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「一応、双眼鏡は持って来ましたが……この距離なら不要ですね」
少林寺での修行を通して、美夢の視力は常人を遥かに凌駕している。眼球の移動訓練に始まり、霧煙る山中での物見の他、山の尾根に座し反対側の山頂に掛けられた経典を書写する仏陀眼の修行もある。
「あれは辛かった……目の血管が焼き切れるかと思った。いや、むしろ何本か切れて強靭に再生したのかな。ここ何年か疲れ目知らずなのはその所為かもしれません」
今の美夢にとって、数十万平米の遊園地を鳥瞰で観察することなど朝飯前。レンズで実像を屈折させる双眼鏡などない方が、景色の解像度も空間認識力も上がるのだ。
「香織さんはそろそろゲートをくぐる頃ですが……あっ、居ました。うふふ、ここから見ると豆粒のようで何と可愛らしい。お友達との会話も弾んでいるようです。おや、片方は保健の愛梨先生じゃありませんか。やはり仲良しさんですね!」
猿のように膝を抱えて木の股にうずくまり、美夢はしばし香織ウォッチングを楽しむ。目の焦点を彼女に合わせ続けながら、同時に視界の周縁ではメインストリートを行く人の群れを観察することも忘れない。
「……香織さん以外の個々人には目をくれません。群衆を海と捉え、そこに立つ波を見る。そうですよね師父……くぅ~! あの修行もキツかった」
群衆の動きには波と言うべきパターンがある。異なる意図を持つ人同士の歩みが交錯して出来る波……満ちたり引いたり、潮目を作ったりと形は様々だ。その波紋を敢えて突っ切る者が居るとすれば、それが香織を狙う暗殺者である可能性が高い。
そうやって観察を続け、2時間も経とうかという時だった。
「おや、あれは」
と、美夢の鷹の目が群衆の中にある違和感を捉えた。園内の四方八方から、人混みを縫うように進んで来る不自然な来場者たち。注意深く目を凝らしていると、そのうちの一人が己の耳に装着した小さな機器に手を触れた。園内ショップで買える派手な帽子に隠されているが、どうやら無線のインカムらしい。
「血影衆の兵隊……既に配置についていましたか。あれで連絡を取り合いながら、香織さんを包囲して連れ去るつもりですね。そうはさせるものですか」
美夢は瞳孔のピントをコントロールし、敷地全体を広く見渡す。そうして見える敵の数はぴったり10名。頭数を念入りに数えつつ、各個の服装など外見の特徴も素早く記憶した。園内を回る香織に向かってじわじわと包囲網を狭めている彼らを、これから全て阻止しなければならない。早速行動に移るべく、美夢は枝から飛び降りて斜面を走り出した。
と、その時だった。奇声と風切り音がして、敵の兵隊が4、5名ばかり躍り出て来た。恐らく美夢が園内に入るのを阻止するつもりなのだろう。崖を迂回する下り坂に集団で立ち塞がり、美夢を一歩も通さぬ構えだ。
「どきなさい! 死にたいのですか!」
怒号に近い警告を発し、美夢が臨戦態勢に入る。一人の兵隊が構わず飛び掛かって来るが、そんなものは脅威にならない。
「ぜえいっ!!」
しなやかな飛び回し蹴りを繰り出し、空中で横薙ぎに撃ち落とす。哀れ兵隊は吹っ飛んだ勢いで木の幹に叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
「無駄だというのがわかりませんか!」
美夢は続いて残る兵隊も料理しようとするが、ここで相手が攻め方を変えた。4人で散開して美夢を取り囲み、縄を結わえた枷を四方から投げつけて来る。その迅速な連携に美夢は対応できず、瞬く間に両手両足を拘束されてしまった。
「ちいっ……!」
《つづく》




