8-5
翔瑠お兄様の顔から気さくな表情が消え、呆れたような顔つきに変わる。
「いいだろう、だったら本題に入ろうじゃないか。お前、学校を辞めて家に戻る気はあるか?」
「……何て?」
予想外の提案が彼の口から出て、私は思わず聞き返してしまった。
「どうしてそんな話になるの? お兄様の目的はお祖父様の遺産でしょう? 私はそんなもの興味ないし、そもそも正式な相続書類だって受け取ってない。欲しいなら勝手に取ればいい……その代わり殺し屋を送り込むなんて姑息な真似はもうやめて。私のことは放っておいてよ!」
戸惑ってしまった私は、まだ言わずに溜めておこうと思っていた言葉まで一気にぶつけてしまった。これでは駆け引きも何もない……そう私が後悔していると、翔瑠お兄様は「はっ!」と短い笑い声を上げた。
「なんだ気付いてたのか、オレが殺人結社にお前の暗殺を依頼したこと。なら話は早い……今お前が言った頼みだが、それは聞けないな」
そう言いながら、翔瑠お兄様がソファーの脇に雑に置いていた何か大きい物体をテーブルの上に引き上げる。よく見るとそれは、私のスーツケースだった。実家からこっちに来る時に色々詰め込んでいたのもので、それ以来寮のクローゼットに眠っていた筈だけどなんでここにあるんだ?
「相続書類なんて受け取っていないと言ったな。お前はそのつもりでも……ジャン!」
翔瑠お兄様がスーツケースを大きく開き、奥に手を突っ込む。するとケースの底が中敷きを外すようにめくれ上がり、隠れた収納スペースが現れた。
「ええっ!?」
気を張る場面なのに思わず素の声が出てしまう私。まさか普通に使っていたスーツケースに薄い二重底が仕込まれていただなんて誰が想像するだろうか。そして隠しスペースに入っていたのは……厚いビニールで梱包された一束の書類と一枚のディスクだった。
「この通り、お前が時価120億の金塊を相続したことを認める正式な文書が入っている。ご丁寧に紙とデータの両方でな。その様子からすると、さしずめお前が家を出る直前にジジイが人を使って細工したってとこか。捜索にやった部下からの報告を聞いた時にはオレだってそんな顔になったさ」
お祖父様、サプライズなのか嫌がらせなのかわからないけど全く迷惑なことをしてくれた。それに、翔瑠お兄様の口ぶりからすると我が家は無断で家探しをされたらしい。お兄様が火急の用でこっちにすっ飛んで来たっていうのはその件でか。二重に腹立たしい。
「とまあ、ジジイの遺産を利用するために必要な物は既にオレの手にあるわけだ。こいつは本家に持ち帰ったのち、然るべき手続きを経て無道院家の管理とさせて貰うよ。お前が戸籍上家族の一員である限り、最終的な権限は家にあるんだからな」
「それじゃあ尚更、私個人のことなんてどうでもいいじゃない! それ持ってとっとと帰ってよ! あなたが引き起こしたこの戦いで傷ついてる人が居る……これ以上は私がっ」
私が許さない。得意げな翔瑠お兄様に私がそう反発しようとした瞬間だった。
「私が、何だって?」
ドン、と翔瑠お兄様がテーブルの上に革靴の踵を叩きつけた。その音に思わず気圧され、私は言葉の続きが喉につかえてしまう。
「くだらんチンピラを手懐けてちょっと生き永らえたのか知らんが、随分偉そうな口を利くじゃないか。家ではオレの足音がしただけでビクビク震えていたお前が……何様のつもりだ? ええ?」
「……っ!」
翔瑠お兄様の眉間にしわが寄り、言葉と一緒に視線で恫喝して来る。私は何か言い返そうとしたが、舌が麻痺したように動かない。それどころか指一本動かせないのだ。
(怖い……怖いよこんちくしょう!!)
