エピローグ
血影衆の殺手、旋風が倒されてから三日が過ぎた。戦いの舞台となった沿岸の病院に、私は今日再び足を運んでいる。ただし、自分の足ではなく黒塗りの厳めしいリムジンに乗って。その車は私の姉……無道院家長女、紗雪の手配したものだった。
「こうして隣に座るのも、何だか随分久しぶりね。香織」
今、後部座席には私と紗雪姉様が並んで座っている。車に乗るなり下を向いてだんまりを決め込んでいた私に向かって、紗雪お姉様が優しげに声をかけた。
「翔瑠のしでかしたことは全て聞いたわ。ちゃんとわたくしからお灸を据えておくから……もう貴女に手出しはしないと思う。助けてあげられなくてごめんなさい。一人で頑張ったわね」
「……いえ」
紗雪お姉様からの謝罪も労いも、私は受け取らない。表面上こそ穏やかでも、この人だって無道院家の人間。しかも弱肉強食の理の中で勝ち残って来たいわばエリートだ。今だって腹の底で何を考えているかわからない。私のことだって、知っていてわざと手出ししなかった可能性だって大いにある。
「貴女がわたくしのペットに戻ってくれるのなら、今後はわたくしが守ってあげられるのだけど……どう? 帰って来るつもりはない?」
「結構です」
それに、私はこの人から実家で受けた仕打ちを決して忘れはしない。思い出すだけでゾっとするのを堪えながら、私は横目で紗雪お姉様を睨みつけた。お姉様はそれに怯むことこそしなかったが、軽口を叩いていた口元を俄かに引き締め、一段低い声で言った。
「冗談よ。貴女は自分の持てる力を駆使して自由を掴んで……命を脅かされてもなお抵抗の意志を示し続けた。無道院の帝王学に照らすなら、それは紛れもなく強者よ。わたくしだって、己に牙を剥くとわかっている者を手元に置いておくほどお人好しではないわ」
リムジンは海の見える国道を緩く曲がって行き、日に照らされた病棟が山肌の向こうに見えて来る。それを一瞥し、紗雪お姉様はこう続けた。
「貴女はこれまで通り、貴女の日々を生きていきなさい」
「お姉様……」
彼女の気質を知っている私にとっては、意外すぎるほど寛大な言葉だった。私は戸惑ってしまい、思わずお姉様の顔を見る。
「どうしてですか? 嘘みたいに優しいじゃないですか。今回のことが警察沙汰にならなかったのも、私が予定通り遺産を相続できることになったのも、お姉様が計らってくれたんですよね? 何の目的があって……」
そこまで言って、私はお姉様が私を見つめ返して微笑んでいることに気付いた。私から積極的なリアクションを貰えたことが嬉しくて仕方がない、そんな顔だった。
「勘違いしないで。翔瑠が妙な動きをしてるから追いかけて来てみれば、翔瑠の拳銃に発砲した痕跡があるじゃない? どこかにめり込んでる弾丸を見つけ出して、確実に隠蔽しなければならなかった。そのついでに諸々の火消しをやっただけよ」
そうか。一応、日本の法律に則って存続している以上、無道院家の者が発砲騒ぎを起こしたとなれば問題になる。血影衆の殺し屋と違って、お姉様たちにはそういう弱点があるんだ。でも、その拳銃を撃ったのって……
「ね? 貴女はまた、自分の手で自由を掴んだのよ。本当に厄介な子だわ」
「……誉め言葉として受け取っておきますね」
私も紗雪お姉様に向かって控えめに微笑み、車内には一瞬だけ和やかな空気が流れた。そうしているうちに、車は病院の駐車場に入り、エントランス前に停車した。
「着いたわね。今日は話せて良かったわ。……ああ、そうそう、忘れるところだったわ。香織、ちょっと見て頂戴」
私を見送りかけた紗雪お姉様だったが、不意に座席シートの上に膝立ちになってトランクを漁り始めた。今のお姉様の服装はパンツスーツだからめくれるものは何もないけど、ちょっとはしたないんじゃない?
