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シーン2:雨音は次第に強まり



 -§-



 絶対に死人は出さない。それがレーゲンの認識する絶対条件だった。


 酒場で痛い目を見せた連中には確実に怨まれているだろう。穏便に会話を始められるとは思えないし、下手をすれば出会い頭に攻撃を受けても不思議ではない。

 なにせ空砲だとしても銃を向けた事実は変わらないのだ。それは彼らに身の危険を意識させ、敵愾心を煽るには十分な理由となる。戦いの導火線にはすでに火が付いてしまった。説得や交渉で事態を収めるのは非常に難しいだろう。


 けれどレーゲンは町民たちに約束したのだ。必ずなんとかすると。

 臆さず。(おもね)ず。真正面からこちらの意志を伝え、言葉で済まぬなら力を見せるしかない。その最低許容値(ボーダーライン)こそが人死にを出さないことだった。


 もし一人でも死人が出れば、本当に取り返しのつかない状況になる。


 身内が殺された瞬間、荒くれ者たちは殺戮者と化すだろう。箍の外れた無法者(アウトロー)が、町民たちに今後どのような態度を見せるかは想像に難くない。

 同時にレーゲンが彼らに殺されてしまってもいけない。連中に一線を越えたという自覚を与えるからだ。血は血を呼び、さらなる暴力を誘発する。

 この考え方は父からの受け売りだが、真実であるとレーゲンは考えていた。


 殺人という行為は一度犯せばけっして振り払えない呪いに近い。

 そして彼らはまだ少なくとも、あの町では人を殺めていなかった。

 ならば。決定的な破局が訪れていないのなら、まだ矛を収める余地は残っているはず。あまりにか細く見えるそれが唯一の光明だとレーゲンは確信していた。


 だからこそ。最初の顔合わせファースト・コンタクトの状況は非常に重要で――


「ようこそ、お嬢ちゃん。こんな辺鄙な所まで、わざわざご苦労なこった」


 ――レーゲンはその機会を見事なほどに失敗した。


「俺の手下が随分と世話になったらしいな。ガキにのされるなんざ情けねぇ話だが。……それで? テメェはいまさら何が目的で、のこのこやって来やがった?」


 突き付けられた刺々しい声は、幾つかの付随物を伴っていた。

 感情と、視線と、銃口。圧し潰すような威圧感と、冷たく黒々とした闇を湛えたそれらが、レーゲンの周囲をぐるりと取り囲んでいる。

 射線の檻。銃を構えた荒くれ者たちに、レーゲンは捕らえられていた。


「手厚い歓迎、どうも。ありがたくて、なんだか泣けてくるね」

「気が早いな。そうさ、態度には気を付けた方がいい。もしも俺たちの機嫌を損ねれば、……泣くどころじゃあ済まなくなるからな」


 どうやら軽口や冗談の類が通じる空気ではなかった。まさに一触即発の状況。包囲網のど真ん中に立つレーゲンの額を汗が一筋伝い落ちる。


 思い返すのはこうなった経緯。それは必然的な成り行きで――



 -§-



 ――遡ること、数分前。


「どうしてこうなった」


 青々と茂った枝葉の重なりが作り出す深い影の中で、レーゲンは頭を抱えて立ち尽くしていた。焦燥の強く滲んだ表情で、視線をあちらこちらと彷徨わせて。

 その様子はまるで道に迷っているかのような、


「……迷った」


 否、実際に迷っていた。

 その理由は呆れるほど単純である。

 水車小屋の場所を事前に聞き忘れたのだ。


「いまさら聞きに戻れないしなあ……っ!!」

 

 あんな啖呵を切った以上、どのツラを下げて戻れというのだ。なにより時間がない。自ら設定した「一時間」というタイムリミットが恨めしかった。


(……頭蓋骨の裏にでも『考えてから行動しろ』って彫り込むべきかなあ)


