じられた。校舎の窓から差し込む午後の日差しは、彼女たちの若々しい笑顔を優しく照らしている。
唯華もまた、学校では完璧な優等生として振る舞い続けていた。朝、昇降口でクラスメイトたちと笑顔で挨拶を交わす。彼女の「おはよう」という声は、いつもほんの少しだけトーンが高く、周囲に明るい印象を与えた。休み時間には、女子たちの輪の中心で、楽しそうに談笑する。流行のアイドルグループの話題や、新しくできたカフェの話に、彼女は的確な相槌を打ち、時にクスッと笑ってみせる。授業中は、どの教科でも真剣な眼差しで教師の言葉に耳を傾け、難解な問題にも淀みなく答える。その明晰さは、教師たちをも唸らせるほどだった。放課後は、決まって図書館に籠もり、黙々と参考書や論文に打ち込む。その姿は、周囲の誰もが「非の打ち所がない完璧な少女」と評するほどだった。彼女の成績は常に学年トップで、文武両道、容姿端麗。まさに絵に描いたような優等生だった。
しかし、彼女の隣の席に座る鈴鹿裕樹だけは、唯華の微かな「異変」に漠然とした不安を募らせていた。裕樹は、教室の片隅で、唯華の完璧な笑顔の裏に隠された、一瞬の虚無感や冷たい視線を感じ取っていた。例えば、休み時間に女子たちと談笑している唯華が、ふとした瞬間に表情を失い、遠くを見つめることがある。その視線は、まるでこの世界のすべてが薄っぺらい仮面のように映っているかのような、奇妙な冷たさを帯びていた。また、彼女が難しい問題を解いている時の横顔は、常人の域を超えた集中力を見せ、時にその瞳の奥に、何か底知れない闇のようなものが揺らめくように裕樹には見えた。彼が見た「唯華様」の姿と、目の前の完璧な少女の間に存在する、冷たい隔たり。それは、彼だけの、誰にも言えない秘密だった。裕樹は、唯華の「完璧さ」があまりにも整いすぎていて、まるで精巧な機械のようだと感じていた。人間味あふれる他の生徒たちとは明らかに異なる、唯華のその「異変」は、彼の心に常に引っかかっていた。
ある日の放課後、唯華が図書館の奥まった席で、いつものように分厚い参考書を広げていると、クラスの女子たちが彼女の机に集まってきた。
「ねぇ唯華、今日、この後時間ある?」
クラスで一番明るい性格の、ショートカットの女子、佐藤美咲が声をかけた。彼女の笑顔は向日葵のように明るく、人懐っこい。美咲の隣には、おっとりとした雰囲気の長身の女子、鈴木花音が穏やかな笑みを浮かべて立っている。そして、その隣には、お洒落で流行に敏感な田中里奈が、ファッション雑誌から抜け出してきたかのような洗練された雰囲気で立っていた。彼女たちの視線は、期待に満ちて唯華に注がれている。
唯華は顔を上げ、少しだけ驚いた表情を見せた。普段、放課後に誘われることはあまりない。彼女の周りには常に人がいたが、それは彼女の完璧さに引き寄せられる尊敬や憧れであって、親密な友情とは異なるものだった。だからこそ、こうして個人的な誘いを受けるのは珍しいことだった。
「うん、あるけど…どうしたの?」
唯華の声は、いつも通り落ち着いていたが、心の中では微かな動揺が波打っていた。
「やった!実はさ、駅前に新しくできたパンケーキ屋さん、すっごく可愛いんだって!一緒に行かない?」
美咲が目を輝かせながら言った。その声には、純粋な喜びと興奮が満ちていた。花音と里奈も、期待に満ちた眼差しで唯華を見つめている。彼女たちの瞳には、一点の曇りもない純粋な誘いが宿っていた。