「翔瑠が貴女の部屋を捜索した時に、あの林美夢の荷物も押収してたらしいんだけど……こちらで検分していたら面白いものが出て来たわよ」
そう言って紗雪お姉様は、何やら薄汚れた布の塊を私に投げ渡した。慌ててキャッチしたそれは、辛うじて元の布地がピンク色をしていたらしいことはわかるけど……皮脂やら埃やらがべったり付着して見るも無残な状態になり果てていた。動物の耳や手足と思しきパーツがあるから、ぬいぐるみ……なのかな。
(美夢さんの匂いがする……気がする)
私が雑念交じりにそのぬいぐるみを弄んでいると、紗雪お姉様が続いて一枚の写真を渡して来た。
「参考資料よ。貴女がごく小さい頃の写真」
「はぁ。と言うかお姉様、このボロいぬいぐるみが一体何の……えっ」
と、私はそこであることに気が付いた。写真に写っていた幼い日の自分の姿を見て、頭の奥底に仕舞い込まれていた記憶が急速に蘇って来たのだ。
「やっぱり忘れてたか。貴女、あの後高熱出したりで大変だったものね」
そのことも忘れてた。どうしよう、私、わかってしまったかもしれない。
「紗雪お姉様、私、私……っ!」
「ストップ。わたくしに言ってもしょうがないでしょう。そこから先は本人に、ね?」
興奮する私を押し留め、紗雪お姉様が運転手に指示してドアを開けさせる。乱暴にシートベルトを外して飛び出して行く私の背中に、彼女は「香織」と声をかけた。
「忘れないでね。貴女の自由は期限付き……高校を卒業する時になればまた戦いが待っているわ。無道院家のくびきから逃れたいのであれば、慢心せず自分を鍛え続けなさい。更に強くなった貴女と相まみえるのを、わたくしは楽しみにしているわ」
その言葉に突き刺され、私は一旦立ち止まる。そして車の窓越しに手を振る紗雪お姉様の方を振り返り、めいいっぱい挑発的な笑みを浮かべて言った。
「望むところです、お姉様!」
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病院の受付を通り、私は教えられた病室を目指す。日当たりのいい個室のドアを開けると、ベッドの上には美夢さんが寝ていた。
「あっ……」
私の顔を見て、美夢さんが気まずそうに目を伏せる。頭には包帯が巻かれ、頬にはガーゼ。腕にはギプスが装着されている。毛布に隠れている体にもさぞ色々くっついてるんだろうけど、体を起こして座ってるし目の焦点もはっきりしている。とりあえず大丈夫そうだ。
「やほ、美夢さん」
私は敢えて仏頂面で挨拶をして、ベッド脇の椅子に腰かけた。美夢さんがここに入院してから、これが初の面会となる。
「……」
「……あう」
沈黙を貫く私にビクビクしながら、美夢さんが耐えかねたように口を開く。
「い、いや~……全く幸運でしたよ。まさか一緒に落ちた旋風の体がクッションになって、地面に激突せずに済んでいたなんて。おかげでICUからも三日で出られましたし、先生も看護師さんも驚いていましたよ。奇跡だーって! いやしかし今回ばかりは本当に駄目かと思いました……本当に死ぬかも~~ってぶはっ!?」
美夢さんの軽口が中断される。私が椅子から立ち上がり、美夢さんの頬を思い切り叩いたからだ。
「いっ、いったぁ~~~い!! な、ななな何するんですか香織さんっ」
「死ぬかも、じゃないでしょ!? 美夢さん死ぬつもりだったんじゃない!!」
痛みで涙目になる美夢さんに向かって、私は感情を爆発させる。仏頂面が維持できなくなり、歪んだ目元から涙がポロポロ零れて来る。
「怖かった……美夢さんが居なくなっちゃうかもって思うと、怖くて眠れなかった。私言ったよね? 私たちこれからだって。一緒に来て欲しいって。なのに……なんであんなことしたのよぉ……!」
美夢さんの体に縋りつき、病院着に包まれた胸をポカポカ殴りつける私。美夢さんはそんな私の頭に手を沿え、慰めるように撫で始めた。その場当たり的な態度が私の勘に障る。
「勝手に触んな!……今そんなごまかし要らないんだよ」
「す、すみません」
私に胸を貸したまま、美夢さんが手持ち無沙汰で困っている。私はそのまま気の済むまで泣いて、美夢さんをシバいて、10分ぐらい経っただろうか。少し落ち着いた私は、さっき紗雪お姉様から渡されたぬいぐるみを美夢さんに差し出した。
「こっ、これは」
美夢さんが驚きに目を見張る。
「……美夢さんの鞄から出て来たって。うさちゃん……美夢さんが言ってたのって、これのことでしょ」
ピンクの布地に、長い垂れ耳。豆粒のような目に加えて口をすぼめたそのデザインは、整理してみるとウサギのものだとわかる。そして参考資料の写真だ。写っているのは恐らく5、6歳ぐらいの私……今の私もよくやる不機嫌な表情を浮かべたその幼児が胸に抱えているのは、ウサギのぬいぐるみ。今ここにあるボロぐるみの、まだ新品に近かった頃の姿がそこにあった。