実家での私はいつもこうだった。お兄様やお姉様の一挙手一投足に怯え、すくみ……彼らの気まぐれな悪意が私に向かないよう祈りながらじっと風景のように身を潜めているだけの日々。生きる場所を変えて忘れた振りをしていたけど、きっと私自身は何も変わっていない。現にこうして、翔瑠お兄様に声を荒げられただけで頭が真っ白になってしまう自分が居るのだから。
「ハッ、ウサギみたいに硬直するその姿も久しぶりだな」
私を怯えさせて少し溜飲が下がったのか、翔瑠お兄様の目から険が取れる。
「教えてやろうか。オレがお前の命に拘る理由。簡単さ、お前が許せないからだよ」
翔瑠お兄様がソファーから立ち上がり、テーブルを回り込んでこちらへ来る。その肩越しに見える窓の外ではいつしか曇天の空が雨を降らし始めている。
「次男なんて言えばマシに聞こえるかもしれないが、姉貴を入れたオレの序列はきょうだいじゃ三番目だ。そんな弱い立場でオレがどれだけ苦労してきたと思う? 絶対権力者である親父に見限られんよう期待に応え続け、力で勝てん兄貴や、頭脳で太刀打ちできん姉貴に迫害されんよう立ち回り続け、オレはやっとの思いで今の地位に立っているんだ。我ながら惨め極まるよ……まるでこの世の全てに媚びへつらっている気分さ。そんなオレが唯一意のままにできるのが香織、お前だった!」
「……っ!」
翔瑠お兄様に詰め寄られ、私は息を呑んだ。積もり積もった劣等感のために彼の目は濁っており、底が見えない沼のようだったから。
「知ってるか? お前はな、オレたち三きょうだいのガス抜きのために生まれたんだよ。親父はあれでも我が子には愛着があるらしくてな……オレや紗雪姉、正人兄がきょうだい同士の生存競争で倒れていくことを望まなかった。だから歳食ってからわざわざお前をこさえたってわけさ。きょうだいの中で誰より弱い……オレたちが気兼ねなくストレスを解消できる生きたサンドバッグとしてな!」
「そんなっ……適当なこと言わないで!」
「適当じゃねぇ! 紗雪姉も同意してるオレたち共通の見解さ。 お前だって薄々気付いてたんじゃないのか?」
「くっ……!」
あまりに無体な物言いをされ思わず声が出たが、確かにお兄様が言った内容は私にとって腑に落ちるものだった。私が生まれた時点で翔瑠お兄様が既に中学生、あまりに歳が離れている上にあの教育の不平等ぶりだ。お父様が私に興味がないのも納得できる……私が元からお兄様たちを育てるための「捨て石」だったのだとしたら。
「だからお前が高校進学を利用して家を出た時は驚いたよ。驚くと同時に怒りがこみ上げて来た。まさかサンドバッグ風情が前当主を動かして、己の役目からまんまと逃げおおせるなんてな……してやられた自分にも腹が立ったよ。だがオレも既に無道院家でそれなりの地位にあったからな。オモチャが一つなくなった程度で騒ぐのもアホらしいと思ったんだが……そこへ来てジジイの遺言だ。それまで一族の誰にもビタイチ分け与えなかった私有財産の全てを、あろうことか香織に譲るってな!」
窓の外で雨が激しくなり、黒雲の間を稲光が一つ迸る。その逆光の陰で翔瑠お兄様の顔が再び忿怒に染まる。
「こんなふざけた話があるか? 何もしてない、何も持ってない、やったことと言えば死にかけの老人に媚びて家から逃げただけ! そんなお前がのうのうと暮らしている上に120億まで手に入れるなんて……そんなことあっていいわけがないだろ!? オレにはどうあがいても手に入らないものをなんでお前ごときが持ってる!? お前はそんな器じゃないんだわかるだろ!? オレと違って何の努力もしていなければ、何の研鑽も積んでいないんだからなぁ!!」
翔瑠お兄様が私の肩を掴み、乱暴に揺すって恫喝して来る。そんな彼の叫びを一身に受けながら、私は不思議と頭が冴えていくのを感じていた。実家に居た頃、私にとって上のきょうだいたちはただ理不尽な存在でしかなかった。彼らが私に暴力を振るい尊厳を凌辱して来る理由など皆目わからなかった。でも、翔瑠お兄様の言葉を聞いて初めてわかった気がする。彼らもまた、自分が殺されないために足掻いているのだと。
《つづく》