 そんな戯けた行為を本気で検討するほどレーゲンは落ち込んだ。

 ともかく。己が短慮を悔いつつ、レーゲンは大きな溜息を吐き出して、気持ちを切り替える。過ぎたことは仕方がない。進むべき方向は常に前なのだから。


「……えーっと。とりあえず、川。うん、川を探そう」


 ひとまず方針を定め、レーゲンは行くべき道を探し始める。

 右も左も分からぬ土地で頼れるものは自分のみ。しかし道標はそこかしこに転がっている。町には町の秩序があるように、森には森の秩序があるのだ。


 レーゲンは目を閉じて、耳を澄ませた。自分の呼吸と鼓動が聞き取れるくらいに意識を集中し、その研ぎ澄まされた感覚(センサー)を今度は外界へと向ける。

 湿った土の匂い。肌を撫でる風。葉擦れの音。小鳥のさえずり。

 それらに混じってかすかに、水の流れる音が聞こえた。


「よし、向こうだ」

 

 自然豊かな生まれ故郷で森が奏でる調べを子守唄に育った少女だ。この程度の芸当は呼吸も同然、見知らぬ土地であろうとも、五感の冴えは鈍らない。


 ほどなく川を発見したレーゲンはさっそく流れに目を凝らし、水車小屋を占拠した荒くれ者たちが廃棄したであろうゴミを探し始める。

 町民に対してあれだけ傍若無人に振る舞うような連中だ。自然を汚すことに躊躇うはずもない。故に痕跡は必ず見つかるとレーゲンは確信していた。

 事実、数分ほどで水面に浮かぶ新聞紙の切れ端だの、なにか食品の包装紙だのが発見できた。それらは必然的に上流からやってくるもので、


「水車小屋は、ここから上流……!」


 向かうべき方向が定まれば迷いは消える。

 川岸に沿ってレーゲンは再び走り出す。こうなれば一直線の道行だ。目的の建物を発見するまで、それからさほど時間は掛からなかった。


 木々の合間に覗く立派な水車の姿。その横に併設された二階建ての丸太小屋。

 遠目には大きな異変があるようには思えなかった。しかし距離が近付くにつれて、徐々におかしな状況が明らかになってくる。


「うわっ! 酷いな、これ……!」


 やがて目の当たりにした光景に、レーゲンは思わず顔を顰めた。


 手当たり次第に刈り取られた周囲の草木。あちこちに撒き散らされたゴミ。侵入者を阻むためか、あるいは威圧目的か、そこら中に打ち立てられた防柵。

 小屋の傍に適当に組み上げられた木製の囲いの中には、町から攫ってきたのだろう鶏たちが、哀しげな鳴き声を上げて走り回っている。その糞やら羽毛やらがろくに掃除もされないまま放置されて、周囲には饐えたような臭いが漂っている。


 それは水車小屋を中心として形作られた、あまりにも粗雑で凶悪な生活拠点だった。なるほど、荒くれ者の根城としては、実にらしい有様である。


「町の人たちが近付きたくないわけだよ……」


 暗澹たる気持ちでレーゲンは呟いた。

 湖に魚が居なかったのも、川の水質汚染が影響を及ぼしたのだろう。

 そして案の定、もっとも危惧していた事態が、どうやら現実のものとなっていた。レーゲンはぐるりと周囲を見回し、思わずその眉根をきつく寄せる。

 どこもかしこも手の付けようがないほど汚れている。それは物理的な意味合いだけでなく、才ある者のみが持つ、第六の感覚を通して視るものとして、


空素構成(エーテル・バランス)、……しっちゃかめっちゃかだ」


 空素エーテル。火、風、水、土。そして生命。無機有機を問わずこの世界のあらゆる物体に宿り、またあらゆる物質に影響を及ぼす、無色透明にして触れざる存在。

 この世界においては“化石燃料”など及びもつかない、無尽蔵のエネルギー源として利用されるそれは、一方で()()()()()()()()()()()()()に等しい。

