第35話、神月唯華の高校生活!1
東京の夜を騒がせた警視庁本部地下施設からの被拘束者奪還という前代未聞の事件は、唯華の通う都内有数の進学校にも、かすかな、しかし確実に波紋を広げていた。世間は公安警察の失態を連日報じ、治安の悪化を危惧する声が上がる一方で、「一体何者が、あの鉄壁の警備を突破したのか」という疑問が渦巻いていた。テレビやインターネットのニュースは、連日この話題で持ちきりだった。街を歩けば、どこからともなく事件に関する人々のひそひそ話が聞こえてくる。普段は政治や社会情勢に無関心な人々までもが、今回の事件には並々ならぬ関心を寄せているようだった。しかし、学校という閉鎖された空間においては、そうした社会の動揺はどこか遠い世界の出来事のように感じられ、生徒たちの日常は変わらずに過ぎていた。受験、部活、友人との他愛ないおしゃべり。彼らの世界は、学校という小さな箱庭の中で完結しており、外の喧騒はどこか他人事のように響いていた。
しかし、唯華の隣の席に座る鈴鹿裕樹だけは、漠然とした不安を募らせていた。彼の不安は、事件そのものよりも、神月唯華の微かな「異変」に起因していた。彼女はいつも通りの笑顔を浮かべ、完璧な優等生として振る舞っている。その姿は、周囲の誰もが「非の打ち所がない」と評するほどだった。だが、裕樹の目に映る唯華は、どこか違っていた。図書館での一件以来、彼は唯華の背中に感じる冷たい威圧感を、より強く意識するようになっていた。それは、彼が知る聡明で、いつも冷静で、周囲に優しく接する完璧な女子生徒としての唯華とは、あまりにもかけ離れたものだった。彼は唯華が「新日本解放戦線」なる危険な組織と関わっているのではないかという疑念を抱き始めていたが、それは確たる証拠のない、まるで悪夢のような憶測に過ぎなかった。
この疑念は、裕樹の心を深く蝕んでいた。眠れない夜が増え、授業中も唯華の横顔を見るたびに、その推測が脳裏をよぎる。しかし、その「異変」はごく微細なもので、誰かに話したところで信じてもらえるはずもない。ましてや、警察に相談するなど、笑い話にされるのがオチだろう。彼は、唯華に直接問いただす勇気もなく、ただ一人、内心の葛藤に苛まれていた。教室の窓から差し込む午後の光が、彼の胸の内をさらに重く感じさせた。
唯華の学校生活は、これまでと何ら変わりないように見えた。朝、彼女はいつも通り、クラスメイトたちと笑顔で挨拶を交わす。
「おはよー!」
唯華の声は、明るく、親しみやすい。その声には、一切の曇りがなく、聞く者の心を和ませる響きがあった。彼女の周りには、いつも自然と人の輪ができる。休み時間になれば、クラスの女子たちが唯華の机の周りに集まり、楽しそうに談笑する声が響く。まるで、彼女が磁石のように人を引き寄せるかのようだった。
「ねぇ唯華、この前の数学のテスト、どうだった?私、全然わからなくてさー」
ある女子生徒が、困ったように尋ねる。彼女の表情には、いかにも数学に苦戦しているといった様子が伺えた。唯華はにこやかに答える。
「あー、あれね。結構難しかったよね。でも、基本をしっかり押さえてれば大丈夫だよ。あの問題、確か…」
唯華は、ペンを手に取り、スラスラとノートに解説を書き始める。その手つきは迷いがなく、文字は整然と並ぶ。説明は的確で、分かりやすく、あっという間に女子生徒の表情に納得の色が浮かんだ。「あー、なるほど!そういうことか!」と、彼女は目を輝かせた。唯華は、勉強でも常にトップを走り、クラスメイトの質問にも嫌な顔一つせず丁寧に教えてくれるため、周囲からの信頼は厚かった。教師たちも、唯華の真面目な学習態度と、的確な受け答えに高い評価を与えていた。彼女は、まさに絵に描いたような優等生だった。
昼休み、唯華はクラスの女子たちと連れ立って学食へ向かう。賑やかな廊下を歩く彼女たちの笑い声が響く。
「唯華、今日は何にする?私はA定食にしようかな!」
「そうだね、私もA定食にしようかな。今日の唐揚げ、美味しそうだね」
唯華は、ごく普通の高校生のように、友人との会話を楽しむ。彼女の言葉遣いは、常にため口で、親しい雰囲気を醸し出していた。学食の賑やかな喧騒の中で、唯華は女子たちと笑い合い、今日あった出来事や週末の予定について話している。彼女は、芸能人のゴシップや流行のファッション、友人の恋愛相談にまで、ごく自然な相槌を打つ。その姿は、夜な夜な巨大組織の指揮を執る「最高指導者」としての唯華とは、あまりにもかけ離れていた。まるで、二つの異なる人格が、彼女の中で完璧に共存しているかのようだった。
