シーン2:雨音は次第に強まり
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絶対に死人は出さない。それがレーゲンが己に課す絶対条件だった。
酒場で痛い目を見せた連中には確実に怨まれているだろう。穏便に会話を始められるとは思えないし、下手をすれば出会い頭に攻撃を受けても不思議ではない。
なにせ空砲だとしても銃を向けた事実は変わらないのだ。
それは彼らに身の危険を意識させ、敵愾心を煽るには十分な理由となる。戦いの導火線にはすでに火が付き、もはや説得や交渉で事態を収めるのは非常に難しい。
だとしても、人死にが起これば、本当に取り返しのつかない状況になる。
身内が殺された瞬間、荒くれ者たちは殺戮者と化すだろう。箍の外れた無法者が、町の住民たちに今後どのような態度を見せるかは想像に難くない。
同時にレーゲンが彼らに殺されてしまってもいけない。連中に一線を越えたという自覚を与えるからだ。血は血を呼び、さらなる暴力を誘発する。
この考え方は父からの受け売りだが、真実であるとレーゲンは考えていた。
殺人という行為は一度犯せばけっして振り払えない呪いに近い。
そして彼らはまだ少なくとも、あの町では人を殺めていなかった。
ならば。決定的な破局が訪れていないのなら、まだ矛を収める余地は残っているはず。あまりにか細く見えるそれが唯一の光明だとレーゲンは確信していた。
だからこそ。最初の顔合わせの状況は非常に重要で――
「ようこそ、お嬢ちゃん。こんな辺鄙な所まで、わざわざご苦労なこった」
――レーゲンはその機会を見事なほどに失敗した。
「俺の手下が随分と世話になったらしいな。ガキにのされるなんざ情けねぇ話だが。……それで? テメェはいまさら何が目的で、のこのこやって来やがった?」
突き付けられた刺々しい声は、幾つかの付随物を伴っていた。
感情と、視線と、銃口。圧し潰すような威圧感と、冷たく黒々とした闇を湛えたそれらが、レーゲンの周囲をぐるりと取り囲んでいる。
射線の檻。銃を構えた荒くれ者たちに、レーゲンは捕らえられていた。
「手厚い歓迎、どうも。ありがたくて、なんだか泣けてくるね」
「気が早いな。そうさ、態度には気を付けた方がいい。もしも俺たちの機嫌を損ねれば、……泣くどころじゃあ済まなくなるからな」
どうやら軽口や冗談の類が通じる空気ではなかった。まさに一触即発の状況。包囲網のど真ん中に立つレーゲンの額を汗が一筋伝い落ちる。
思い返すのはこうなった経緯。それは必然的な成り行きで――
-§-
――遡ること、数分前。
「どうしてこうなった」
青々と茂った枝葉の重なりが作り出す深い影の中で、レーゲンは頭を抱えて立ち尽くしていた。表情に焦燥を強く滲ませ、視線をあちらこちらと彷徨わせ。
その様子はまるで道に迷っているかのような、
「……迷った」
否、実際に彼女は迷っていた。
その理由は呆れるほど単純である。
水車小屋の正確な位置を聞き忘れたのだ。
「いまさら聞きに戻れないしなあ……っ!!」
あんな啖呵を切った以上、どのツラを下げて戻れというのだ。なにより時間がなかった。行ったり来たりしている間に状況が悪化する可能性は非常に高い。
(……頭蓋骨の裏に『考えてから行動しろ』って彫り込むべきかなあ)
そんな戯けた行為を本気で検討するほどレーゲンは落ち込んだ。
ひとつ行動にケチがつけばたいてい連続する。災難は畳みかけるものなのだ。
ともかく。己が短慮を悔いつつ、レーゲンは大きな溜息を吐き出して、気持ちを切り替える。過ぎたことは仕方がない。進むべき方向は常に前なのだから。
「……えーっと。とりあえず、川。うん、川を探そう」
ひとまず方針を定め、レーゲンは行くべき道を探し始める。
右も左も分からぬ土地で頼れるものは自分のみ。しかし道標はそこかしこに転がっている。町には町の秩序があるように、森には森の秩序があるのだ。