「私があげたのね。このうさちゃんを、美夢さんに」
「……はい」
物的証拠を見せつけられ、美夢さんが観念したように頷く。
「お詫びになるかわかりませんが……お話しましょう。わたしが何者かを。わたしが、香織さんとどんな出会いをしたのかを」
美夢さんが深呼吸をし、覚悟を決める。私はそれに応えるように椅子に座り直し、彼女の独白を聞く。
「わたしは、元々格闘技なんて習うタイプじゃありませんでした。地元がこの辺で、実家から大学に通いながら体操でオリンピックを目指していたんです」
「体操……」
美夢さんが戦いの中でしばしば見せた、曲芸や軽業を思わせる動きが脳裏をよぎる。あの動きはやっぱり少林拳の技じゃなくて美夢さんが別に持っていた特技だったんだ。
「父は早くに亡くなって、母は女手一つで私を大学に通わせてくれていました。わたしもオリンピックで結果を残して、母に恩返しをしたいと練習に励んでいました。決して豊かではありませんでしたが、充実した日々でした。しかし……ある日母が倒れてしまったんです」
美夢さんの表情が曇る。辛い記憶を引き出しているのが私にも伝わる。
「過労に加え、重い癌に冒されていました。母の収入に頼っていた我が家の家計は瞬く間に崩壊し、わたしは大学を辞めて働くようになりました。もちろん、体操ともお別れです。でも良かったんです。それまで自由に夢を追わせてくれた恩を返すと思えば、悲しみにも耐えられた。わたしは母の治療費を賄うため必死で働きました。元がスポーツ一本でやって来た人間ですから、社会人としての生活には早々に不適応を起こしていましたが……それでも心を殺して二年ほど会社勤めを頑張りました」
病室の風景をふと眺めて、美夢さんが溜息をつく。美夢さんも、今の私のようにお母さんのお見舞いに来ていたのあだろうか。私と同じように、不安に震えながら。
「幸い、母は大きな苦しみもなく安らかに息を引き取りました。緩和ケアが上手くいったんですね。でも、一度殺した私の心は元には戻らなかった。夢を捨て、己を捨て、ただ母のために身を捧げて来た……そのツケはあまりにも大きかったんです。母の葬儀を終えた後、わたしは抜け殻のようになってしまいました。会社を辞め、人と関わることもやめ、もういっそ生きていることもやめてしまおうかと。そして心身ともにボロボロの状態で、辺りを彷徨い……そしてあの河川敷で力尽きていたんです」
美夢さんが私を見る。私も美夢さんを見ながら思い出していた。この前美夢さんと一緒に訪れた、菜の花の隠れ住む橋の下を。幼い私が見つけ出した、あの宝物のような場所のことを。
「そこで、私と出会ったのね」
「ええ。11年前のことになります」
美夢さんが慈しむような目を向けながら頷く。11年前の二人の記憶が交わっていく。ここからは私も昔語りに加わらせて貰う。
「美夢さん、覚えてる? 私があの場所を見つけたのは、迷子になったからだって言ったの。あれ、半分嘘なんだ。迷子になったのは本当だけど……元はと言えば家出だったの」
そう、家出だ。出張するお父様に連れられて珍しく家を離れられた6歳の私は、それを機にどこか遠くへ逃げてしまおうとしたのだ。後先なんて考えていなかった。とにかく家中から虐げられる現状から逃れたくて、数枚のクッキーとお気に入りの遊び道具を鞄に突っ込んで宿泊先から抜け出した。その荷物の中には、例のうさちゃんぬいぐるみもあった筈だ。
「6歳で家出ですか! 香織さんガッツありますねぇ。道理で迷子にしては装備が整っていたわけです」
「やめてよ恥ずかしい。結局右も左もわからなくなって大泣きしてたじゃない」
私が幼さゆえにぼんやりとしか覚えていないことを、当時から大人だった美夢さんははっきり記憶しているらしい。それが何だかむずがゆくて、私は美夢さんの膝を一発シバいた。
「あ~あ、なんであんな無茶なことしたんだろ。若気の至りだよ」
「いえいえ、そのおかげで香織さんはわたしを見つけてくれたじゃないですか」
美夢さんが遠い目をして再び語り出す。
「あの時、橋の下に横たわっていたわたしに、香織さんはクッキーを差し出してくれました。自らも不安で、ひもじくて仕方がなかったでしょうに……目の前で憔悴しているわたしを気遣ってくれたんです。そしてわたしたちは菜の花を眺めながらしばし語らいました」
「うん、それ何となく覚えてる。てか……思い出したよ。さっき」
私は目を閉じ、美夢さんの手を取る。その脳裏に、幼き日に交わした言葉の数々が蘇って来る。
――おねーさん、震えてる。怖いの?