裕樹は、そんな唯華の姿を、少し離れた席から複雑な思いで見つめていた。彼の目の前には、楽しそうに笑う完璧な優等生、神月唯華がいる。しかし、彼の心の中には、別の唯華の姿が焼き付いていた。図書館で見た、あの冷徹な眼差し。モニターに映し出された、意味不明な文字列と「新日本解放戦線」という言葉。彼の目には、完璧な優等生である唯華の笑顔の奥に、何か冷たいものが隠されているように感じられた。それは、彼だけの、誰にも言えない感覚だった。学食の喧騒が、かえって彼の孤独感を際立たせた。
授業中、唯華は常に真剣な眼差しで教師の言葉に耳を傾けていた。彼女の姿勢は常に正しく、背筋はピンと伸び、微動だにしない。ノートは丁寧にまとめられ、板書された内容だけでなく、教師の口頭説明までもが余すことなく書き記されていた。どんなに難解な問題でも、唯華はすぐにその本質を捉え、的確な解答を導き出す。
特に得意なのは、論理的思考が求められる数学や物理、そして社会情勢を深く分析する現代社会の授業だった。彼女は、教師が投げかける問いに対し、瞬時に、そして淀みなく意見を述べることができた。その言葉には、常に深い洞察力が感じられた。
「神月さん、この問題の解法について、何か意見はありますか?」
数学教師が、少し意地悪な笑みを浮かべながら尋ねると、唯華は迷いなく答える。
「はい。この場合は、まず変数を定義し、次に連立方程式を立てて…」
その声は落ち着いており、論理的で、クラスメイトたちは唯華の明晰な頭脳に感嘆の息を漏らす。「すげーな唯華…」と、誰かが呟くのが聞こえた。裕樹もまた、唯華の知性に感服する一方で、彼女の言葉の一つ一つに、何か計り知れない深さがあるように感じていた。それは、単なる学業の成績優秀さでは説明できない、ある種の「異質さ」だった。彼女の視線が、時折、遠くを見つめているように見える瞬間があった。まるで、彼女の思考が、目の前の授業内容をはるかに超えた、別の次元にまで及んでいるかのように。
テスト期間に入ると、唯華はさらに集中力を増した。放課後、クラスメイトたちが部活動や友人との交流に時間を費やす中、唯華は図書館に籠もり、黙々と勉強に打ち込む。彼女の机の上には、教科書や参考書が何冊も広げられ、黙々とペンを走らせる音が響く。
「唯華、もう帰らないの?また居残り?」
友人の一人が、声をかける。時計は既に夕方を指し、図書館の窓からは夕焼けが差し込んでいた。
「うん。もう少しだけね。この単元の演習、まだ完璧じゃないから」
唯華はそう言って、参考書に目を落とす。彼女の完璧主義は、学業においても遺憾なく発揮されていた。裕樹は、彼女が勉強している横で、自分も参考書を開く。彼が唯華に勉強を教えてもらうのは、もはや日常の光景となっていた。唯華は裕樹の隣に座り、彼が数学の問題で唸っているのを見て、自然と声をかけた。
「鈴鹿くん、この問題、どこで詰まってるの?」
唯華は、裕樹のノートを覗き込み、すぐに彼の苦手なポイントを見抜く。まるで、彼の思考回路が透けて見えているかのようだった。
「あ、えっと、ここの…この公式の使い方がよく分からなくて…」
裕樹は、しどろもどろになりながら答える。唯華は、ペンを手に取り、裕樹のノートの余白にサラサラと図を書き始めた。
「ああ、ここね。これはね、こういう風に応用すると分かりやすいよ。ほら、例えば…」
唯華は、根気強く、そして優しく裕樹に教える。彼女の教え方は、常に相手の理解度に合わせて調整され、裕樹はいつも唯華のおかげで苦手な問題を克服することができた。彼女の声は、どこまでも穏やかで、しかしその中に、知的な鋭さが宿っているのを感じる。裕樹は、唯華の優しさに触れるたびに、彼女が危険な組織と関わっているという自分の疑念が、単なる妄想であってほしいと強く願った。この完璧で優しい少女が、そんな恐ろしい存在であるはずがない、と。しかし、一方で、あの時見たモニターの映像が、彼の心を離れることはなかった。その映像が、悪夢のように彼の脳裏に焼き付いていた。優しい唯華と、冷徹な「唯華様」。二つの像が、彼の頭の中で激しくぶつかり合っていた。