レーゲンは目を閉じて、耳を澄ませた。自分の呼吸と鼓動が聞き取れるくらいに意識を集中し、その研ぎ澄まされた感覚を今度は外界へと向ける。
湿った土の匂い。肌を撫でる風。葉擦れの音。小鳥のさえずり。
それらに混じってかすかに、水の流れる音が聞こえた。
「よし、向こうだ」
自然豊かな生まれ故郷で森が奏でる調べを子守唄に育った少女だ。この程度の芸当は呼吸も同然、見知らぬ土地であろうとも、五感の冴えは鈍らない。
ほどなく川を発見したレーゲンはさっそく流れに目を凝らし、水車小屋を占拠した荒くれ者たちが廃棄したであろうゴミを探し始める。
町民に対してあれだけ傍若無人に振る舞うような連中だ。自然を汚すことに躊躇うはずもない。故に痕跡は必ず見つかるとレーゲンは確信していた。
事実、数分ほどで水面に浮かぶ新聞紙の切れ端だの、なにか食品の包装紙だのが発見できた。それらは必然的に上流からやってくるもので、
「水車小屋は、ここから上流……!」
向かうべき方向が定まれば迷いは消える。
川岸に沿ってレーゲンは再び走り出す。こうなれば一直線の道行だ。目的の建物を発見するまで、それからさほど時間は掛からなかった。
木々の合間に覗く立派な水車の姿。その横に併設された二階建ての丸太小屋。
遠目には大きな異変があるようには思えなかった。しかし距離が近付くにつれて、徐々におかしな状況が明らかになってくる。
「うわっ! 酷いな、これ……!」
やがて目の当たりにした光景に、レーゲンは思わず顔を顰めた。
手当たり次第に刈り取られた周囲の草木。あちこちに撒き散らされたゴミ。侵入者を阻むためか、あるいは威圧目的か、そこら中に打ち立てられた防柵。
小屋の傍に適当に組み上げられた木製の囲いの中には、町から攫ってきたのだろう鶏たちが、哀しげな鳴き声を上げて走り回っている。その糞やら羽毛やらがろくに掃除もされないまま放置されて、周囲には饐えたような臭いが漂っている。
それは水車小屋を中心として形作られた、あまりにも粗雑で凶悪な生活拠点だった。なるほど、荒くれ者の根城としては、実にらしい有様である。
「町の人たちが近付きたくないわけだよ……」
暗澹たる気持ちでレーゲンは呟いた。
湖に魚が居なかったのも、川の水質汚染が影響を及ぼしたのだろう。
そして案の定、もっとも危惧していた事態が、どうやら現実のものとなっていた。レーゲンはぐるりと周囲を見回し、思わずその眉根をきつく寄せる。
どこもかしこも手の付けようがないほど汚れている。それは物理的な意味合いだけでなく、才ある者のみが持つ、第六の感覚を通して視るものとして、
「空素構成、……しっちゃかめっちゃかだ」
空素。火、風、水、土。そして生命。無機有機を問わずこの世界のあらゆる物体に宿り、またあらゆる物質に影響を及ぼす、無色透明にして触れざる存在。
この世界においては“化石燃料”など及びもつかない、無尽蔵のエネルギー源として利用されるそれは、一方で世界そのものを構成するものに等しい。
ならば。その構成が歪み、淀み、汚れることが。どれほど致命的な悪影響を及ぼすのか、少なくともレーゲンはよく知っていた。だからこそ焦燥は募る。
「これ、不味いな。急がないと……!」
意気込みと共に踏み出そうとしたレーゲンは、
「よう、お嬢ちゃん。命が惜しかったら、そこで止まりな」
突然物陰から突き付けられた銃口に出鼻を挫かれ。
ゾロゾロと姿を現した荒くれ者たちに取り囲まれ。
数秒と経たぬうちに逃げ場を失ってしまったのだ。
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そのようにして今に至るというわけだ。
(最後の最後で気を抜いたのが不味かったなあ)
己が詰めの甘さに歯軋りしたくなる。師匠に合わせる顔がない。
父には大笑いされるか、それとも本気で説教を喰らうか。はたまた路傍の石を見るような視線を向けられるかも。三番目が一番有り得そうだった。
「とりあえず、武器を捨てろ。剣と、銃と、……腰の荷物もだ」