 ならば。その構成が歪み、淀み、汚れることが。どれほど致命的な悪影響を及ぼすのか、少なくともレーゲンはよく知っていた。だからこそ焦燥は募る。


「これ、不味いな。急がないと……!」


 意気込みと共に踏み出そうとしたレーゲンは、


「よう、お嬢ちゃん。命が惜しかったら、そこで止まりな」


 突然物陰から突き付けられた銃口に出鼻を挫かれ。

 ゾロゾロと姿を現した荒くれ者たちに取り囲まれ。

 数秒と経たぬうちに逃げ場を失ってしまったのだ。



 -§-



 そのようにして今に至るというわけだ。


(最後の最後で気を抜いたのが不味かったなあ)


 己が詰めの甘さに歯軋りしたくなる。師匠に合わせる顔がない。

 父には大笑いされるか、それとも本気で説教を喰らうか。はたまた路傍の石を見るような視線を向けられるかも。三番目が一番有り得そうだった。


「とりあえず、武器を捨てろ。剣と、銃と、……腰の荷物(ポーチ)もだ」


 従わざるを得ない。レーゲンは素直に応じ、装備品をゆっくりと外し、地面に放った。慎重に進み出てきた荒くれ者がそれを回収する。


「いい子だ。素直な分だけ寿命は延びるぜ。両手を上げて、頭の後ろに回せ」


 言われた通りにすれば、完全に無防備となる。

 傍目にはもはや打つ手なしの窮地。

 けれどレーゲンは恐れない。


(これはまだ、単なる脅しだから)


 向こうに撃つ気があるのなら、とっくにそうしているはず。

 そもそも少し前から連中の監視自体には気付いていた。

 水車小屋に近付くにつれて茂みの奥からこちらを見張る視線が増えていったことも、鉄と火薬の匂いが森の空気に混じり始めたことも、察知していた。

 その上で彼らがここまで奇襲を仕掛けてこなかったということは、


(連中は私がここに辿り着くのを、とりあえず阻む気はなかった)


 その理由を好意的に捉えることはできないだろう。実際に待ち伏せの準備があり、敵意はあからさまだ。嬲り殺しが目的の可能性も十分にあり得る。

 けれど、だからこそ。言葉を交わす猶予はあるはずだった。

 少なくとも彼らはレーゲンがやってきた理由を知りたがっている。


「……何が目的って、そんなの決まってるじゃん」

「ほう? まさか、話でもしにきたってか?」

「そのまさかだとしたら、どうすんの?」


 レーゲンは不敵な笑みを浮かべつつ、視線をさりげなく巡らせる。


 外観から察するに敵の武装は狩猟用の散弾銃だ。

 手動排莢(ポンプアクション)式、つまり一発撃つごとに装填作業が必要となる上、民間向けに性能を引き下げられたモデルだが、猪などを仕留められる程度の威力はある。

 分かりやすい欠点は、装弾数の乏しさと連射速度の遅さ。

 初撃を躱しさえすれば付け入る隙は十分にあるが、曲がりなりにも命を奪うために作られた武器だ。けっして軽んじるべきではない。


(……数人、今すぐにも撃ってきそうなのがいるしなあ)


 どれも見覚えのある顔だった。言わずもがなだが酒場で叩きのめした連中である。彼らの怒りに歪んだ形相には、こちらへの明確な殺意が浮き出ていた。


(それにしても、連中が銃をこんなに持ってるなんて、ちょっと予想外だったな)


 ざっと見る限りでも十丁。盗賊崩れの集団が持つには多い数だ。

 出処については考えない。意味がないからだ。どうせ方々から搔き集めたか、混乱期に流出したものを偶然手に入れたか、そのどちらかだろう。

 気にするべきはその銃が本当に撃てるのか。何発撃てるのか。より正確にいうなら、十分な弾薬を彼らが確保しているのかということのみ。


(幾らでも撃てるのなら、こっちとしてはもう詰みだよなあ)