――ええ、そう……ですね。怖くて仕方がない。生きる目的がない、自分の居場所がどこにもないというのは、すごく怖いです。子どもの貴女に言ってもわからないかもしれませんが。
――そうなの。……私と同じね。
――えっ?
――私もね、居場所がどこにもないの。みんな私を虐めて来て、まるで世界か私なんか要らないって言われてるみたいで。だから、今私嬉しいの。生まれて初めて、世界がキラキラして見えるの。自由ってこんなに気持ちいいんだって、わかったの!
――自由……ですか。
――そう、自由! おねーさんも自分のしたいことをすればいいのよ。もし怖くて動けないなら、はい! これあげる。
――これは、うさちゃん? このぬいぐるみを、わたしに?
――私ね、怖いことがあるとすぐウサギみたいに固まっちゃうの。それをいつもお兄様に笑われて、すごく嫌なの。この子を抱っこしてると安心するけど……もう要らない。私、ウサギは卒業するの。代わりにおねーさんにあげる。悲しい時はこの子をぎゅ~ってしてみて! きっと元気になれるから。
こうして私はうさちゃんを手放し、それ以来ウサギにまつわるグッズは持ち歩かなくなった。美夢さんにうさちゃんと言われてもピンと来なかったのは、それを私が遥か昔に卒業していたからだった。
「居場所がないなら、自ら求めに行けばいい。幼い香織さんの言葉は単純でしたが、それだけにわたしの胸を打ちました。そして思ったんです。この優しく強い女性を守りたい……この女性が将来、その気丈さゆえに危機に陥った時、傍で守れる人間でありたいと。夢も家族も失った空っぽのわたしにとって、それが新たな目的になった。立っていたい居場所になったんです」
「美夢さん……そう、なんだ」
美夢さんは折に触れて言っていた。私が美夢さんを救ったと。私にその実感は全くなかったが、幼い私の無謀な行動が彼女に生きる目的を与えていたと思うと何やら胸がいっぱいになってしまう。そして、その後彼女と交わした言葉もだんだん鮮明に思い出されて来た。
――私、大きくなったらここに住みたい。ここに来る途中、学校が見えたの。今のおうちは遠く遠くにあるんだけど……いつか絶対あの学校に通ってみせるわ。だから、そこでおねーさんとまた会いたい。おねーさん、それまで負けちゃ駄目だよ?
――ええ……ええ! この菜の花に誓いましょう。必ずここで貴女と再会し、貴女を守ると。だから貴女も……負けないでください!