従わざるを得ない。レーゲンは素直に応じ、装備品をゆっくりと外し、地面に放った。手下であろう男がひとり進み出て、それを乱暴な手つきで回収する。
「いい子だ。素直な分だけ寿命は延びるぜ。両手を上げて、頭の後ろに回せ」
言われた通りにすれば、完全に無防備となる。
傍目にはもはや打つ手なしの窮地。
けれどレーゲンは恐れない。
(これはまだ、単なる脅しだから)
向こうに撃つ気があるのなら、とっくにそうしているはず。
そもそも少し前から連中の監視自体には気付いていた。
水車小屋に近付くにつれて茂みの奥からこちらを見張る視線が増えていったことも、鉄と火薬の匂いが森の空気に混じり始めたことも、察知していた。
その上で彼らがここまで奇襲を仕掛けてこなかったということは、
(連中は私がここに辿り着くのを、とりあえず阻む気はなかった)
その理由を好意的に捉えることはできないだろう。実際に待ち伏せの準備があり、敵意はあからさまだ。嬲り殺しが目的の可能性も十分にあり得る。
けれど、だからこそ。言葉を交わす猶予はあるはずだった。
「……それで? もう一度だけ聞いてやる。目的はなんだ?」
少なくとも彼らはレーゲンがやってきた理由を知りたがっている。レーゲンは緊張に乾いた唇を舌で湿らせ、ゆっくりと開いて、言う。
「……何が目的って、そんなの決まってるじゃん」
「ほう? まさか、詫びでも入れに来たってか?」
「生憎だけどそうじゃない。ちょっと、話がしたくてさ」
レーゲンは努めて不敵な笑みを浮かべつつ、視線をさりげなく巡らせる。
外観から察するに敵の武装は狩猟用の散弾銃だ。
手動排莢式、つまり一発撃つごとに装填作業が必要となる上、民間向けに性能を引き下げられたモデルだが、猪などを仕留められる程度の威力はある。
分かりやすい欠点は、装弾数の乏しさと連射速度の遅さ。
初撃を躱しさえすれば付け入る隙は十分にあるが、曲がりなりにも命を奪うために作られた武器だ。けっして軽んじるべきではない。
(……数人、今すぐにも撃ってきそうなのがいるしなあ)
どれも見覚えのある顔だった。言わずもがなだが酒場で叩きのめした連中である。彼らの怒りに歪んだ形相には、こちらへの明確な殺意が浮き出ていた。
(それにしても、連中が銃をこんなに持ってるなんて、ちょっと予想外だったな)
ざっと見る限りでも十丁。盗賊崩れの集団が持つには多い数だ。
出処については考えない。意味がないからだ。どうせ方々から搔き集めたか、混乱期に流出したものを偶然手に入れたか、そのどちらかだろう。
気にするべきはその銃が本当に撃てるのか。何発撃てるのか。より正確にいうなら、十分な弾薬を彼らが確保しているのかということのみ。
(幾らでも撃てるのなら、……ちょっと厳しい、かも)
あるいは見掛け倒しだろうか。民間人への威圧目的ならば、ただ見せるだけでも十分に用を成す。そんなレーゲンの思索は荒々しい声に断ち切られた。
「おい、テメェ。さっきから、なにをジロジロ見てやがる?」
さすがに目敏い。レーゲンは臆せず言い返す。
「なにって、丸腰で銃を向けられてるんだよ? 怖いに決まってるじゃん」
「ハッ! ンな太々しい態度で、よくもまあ言ったもんだな!」
嘲笑混じりに吐き捨てられ、レーゲンは改めて声の主を確かめる。荒くれ者たちの包囲網から、一歩引いた位置に立つ、逞しい身体付きの男性を。
(どう見ても、この人が親玉だよなあ)
立ち位置と振る舞い、なにより取り巻きたちの態度が根拠だ。
古びてボロボロの軍服を着た彼に対し、荒くれ者たちはときおり、チラチラと窺うような視線を向けている。その仕草から滲み出る恐れと敬意。
また彼自身の警戒心に満ちた表情が、その予想を裏付けていた。
ただでさえ厳めしいその顔面は傷だらけで、切り傷から火傷痕に至るまで、刻み込まれた痛みの種類は多種多様。実戦経験者だ。それも複数回の。
右足の動きが少しぎこちないのは怪我でもしているのだろうか。
