老人と犬
罷り間違っても「老人と海」ではありません。
老人と犬
金持ちの老人がいた。不老不死を望んでいた。ある賢そうな孤児を引き取り、英才教育を施し、その子は長じて電子工学の素晴らしい学者になった。
老人はその子に呪縛を仕込んだ。深層心理にかけた呪いとでも言うものか。一種の洗脳である。その呪縛は老人の言うことを聞け、逆らうな。そのため子供は老人の奴隷だった。現実には奴隷制度は違法だった。だから少年は奴隷ではない。表向きは。
少年は屋敷に住み、非常に金がかかる名門の学校に通い、衣食住が満たされ、それなりに贅沢な暮らしをしているように見えた。傍目からは。
ある日、その子に自分の意識をAIに移して永遠に自分の意識を生きながらせろと命じた。
その子はとてつもない発明をし、人の意識を移し替えることのできるAIを開発した。老人は若い男を買ってきて、屋敷に連れてきた。男は何もわからず、リビングの中でポツンとソファーに座り、老人のペットの犬に遊ばれていた。
老人はその男の脳を取り出し、老人の意識を移したAIをその男に移植するように奴隷扱いしているその子に命じた。
その子はひどく驚いたが、老人の言うがままに手術を始めた。
老人は目覚めた。が、その姿は犬だった。手術台には老人の抜け殻と、何もメスを入れられていない、若者がいた。
「社長、彼は私の弟です。」
その子は抑揚のない声で話した。
「ずっとずっと私は弟を探していました。弟は別の家に売られ、私はあなたに売られた。そして長い間、あなたのために数々の発明をしてきたが、私は報われなかった。だってあなたの奴隷なのだから。あなたの体の寿命が尽きているのは知っていた。延命は無理だともわかっていた。あなたの心を弟に移すなんてできない。それで犬にした。あなたのかわいがっている犬だ。あなたがそいつに心を移せと言った時、たまたま、犬もそばにいた。だから私はあなたに逆らったわけじゃない。あなたの言いつけ通りにそいつに心を移したのだから。さぞかし居心地がいいでしょう」
老人は何か言いたかった。この恩知らずとか、怒鳴りたかったが、出た声は犬の鳴き声だった。
「あなたのAIには少々おまけをつけました。犬の姿なのだから、犬らしく暮らしていけるように、犬の本能と、その行動をきちんとできるような補助のAIをつけておきました。だからどこから見ても完璧な犬です。まあ、犬と言っても、アンドロイドですよ。有機組織を表面に装備しているので、まあ、普通の犬です。血統書もついているお高い犬のように見栄えがいいですね。元々の犬は、それこそ、普通の人間が一生かけても贖えないほどの高価なものでしたからね。」
犬は基本短命である。少年が引き取られてからも数頭の犬が新たに買われ、数頭の犬が死んでいった。犬と遊びたいと何度も思ったが、それは叶わなかった。
少年は犬の頭をぞんざいに撫でた。
「でもあなたの言葉はあなたのAIの中だけでしか存在しません。外に聞こえないし、伝えることもできません。あなたはこれからずっとその犬の中で意識だけの存在として、ずっと生きていくんです。あなたの望み通りにね。」
犬は吠えた。怒りと、恐怖で吼えたがそれは手術室の中で虚しく響くだけだった。
「大丈夫ですよ。機械にも寿命があります。もちろん、人の寿命より遥かに長いですが、それでも永遠じゃない。経年劣化して、配線やプログラムにバグが出てきたりとか、ま、今の性能が保てなくなり、ゆるゆる、壊れていきます。それまでには相当の時間がかかりますよ。だってあなたのために私が精魂込めて作り上げた電脳なのですから」
犬は保護施設に引き取られ、子供のいる家庭に引き取られた。老人は発狂しそうだった。でも狂うこともできない。アンドロイドのボディは頑丈で、その子が最高の科学力で作り上げたこともあり、犬としては何の遜色もなく、可愛がられた。すでに多くのロボット犬が開発され、子供たちの友達として流通していた。本物の犬はとてつもなく貴重で、希少だったので子供たちはロボットの犬を友達にした。
犬はバイオ犬と呼ばれ、アンドロイドであり、でも手触りは普通の犬だと言う触れ込みで、扱われた。簡単に死なないと言うことで親が子供に与える犬としては最適だと言われた。犬の死に子供が悲しまないようにするためだ。
でも子供は大きくなると、犬に飽きていく。子供が大人になり、高等教育を受けるようになると、犬を捨てるようになり、犬は次の飼い主に引き取られた。
何代もの飼い主に可愛がられた。老人はただその光景を見ていた。犬は徐々に見窄らしくなった。
ある日、新しい飼い主がやってきた。母子家庭の子供で、足が不自由だった。犬は長い歳月の間に色々と機能が低下してきたので動きが緩慢になっていた。メカが経年劣化していたのだ。業者はこの見窄らしい犬をただ同然でその子に売った。その家族には、新しい犬を買う余裕などなかった。中古の古ぼけた犬は、業者としては価値もないガラクタだったがゴミとして出すよりはマシと言うことで少年のもとにやってきた。
その犬を少年は非常に大切に扱った。片時も離れず、優しく撫でてくれた。老人の意識はこの頃かなり朦朧としてきた。その中で優しい少年の手を嬉しく思うようにもなってきた。
ゆるゆるとこのまま消えていくのかと思っていた時、少年の母親が犯罪者グループに追われるようになった。彼女は夫を亡くし、水商売で子供を育てていた。その店に来ていた犯罪者たちに、目をつけられ、臓器売買にされようとしていた。少年は必死で母親を守ろうとし、怪我をする。犬は最後の力を振り絞って少年と母親を守り、そして壊れた。
騒ぎを聞きつけた街の人たちが、警察を呼び、救急車を呼び、少年は搬送された。レスキュー隊員は母親に向かって話しかけた。
「心配しなくて大丈夫ですよ。お子さんの傷、命に別状はなさそうですから」
犬が聞いた最後の言葉だったが、それは人生の中の何よりも嬉しい言葉だった。
ひとときの清涼剤になっていただけたでしょうか。悪人も時には善人になる。または善人も悪人になるという事でしょうか。