あれは、探しに来た家の者に見つかって連れ戻される直前の私が、美夢さんと交わした会話の一部だった。この約束が頭の隅にあったから私は今の高校を選んだし、美夢さんとも再会できたのだ。
「で、そこからわたしは家財道具の全てを質に入れ、旅支度を整えて中国に渡りました。一般的に知られている嵩山少林寺はだいぶ俗っぽいことがわかりましたので、思い切って伝説上の存在とされている南の福建少林寺を探して山へ分け入ったのですが……この辺も詳しく話した方がいいですか?」
「あー、いいやその辺は。また今度ね」
ここから修行時代の話を聞いてたら日が暮れそうだし、私の頭もパンクしちゃうからね。しかし強くなりたいからっていきなり本場の少林拳を習いに行くなんて、美夢さんの思考回路もかなりぶっ飛んでるよね。強くなり方も色々あるだろうに……法律を学ぶとか、お金持ちになるとかそういうことを考えないのはまあ美夢さんらしいかも。おかげで私の命を助けるのに一番良い力を手に入れてるんだから、運命ってすごいよ。
「でもまあ、色々わかってスッキリしたよ。体しんどいのに話してくれてありがとね」
「いえそんな、気にしないでください。わたしのことなんて……」
と、美夢さんの表情が曇る。ちょっと雰囲気が明るくなって来たのに、どうしたんだろう。
「わたし、やっぱりダメダメです。香織さんの命さえ守れればいいと考えて……危うく香織さんに一生もののトラウマを背負わせるところだったんですから。わたしは自分の夢を叶えるために、香織さんの気持ちをないがしろにしていたんです。こんなんじゃ……護衛とは言えませんよ」
美夢さん、私の目の前で飛び降りたことを意外と気にしてたんだ。そりゃ私も悲しんだし腹も立ったけどさ、何もそんなに自分を卑下しなくなって良くない? さっきちょっと怒り過ぎたかな。
「体が動かない間、香織さんが旋風に言い放った言葉を思い出していました。人を己の自己満足に利用してはならない……全くその通りです。わたしが香織さんにしていたのは、まさにそれではありませんか」
「そんな、私そこまで思ってないよ!」
「わたしがわたしを許せないんです!!」
「……っ」
美夢さんが辛そうに声を荒げ、私は思わず気圧されてしまう。美夢さんは少し申し訳なさそうな顔をしてから、息を整えて言葉を続けた。
「血影衆の請け負う暗殺任務には、割ける人員と時間に限りがあるそうです。今回差し向けられた殺手は全員倒しましたし、期限もとっくに過ぎています。何より依頼者を押さえることができたのですから、もう香織さんに危険が及ぶことはないでしょう」
「えっ」
ちょっと待って美夢さん、何を言い出す気? 嫌な予感がするんだけど。
「……契約は終わりです。この怪我が治ったら、わたしはこの地を離れようと……ぶひんっ!?」
ほらやっぱり要らんこと考えてた。私は平手を振り上げ、再び美夢さんの頬をビンタした。
「いっっっったぁ!! 痛い!! ちょっと香織さぁん! わたし一応怪我人……」
「うるっっっっっさい!! 何を言い出すかと思えば、寝ぼけんなこのバカ!!」
私はベッドによじ登り、美夢さんの上に馬乗りになった。急な荷重に美夢さんが痛みを訴えるのには構わず、病院着の胸倉を掴んで彼女の顔を引き寄せる。
「いい? さっき私がなんで怒ったのかよく考えて。それから美夢さん自身が言ったこと! 美夢さんが死んだらなんで私にトラウマが残るのか、そこんとこちゃんと頭を整理して!」
「えっ……ええ~~!? そんないきなり言われても……てか香織さん近い! お顔が近いです!」
こっちが真剣に問い質してるのに、美夢さんは照れるばかりで取り合わない。このしょうがない大人に、私は正解を教えてやることにした。
「……私は美夢さんが大切なの。最初は契約だったかもしれないけど、えっちさせろとか非常識なこと言ってたけど! 美夢さんに守られてるうちに、一緒に過ごしてるうちに、私はもう美夢さんが居なきゃ寂しくて仕方がない子になってるの!! これからもずっと一緒に居たいの!!」
自分で言ってて噴飯ものの台詞が、どんどん口から出て来る。顔が熱くてしょうがないけど、ここまで言えば流石の美夢さんも察するんじゃない?
「……はぇ?」
と思ったけど、美夢さんは呆けた声を出して絶句している。いや何なんだよその間抜けな顔は。これでもわかんないとか鈍感にも程があるでしょ。寺暮らしで脳みそまで筋肉になっちゃったとか?