眇められたオリーブ色の瞳にはこちらを威殺さんばかりの烈しい怒気が滲み、がっしりとした体格全体から漂う剣呑極まりない気配は、彼が暴力を生業としてきた事実を如実に表している。一筋縄ではいかぬ相手だと一目で分かった。
(……たぶん、元軍人だ)
隙のない所作からそう窺えた。おそらくは前線部隊の出身だろう。
ついでに彼の軍服には見覚えがある。実家の箪笥に仕舞われていた、現役時代に父が使っていたそれと、色も形も酷似しているのだ。
気になるのは胸元の部隊章が乱暴に毟り取られていること。
訝しむレーゲンの視線に気付いたのか、彼は口元を歪めて言った。
「俺の格好に興味があるようだな? フン、お察しの通り。前職は軍人だよ。このシュタルク共和国のな。最終階級は軍曹、……と言っても分からんか」
侮蔑を込めた言い草に、レーゲンは頭を振った。否定の方向。
「少なくとも、あなたが部下を率いる立場だったことくらいは、分かるよ」
「ほう。ただの無鉄砲なガキかと思ったが、随分と詳しいじゃねぇか」
「父さんがさ、……中央軍の銃士隊出身だったから」
「エリート様の血筋ってわけか。反吐が出るぜ。しかし、なら。俺がこんなザマを晒している理由にも、おおかた察しがつくんじゃねぇのか?」
レーゲンが黙っていると、彼は眦を吊り上げて叫んだ。
「それともテメェも平和に呆けて脳味噌が腐った連中の一人か? 十八年経ってあの地獄を、あのクソッタレな日々を、すっかり他人事にしてやがるってか!?」
荒々しい語気には、凄まじいまでの憎悪が込められていた。レーゲンはその背景にある事情を了解する。了解せざるを得なかった。
彼の右足。まるで足の代わりに硬質な物体が付いているような所作。
否。おそらくそこには本当に、作り物としての足が隠れているのだ。
「……その右足。もしかして、……義足なの? じゃあ、あなたは」
「ああ、そうだとも!! 役立たずの烙印を捺され、ろくな手当ももらえないまま、お払い箱に叩き込まれた“英雄”の成れの果てさ!!」
啼くような、嗤うような。引き攣ったような表情で、彼は絶叫を迸らせた。彼は〈災厄の禍年〉がこの世界に残した傷跡の体現者であった。
〈災厄の禍年〉。それは十八年前、この世界を恐怖と混乱と絶望に包み込んだ、いまだ語るも忌まわしい史上最悪の〈骸機獣〉災害の呼び名である。
発生から終息まで費やされた期間はおおよそ一年。
その間に人類は比喩でも冗談でもなく、絶滅の寸前まで追いやられた。
大地を、海を、空を。埋め尽くさんばかりに大量発生した〈骸機獣〉の群れは、老若男女問わない殺戮の嵐と化し、その数百倍以上の屍を生み出した。
発生源となったとある国はもはや存在しない。比喩ではなく国土と国民のすべてを喪ったためだ。草木一本に至るまで、根こそぎ、文字通りの全滅である。
そしてそれに近い規模の惨劇が世界各国で、同時多発的に、一年間朝も昼も絶え間なく続いたのだから、まさにこの世の地獄と呼ぶに相応しい。
レーゲンは、しかし、その地獄の有様を知らない。
もちろん一般的な知識はある。発端から収束までの経緯も理解している。どれだけの人が亡くなり、苦しみ、今もなお哀しみを抱えているか想像できる。
だが、それだけだ。すべては伝聞であり、自分自身の経験ではない。
故に目の前の男がどのような目に遭ってきたのか。どのような想いで戦後を過ごし、どのような喪失と苦しみの果てに、この場に立っているかが分からない。
当時を最前線で経験したという父も、詳しくは教えてくれなかった。元々口数の多いほうではなかったが、こと〈災厄の禍年〉に関しては努めて口を閉ざした。
ただ、瞳だけが似ていた。その奥に沈む影の濃さが。
故に想像することしかできずとも、否、だからこそレーゲンの心に躊躇いが生まれる。自分の正義は、信念は、目の前の男を否定するに足りるものだろうか。
悪を働く者にも事情がある。言葉にすればあまりにも単純だが、その単純さが却って真に迫って、レーゲンの意気を挫こうとする。
(……こんなんじゃ、ダメだ。なんのためにここに来たんだよ!)