唯華は一瞬、戸惑った。中学時代、彼女は「人間演算機」と揶揄されるほどあらゆる知識と計算能力に長け、スポーツも完璧、おまけに容姿も可愛らしかったため、一部の生徒から酷い嫉妬と苛めを受けていた。靴を隠され、カバンや机に落書きをされ、トイレでは上から水をかけられた。歌っているだけで暴言を吐かれ、時には暴力を振るわれることもあった。その経験が、彼女の心に深い傷を残し、他人、特に同年代の女子に対しては、常に一線を引いてしまう原因となっていた。彼女は、この誘いが、もしかしたら何か裏があるのではないかと、無意識のうちに警戒していた。過去の経験が、彼女の心の奥底に染み付いたトラウマとして、今もなお彼女を縛っていたのだ。
しかし、目の前の女子たちの瞳には、純粋な期待と友情の色しか見えない。彼女たちは、唯華が持つ「完璧さ」を、妬むのではなく、素直に尊敬し、憧れているように見えた。その真っ直ぐな好意に、唯華の心の防御壁が、微かに揺らぐのを感じた。
「…いいよ」
唯華は、小さく頷いた。その言葉に、女子たちは歓声を上げた。
「やったー!唯華も来てくれるんだ!嬉しい!」
美咲が唯華の手を取り、ぶんぶんと揺らす。その温かい手のひらの感触に、唯華の心に微かな温かさが広がった。それは、長い間閉ざされていた扉の隙間から差し込む、一条の光のようだった。
駅前のパンケーキ屋さんは、内装も食器も可愛らしく、女子生徒たちで賑わっていた。甘い香りが店内に満ち、明るい話し声が飛び交っている。唯華たちは窓際の席に座り、それぞれ好きなパンケーキを注文した。
「唯華、どれにする?これ、期間限定のイチゴとマスカットのパンケーキだって!すっごく可愛い!」
里奈がメニューを指差しながら興奮気味に言う。唯華は、普段は甘いものをあまり食べないが、女子たちの楽しそうな雰囲気に誘われ、同じものを注文した。彼女の日常には、このような甘い誘惑は存在しなかった。すべては計画通りに進められ、無駄なものは排除されてきた。しかし、この瞬間の「無駄」は、妙に心地よかった。
運ばれてきたパンケーキは、写真で見るよりもずっと豪華で、まるで芸術作品のように美しかった。ホイップクリームの白い山に、鮮やかなイチゴとマスカットが宝石のように散りばめられ、甘い香りが食欲をそそる。
「わー、すごい!写真通りだね!てか、写真より実物の方がかわいい!」
美咲がスマホを取り出し、パンケーキの写真を撮り始める。唯華も、彼女たちの真似をして、自分のパンケーキをスマホで撮影した。それは、彼女のスマートフォンに保存されている、無数の機密文書や作戦計画とは全く異なる、初めての「普通の写真」だった。
「ねぇ唯華、数学のテスト、どうだった?私、また赤点ギリギリかも…」
花音がため息交じりに言った。彼女は数学が苦手で、いつも苦戦している。
「そう?でも、花音は英語が得意だもんね。私、英語はちょっと苦手なんだ」
唯華は、わざとそう言ってみた。実際は、英語も完璧にこなせるのだが、自分の完璧さをひけらかすことは、中学時代の経験から避けていた。完璧であることは、時に孤立を招くことを、彼女は痛いほど知っていたからだ。
「えー!唯華が苦手なものなんてあるんだ!意外!」
美咲が目を丸くする。その言葉に、唯華の心に微かな安堵が広がった。彼女たちは、唯華の完璧さを、ただ純粋に受け入れている。そのことに、唯華は少しだけ、心の扉を開きかけた。彼女たちは、彼女を「人間演算機」としてではなく、一人の「唯華」として見ている。その温かい視線が、彼女の心をじんわりと溶かしていくようだった。
パンケーキを食べながら、他愛ないおしゃべりが続いた。学校での出来事、好きな芸能人の話、週末の予定。唯華は、彼女たちの話に相槌を打ちながら、中学時代には経験できなかった「普通の女子高生」としての時間を楽しんでいた。甘いパンケーキの味と、女子たちの明るい笑い声が、唯華の心の奥底に染み込んでいくようだった。それは、彼女がこれまで意識して避けてきた、人間らしい温かさだった。




