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「少林寺の修行にさ、寝ない特訓とかないの? それか睡眠時間を最短にする技とか」
「ありますよ。と言うか座禅がそうなんですけど、実は苦手で……常時力んでないと寝ちゃうんですよね」
「意外と出来ないこと多いんだね」
「で、出来なくはないですから。これから毎晩練習です。……おや、これは」
子どものようにムキになりかけた美夢さんが、ふと鼻をひくつかせる。目的地が近いことは伝えていないのに、こういう動物的な感覚は冴えてるみたい。
「この独特な香り……ああ、菜の花が咲いていますね」
「すごいね、当たりだよ。ほらあそこ」
堤防にかかった小さな橋。その袂の下にひっそりと隠れるように、猫の額ほどの菜の花畑がある。今日の目的地は、他でもなくこの片隅なのだ。
「行くよ」
「あっ、はい。香織さん足下に気を付けて」
私は美夢さんと土手を下って、菜の花畑の前に立つ。間近で見てみてもやっぱりこぢんまりとしてて、群生と言えるような規模でもない。多分どこかの畑から舞い込んで来た種がここに根付いて、たまたま誰にも刈られることなく……生息域を広げることもなく、今日まで息づいて来たんだろう。近所の人に尋ねる限り、管理者は居ない。だから厳密には畑ですらない。
「どう? シケた場所でしょ」
「いえそんな」
即答で否定する美夢さん。別に気を遣わなくていいのに。
「上が橋だからね。陰になって暗いし、結構ゴミも落ちてる。でも、私にとっては特別で……忘れられない場所なんだ。はい、美夢さんもこれ」
私は、二組持って来た軍手とゴミ袋の一方を美夢さんに渡す。今日ここに来たのは掃除のためと……美夢さんに私のことを少し話すためだ。
「私ね、ちっちゃい頃にもここに来たの」
お腹の柔らかい所を晒すような、心許ない気持ちが胸の奥で騒ぐ。美夢さんの顔は見ない。反応を気にしてたら喋れなくなる気がするから。まず手近な空き缶などを拾いながら、私は続きを話す。
「小学校……はギリギリ行ってなかったと思うから、11年前ってことになるのかな。お父……や、父親がこの近くに出張の予定があってね。その時はたまたま、私やきょうだいも一緒に連れて来られたんだ」
そう、本当にたまたまだ。少なくとも6歳児の頭で理解できる理由ではなかっただろう。振って湧いた遠出の機会に、幼心に高揚したのを覚えている。出発の前夜、布団の中で頻りと拳を握ったことも。
「それで私は……この辺りで迷子になった」
そう、迷子だ。今の半分もない歩幅で、長い時間あてどもなく歩き続けた。その時の私がどんな顔で泣きじゃくり、どんな言葉で泣き叫んでいたのかは流石に記憶にないけれど……目に映る全てがとてつもなく大きく見えて、寒気のするぐらい世界が広くがらんどうに見えたのは今でも実感があるほどだ。そして、涙で前後も覚束ない視界の中で……このひっそりとした菜の花畑を見つけた。
「今だからわかるけど、子どもって視点が低いじゃない? それに知らない土地でパニック起こしてるから平地と坂道の違いもわからなくて、ずるずる傾いてくみたいに河川敷に迷い込んで……そんな感じで、ここを見つけたんだと思う。そんな気がする」
今だと、上の土手や橋を歩いているだけじゃきっと気付けない。あの出会いも本当にたまたま……偶然の巡り合わせだった。そしてその巡り合わせが、幼い私の心に衝撃をもたらしたんだ。
「……綺麗だと思ったんだ。そしてものすごく嬉しかった。不安も涙も引っ込むぐらいにね。生まれて初めて自分の目で、足で、自分だけの宝物を見つけたと思ったの」
《つづく》