今は迷っている場合ではなかった。レーゲンは戦意を掻き立てようとする。
「……だからって、あの町の人たちを足蹴にしていいわけないだろ! ただ平和に暮らしてただけの人たちを、脅して、奪って、それじゃただの悪党だ!!」
どうにか言葉にした正義には、しかし相手を打ちのめすだけの力強さがなかった。半端な意気に対しては、当然ながら嘲笑交じりの返答が叩きつけられる。
「悪党とは言ってくれたな。なら、逆に訊くが、俺たちはどうやって食ってけばいいってんだ? 見舞金なんぞは雀の涙、数年で使い果たしちまったよ。仕事の当てもねぇ。それとも清く正しく潔く、……野垂れ死ねってか?」
運転手も、配達員も、清掃員も。そのどれにもすらなれなかったのだと、軍服の男は煤けた薄笑いを浮かべながら言った。
「食い物と住処。生きるために最低限必要なものすら、俺たちはどこかから奪うしかない。その点であの町はお誂え向きだ。困窮してねぇし、武力も持たない。要はバランスさ。足りてる所から、足りていない者が、取り立てる……」
軍服の男の口調は苦い。彼自身も自らの悪を自覚しているのか、あるいは寄生虫も同然の境遇に対する屈辱があるのか。レーゲンには分からない。
ただ少なくとも、彼が自らの行いに一定の正当性を見出しており、その根拠に救われなかった自らの半生を含めていることは明らかだった。
「ここにいる連中、俺の手下共もな。孤児だったり、親に売られたり、散々な目に遭ってきた奴らさ。薄情なこの国から見捨てられた被害者だよ。そんなこともわからねぇ、世間知らずのガキが、……賢しらな正論を振りかざしてんじゃねぇ!」
レーゲンの怯みを見透かしたように、軍服の男はそう吐き捨てた。
「……まあ、テメェみてぇなガキに言ったところで、一銭の得にもならねぇ」
鬱憤をぶちまけたことで、幾許か気が晴れたのだろう。あるいは丸腰となり、黙り込んでしまったレーゲンを、もはや“敵”として認識していないのか。
軍服の男はどこか醒めたような顔で、むしろ諭すように言う。
「話ってのはそれだけか? 気が済んだなら、さっさと帰れ。本当はいくらかこいつらに憂さ晴らしでもさせてやろうかと思ってたが、そんな気も萎えちまった」
親玉の言葉に追従し、荒くれ者たちは哄笑を上げた。次いで聞くに堪えない罵声のシュプレヒコールが巻き起こる。誰も彼もが口汚くレーゲンを罵る。
青いケツを拭いてお家に帰れ。ママのおっぱいに慰めてもらえ。冒険ごっこは楽しかったか。鉄砲を振り回して勘違いしたんだろ。ガキが。ガキが。ガキが……。
言外に彼らはこう言っている。弱い者虐めにも限度がある、と。レーゲンはもはや彼らにとって、奪うべきものすら持たない、ボロ雑巾に等しかった。
だからせめて鬱憤を拭う道具になれと。それで勘弁してやるからと。
まさに「戯言を口にする子供」として追い払われようとしているのだ。
だから、きっと。このままレーゲンが引き下がれば、彼らはもう追いかけてはこないだろう。少なくとも自分の身の安全だけは確保できる。
今後あの町に降りかかる災難を見過ごし、どうにかすると約束した人々を見捨てて、尻尾を巻いて逃げ去れば要件は片付く。旅は続けられる。
(……そんなのは、嫌だ!)