「あ~~~~~もうじれったい! ちょっと目ぇ閉じて!」
「は、はいっ!」
業を煮やした私は美夢さんの胸倉を掴んだまま更に顔を近付け……彼女の唇に自分の唇を重ねた。詳しいやり方なんて知らない。ただ絵で見たようなことをそのまま再現しているだけ。ただ自分の思いを唇に乗せて相手に口移す……そんな不格好な、しかし私にとってのファースト・キスだった。
「ぷはっ……か、かかか、かおり……ひゃん!? 今のは……っ」
唇を離すと、美夢さんが目を見開いて盛大にキョドっている。このヤロウ目ぇつぶってろって言ったのに。でもいい気味だ。
「……好きだって言ってんのよ。わかった?」
好き。美夢さんが好き。不器用なりに精一杯私を気遣ってくれて、力の限り守ってくれて、私を笑顔にしようと頑張ってくれる。そんな美夢さんに、私はいつしか恋してしまっていたのだ。そして、今は美夢さんのことも守りたい。美夢さんがまた生きる理由に迷うことがあったら、私がその理由になってあげたい。つまるところ、永遠に共に生きて行きたいってとこかな。
「今後一切、私の前から勝手に居なくなることは許さないからね。私をこんな気持ちにさせた以上、責任は取って貰うよ。まあ残念なことに? 無道院の家に生まれた以上、私の人生には戦いが付き物だから。また美夢さんに頑張って貰うこともあるかもしれないし……って何絶句してんの?」
私の口から好きという言葉が出てから、美夢さんは黙りこくってしまっている。キョドっていた表情も落ち着いたものになり、何だかスンとしちゃった感じ。
「おーい、聞いてんの美夢さん。返事はどうしたのよ、返事……きゃっ!?」
突然、美夢さんが私の体を両手で抱え上げ、上下を入れ替えてベッドの上に押し倒して来た。大きな体に覆いかぶさられ、私の視界が美夢さんで埋め尽くされる。ってかあんた動けたのかよ!?
「香織さん……わたし、どうしちゃったんでしょう。香織さんから愛を告げられて、嬉しいのか、幸せなのか……とにかく胸がキュンキュンして止まりません……!」
美夢さんの目、熱っぽく潤んで凄く色っぽい。それに私の顔にかかる吐息が熱くて……これがあの美夢さんなの? 本当に、私の手に触れるだけで真っ赤になってたあの美夢さん!?
「わたし、今ならできそうな気がします。香織さんと……えっちなことしたいです」
「ちょっ、ちょっと待って! おいコラ止まれ……ひうっ」
戸惑う私に考える時間をまるで与えず、美夢さんが私の服の裾から手を入れ、体に指を這わせて来る。いつもの大型犬みたいなハグからは想像もできないようなソフトでいやらしいタッチに、私は思わず変な声が出てしまう。未知の感覚に、体が震えてしまう。
「嫌っ……ちょっ、どこ触って……んあっ……もう! そんなイキったって効かないんだから! 私知ってるもんね、美夢さんが本当はえっちなことなんて全然知らないおこちゃまだって!」
「フフッ、そうですか?」
美夢さんがいたずらっぽく笑い、私の首筋に顔を寄せて来る。
「ひゃんっ!?」
敏感な所に彼女の唇が触れ、私は耐えられず体が跳ねてしまう。
「そういう経験がないなんて、わたし一言も言ってませんよ?」
「ふえぇ……っ?」
いつになくイケイケな美夢さんに触れられて、とうとう私の目までうるうるになって来た。
(待って待って。つまりは美夢さんって普通にえっちなことは知ってて、今までは単純にヘタレて出来なかっただけってこと!? それが私の告白で理性のタガが外れて……となると私、なす術なし!? こんな個室で大人のお姉さんに押し倒されて、美味しくいただかれちゃうの!?)