けれども。レーゲン・アーヴェントという少女の、引き際の悪さは筋金入りだった。散々に打ちのめされた彼女は、それでも折れない。挫けない。
「……それでも、間違ってるものは間違ってるッ!」
哄笑がぴたりと止む。苛立ちの雰囲気が周囲に満ちる。
精神的にも物理的にも孤立したレーゲンは強い眼差しで親玉を見据えた。その瑠璃色の輝きに曇りがない事実を認めた軍服の男が、忌々しげに口元を歪める。
そう。それだけは譲れない一線だった。
あるいはレーゲンの考えは過酷な現実にそぐわないだろう。彼らにしてみれば子供じみた理想論でしかないのだろう。けれども、だからといって。
「足りなきゃ奪えばいいなんて、そんな無茶苦茶を正当化できるわけないだろ! だから私はここに来たんだ、……あなたたちの悪事を止めるために!」
「……ハッ! なるほどな。町の連中に泣き付かれたか!」
「違う! ここに来たのは私自身の意思だ――」
軍服の男の勘違いを、レーゲンは訂正する。
「――ケジメだよ。理由や経緯はどうあれ、これは私が売った喧嘩だから」
「……なるほど、なるほど? ご立派な心掛けじゃねぇか。だが、悲しいかな。丸腰のお嬢ちゃんがイキがっても響かねぇぜ。テメェの信念に価値はねぇ」
「なら、価値を付けてよ。それから返事を考えてほしい」
「……おい。付け上がるなよテメェ、こっちが優しくしてるうちに」
「この一帯の空素構成が崩れてるよね」
さすがにこの切り返し方は予想外だったのだろう。発しかけた怒気を失い、代わりに怪訝な顔を浮かべる軍服の男に、レーゲンは事実をなるべく淡々と伝える。
「あなたたちが水車を止めて、この辺りをゴミで汚したせいだよ。エーテルの正常な循環が滞って、淀んだ大気が吹き溜まりみたいになってる」
「……それがどうした。むしろ俺たちには居心地がいいがね」
「――〈骸機獣〉が出てくるのに?」
その一言に軍服の男の顔色が変わる。畳み掛けるようにレーゲンは言った。
「知ってるよね。〈骸機獣〉はエーテルが淀んだ場所に出現する」
そう。それが〈骸機獣〉の最も普遍的にして、最も厄介な性質である。奴らはきっかけさえあれば、どこにでも湧くのだ。そして殺戮の限りを尽くす。
なにより、かつて軍人であったという男が、それを知らないはずがない。
「私は数時間ほど前に、ここからそう遠くない湖の辺りで“小鉈鬼”に襲われた。たぶん、この水車小屋から流れてきた瘴気が、奴らを生み出したんだと思う」
この推察に間違いはないだろうとレーゲンは確信していた。
本職の空素術士ほどではないにしろ、エーテルの流れを読むことくらいは自分にもできる。位置と距離。その二点を鑑みるに、あの“小鉈鬼”たちの発生源は、この水車小屋であると考えるのが自然であった。
なによりカロッテは言っていた。荒くれ者たちはたまにエーテル結晶を持ってくると。つまり彼らはすでに〈骸機獣〉と遭遇し、交戦している。
「……あなたたちは、〈骸機獣〉から町を守ってるって、言ってたらしいね」
問題は、それが偶然の成り行きなのか――
「単刀直入に訊くよ。……わざとなの?」
――故意に因って生まれた状況なのか、だ。
「あなたたちが旅行士を名乗ってるのは知ってる。一宿一飯の恩義として、形はどうあれ町を危険から守ってるのなら、私は余計な嘴を突っ込んで場をかき乱しただけだ。だけど、とてもじゃないけど、偶然だとは思えないんだよ」
そう。レーゲンの憂慮と疑念はその一点に尽きた。カロッテに説明された状況から、レーゲンはどうしても彼らの故意を疑わざるを得なかった。
もしもすべてが自分の勘違いなら。彼らが本当にただ暴力的なだけの旅行士ならば、一連の流れは単に流儀を違えた者同士の小競り合いで終わる。
しかし。仮にこの状況が悪意による仕組まれたことなら。彼らが自分たちの正当性と利益のため、あの町を危険に晒しているのなら。よりにもよって彼ら自身が苦しめられた〈骸機獣〉を利用しているなら。それは赦せないというより――
「正直に答えて。あなたたちは、〈骸機獣〉を、わざと呼び出したの?」
――今日この場で命を懸けてでも、絶対に止めないといけないことだった。
そして、沈黙が重く、長く横たわり。
「……だとしたら、どうなんだ?」
決定的な一言が、男の口から吐き出された。
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「なるほど、……なるほどな。テメェはそれを勘付いて、わざわざ俺たちを糾弾しにきたってか。いやはや、まったくもって、大した名探偵だな」
現実感がない。頭の芯が痺れたようだった。レーゲンはどこかぼんやりと、遠くで鳴る風の音でも聞くように、ただ黙って軍服男の言葉を聞く。
「……それで? テメェの言う悪党どもに事実を突きつけて事件は無事に解決。一件落着、めでたしめでたし……とはならねぇことくらいはわかってるよな? まさか俺たちが悔い改めて大人しく首に縄をかけられるとは思っちゃいねぇだろう」
嘲るように。踏み躙るように。軍服男は俯き肩を震わせるレーゲンを見下ろして言う。その口調には紛れもなく獲物を甚振る嗜虐の響きが滲む。
「むしろ、これでテメェのことを生かしておくわけにはいかなくなったな? やれやれ、本当ならガキのひとりくらい、見逃してやったほうが楽なんだが」
「――何のために、こんなことをするの?」
制して、レーゲンは言った。鉛のように重く冷たい口調。
軍服男が不快気に眉を上げた。武装を奪われて丸腰のガキが、ようやく命乞いでも始めるかと思えば、相も変わらず不遜な態度を取りやがる。そんな冷めた心地で、さて次はどう甚振ってやろうかと合わせた視線が、レーゲンの瞳を見た。
「――……ッ!?」
瞬間。軍服男の背筋に走った怖気は、いかなる理由によるものか。
レーゲンの瑠璃色の瞳は、むしろ静謐なまでに落ち着いていた。真冬の早朝、凍り付くか否かの狭間にある、冷え切った湖面にも似た静謐さである。
それが却って軍服男の意表を突き、それが故に気付けなかった。
「もう一度、聞くけど。何のために、こんなことを、するの?」
レーゲンの全身を駆け巡る憤怒を。溶岩のように粘度をもつ灼熱を。
それらを努めて抑え込みながら、彼女は淡々と問いかける。戦慄き、今にも暴発しそうな意気を堪えながら、レーゲンは問うのだ。悪意の所以、その如何を。
「――それが一番、都合がいいからさ」
果たして、軍服男は応えた。さも当たり前といった顔つきで。
「俺たちが〈骸機獣〉から町を守ってやる。そう言われたなら、連中も納得するしかねぇよな。なにせ文字通り身の破滅を天秤にかけなきゃならねぇ」
表情を凍らせたレーゲンに対し、言葉はさらに勢いを増して続けられる。
「まあ、これも需要と供給ってやつさ。あるいは実際に被害が出れば、連中の方から頭を下げてくるだろうぜ。なに、一人二人、怪我したところで――」
「ふっざけんなあっ!!」
ついにレーゲンは叫んでいた。
目の前で強烈な閃光が奔り、次いで煮え滾る溶岩のような灼熱が、腹の底から噴き上がり激情を孕む呼気となって喉奥を灼いた。
その灼熱に全身が震えた。脳味噌が爆発するようだった。
レーゲンはいま、正真正銘、心底から激怒していた。
「まさか、……〈骸機獣〉にあの町を襲わせる気なの!?」
「全滅させる気はねぇよ。食い扶持がなくなったら困るからな」
「ふざけんな、ふざけんなよッ!! 人の命をなんだと思ってんだッ!!」
「飯の種以上の意味はねぇよ、今の俺たちにとってはな。そうさ。堕ちるところまで堕ちれば、いくらでも食ってく方法はある。勉強になったか?」
「脳味噌から今すぐに掻き出してやりたいよ、そんな馬鹿げた発想ッ!!」
「なら手助けしてやろうか。……今からテメェの脳味噌をぶちまけてなッ!!」
事態は決定的な一線を踏み越えた。激発する感情を乗せた叫びがその事実を示す。もはや会話の糸口は断ち切られ、暴力の理が一帯を支配する。
「時間の無駄だったな。……殺せ、やっちまえッ!!」
「「「おおおおおおおおおッ!!!!」」」
男の号令に、荒くれ者たちが一斉に応じた。
野太い声が唱和し、銃を構えた男たちが、その引き金に力を込める。抵抗する術のないレーゲンへ向けて、一切の情け容赦もなく。
嵐だ。殺意の嵐が渦巻いている。その渦中に巻き込まれたレーゲンは、奥歯が軋むほどに噛み締める。後悔と憤怒が全身を駆け巡っていた。
「いつもいつも、最悪の予感ばっかり現実になる……ッ!!」
その嘆きは誰に対してか。
何一つ上手く行かなかった。
どうしようもないほど失敗した。
師の背中が遠ざかる。憧れの景色が霞んでいく。これは半端な善意が招いたツケなのか。搾り出された呻きを、幾多の銃声が掻き消す――
「――ッ!!」
――その寸前、一秒にも満たぬ、わずかな間隙。
(ああ、そうかよ。だったら、やるとこまでやってやるよ……ッ!)
カチリ、と。頭の中で“スイッチ”が切り替わる音をレーゲンは聞いた。
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雨音は次第に強まり、そして嵐が吹き荒れる。
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