私の胸が高鳴って、変な脳内物質が溢れ出て、何だか思考までユルユルになって来るみたい。私の首筋や頬に更なるキスの雨を降らせながら、美夢さんが熱っぽい声で囁いて来る。
「香織さん、いいですよね? わたし、香織さんを守り通しました。その分のご褒美は契約通りいただいていいんですよね? それに香織さんがわたしのことを好きなら……尚更問題ないじゃないですか。ね?」
「す、好きだよ。確かに美夢さんのこと好きだけどぉ……でもまだ、まだ心の準備がぁっ」
「駄目、待てません。わたしはこの時を11年も待ったんですから。もう一秒も我慢できないんです。ああ……香織さんの肌、香織さんの匂い……夢のようです。では、いただきますね……」
「まっ、待って美夢さん! 待っ……あっ」
と、病院の片隅で今にも不埒な行為が始まろうとしていたその時だった。
「はーいそこまで。公共の場でのにゃんにゃんはお控えください」
病室のドアが開き、愛梨ちゃんが満面の笑顔で入って来た。その後ろにはメメちゃんも茹でダコのような顔で隠れている。
「かっ、かかかかおっ! 見損なったよ……ウチというものがありながら、不潔! 不潔だよぉ~~~!」
「だっ、誰が不潔だコラーーーッ!! でも愛梨ちゃんいいとこに来た! この発情アニマルひっぺがして!」
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かくして愛梨ちゃんの手で美夢さんは元の通りベッドに寝かされ、私の貞操は危ないところで守られた。美夢さん、愛梨ちゃんの声がした瞬間にびっくりして硬直しちゃったから、そこからは楽な仕事だったみたい。
「す、すみませんでした……わたしとしたことがあまりの嬉しさに煩悩が体を支配してしまったようです。まだまだ修行が足りませんね」
「わかればよろしい。でもまあ二人の家でやってくれる分には構わないわよ。むしろ、後であたしに録画を送って欲しいくらい」
愛梨ちゃんがアホなこと言ってるけど、美夢さん本気にしなくていいからね。
「か~~~お~~~~~、かおはウチ一筋で居てくれるよね? よしんば美夢さんと付き合ったとしても週三ぐらいで浮気してくれなきゃやだよ? てかウチにもチューしてよぉ~~~」
「はいはい、後でね」
腕にまとわりついて来るメメちゃんをあしらいながら、私は紅潮した頬を仰いでほとぼりを冷ます。てかこいつら、少なくとも私が美夢さんにキスするあたりからずっと見てたな? 我が友人ながら悪趣味が過ぎるだろ。
「ん~~~かお好き! 好き好き好き! かおのこと好き度じゃウチは誰にも負けないんだから」
メメちゃんにしても……今言ってるのがどのくらい本気なのか確かめとかないとね。生半可で放置してるとそのうち私が刺されかねないから。
「フフッ」
不意に、美夢さんが笑い声を漏らした。何笑ってんだこいつ。反省が足りないんじゃないの。
「どしたん急に」
「いえ、いい雰囲気だなって思いまして。香織さんのために戦うことばかり考えて来ましたけど、香織さんと共に生きていくってこういうことなのかなと……ふと。えへへ、何だか楽しみになって来ました」
「……あっそ」
えへへはいいけどさ、このしっちゃかめっちゃかな空気だけホントどうにかして欲しいよ。折角、胸キュン小説みたいなロマンチックなムードだったっていうのに……本当に逆王子様なんだから。
「ちゃんと自分で考えてよ? これからの家のこととか、仕事のこととか……」
「香織さん」
と、照れ隠しに小言を言おうとした私を美夢さんが遮った。
「わたしも愛してます、香織さん」
それはあまりにもシンプルな言葉で贈られた、美夢さんからの告白の返事だった。途端に私の心拍数が上がり、再び顔が真っ赤になってしまう。後ろではメメちゃんと愛梨ちゃんが悲鳴やら歓声やら上げてるし、この騒がしい日常は今後しばらく続きそうだ。
全く、もう知らん!!
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「そう言えばさ、ずっと気になってたんだけど美夢さんって何歳なの?」
「32歳です。なんとブルース・リーの享年と同じ!」
「縁起でもないこと言わんでいい。しかし三十路越えかぁ……う~ん、ギリセーフ!」
「やった♪」
《おわり》
最後までお読みいただきありがとうございました。
次回作は、血影衆の殺手たちに焦点を当てた姉妹編か、目先を変えてSF色の強いものか、はたまたオーソドックスなラブコメか、目下思案中でございます。一ヶ月ほど休止期間をいただくかもしれませんが、できるだけ早くお届けできるよう頑張る所存です。
美夢たちの物語もまだまだ描きたいことだらけですが、とりあえず当初の予定通りということで一旦完結という形を取らせていただきます。初の長編作品のキャラクターということで大変愛着も湧いておりますし、何か別の形で再登場させるのも良いかもしれません。
ここまでお付き合いいただいたこと、重ねてお礼申し上げます。それでは、またどこかでお会いできますよう。