 あるいは見掛け倒しだろうか。民間人への威圧目的ならば、ただ見せるだけでも十分に用を成す。そんなレーゲンの思索は荒々しい声に断ち切られた。


「おい、テメェ。さっきから、なにをジロジロ見てやがる?」


 さすがに目敏い。レーゲンは臆せず言い返す。


「なにって、丸腰で銃を向けられてるんだよ? 怖いに決まってるじゃん」

「ハッ! ンな太々しい態度で、よくもまあ言ったもんだな!」


 嘲笑混じりに吐き捨てられ、レーゲンは改めて声の主を確かめる。荒くれ者たちの包囲網から、一歩引いた位置に立つ、逞しい身体付きの男性を。


(どう見ても、この人が親玉だよなあ)


 立ち位置と振る舞い、なにより取り巻きたちの態度が根拠だ。

 古びてボロボロの軍服を着た彼に対し、荒くれ者たちはときおり、チラチラと窺うような視線を向けている。その仕草から滲み出る恐れと敬意。

 また彼自身の警戒心に満ちた表情が、その予想を裏付けていた。

 ただでさえ厳めしいその顔面は傷だらけで、切り傷から火傷痕に至るまで、刻み込まれた痛みの種類は多種多様。実戦経験者だ。それも複数回の。

 右足の動きが少しぎこちないのは怪我でもしているのだろうか。

 眇められたオリーブ色の瞳にはこちらを()殺さんばかりの烈しい怒気が滲み、がっしりとした体格全体から漂う剣呑極まりない気配は、彼が暴力を生業としてきた事実を如実に表している。一筋縄ではいかぬ相手だと一目で分かった。


(……たぶん、元軍人だ)


 隙のない所作からそう窺えた。おそらくは前線部隊の出身だろう。

 ついでに彼の軍服には見覚えがある。実家の箪笥に仕舞われていた、現役時代に父が使っていたそれと、色も形も酷似しているのだ。

 気になるのは胸元の部隊章が乱暴に毟り取られていること。

 訝しむレーゲンの視線に気付いたのか、彼は口元を歪めて言った。


「俺の格好に興味があるようだな? フン、お察しの通り。前職は軍人だよ。このシュタルク共和国のな。最終階級は軍曹、……と言っても分からんか」


 侮蔑を込めた言い草に、レーゲンは頭を振った。否定の方向。


「少なくとも、あなたが部下を率いる立場だったことくらいは、分かるよ」

「ほう。ただの無鉄砲なガキかと思ったが、随分と詳しいじゃねぇか」

「父さんがさ、……中央軍の銃士隊出身だったから」

「エリート様の血筋ってわけか。反吐が出るぜ。しかし、なら。俺がこんなザマを晒している理由にも、おおかた察しがつくんじゃねぇのか?」


 レーゲンが黙っていると、彼は眦を吊り上げて叫んだ。


「それともテメェも平和に呆けて脳味噌が腐った連中の一人か? 十八年経ってあの地獄を、あのクソッタレな日々を、すっかり忘れちまったってか!?」


 荒々しい語気には、凄まじいまでの憎悪が込められていた。レーゲンはその背景にある事情を了解する。了解せざるを得なかった。

 彼の右足。まるで足の代わりに硬質な物体が付いているような所作。

 否。おそらくそこには本当に、()()()()()()()()が隠れているのだ。


「……その右足。もしかして、義足なの? じゃあ、あなたは」

「ああ、そうだとも!! 役立たずの烙印を捺され、ろくな手当ももらえないまま、お払い箱に叩き込まれた“英雄”の成れの果てさ!!」


 啼くような、嗤うような。引き攣ったような表情で、彼は絶叫を迸らせた。彼は〈災厄の禍年(カラミティ)〉がこの世界に残した傷跡の体現者であった。



 -§-



「戦ったさ。ああ、俺は戦った。民草のため、国のため、同胞のため。その全てに守るべき価値があると信じて、命懸けであのクソッタレの怪物どもと戦った」


 〈災厄の禍年(カラミティ)〉。それは十八年前、この世界を恐怖と混乱と絶望に包み込んだ、いまだ語るも忌まわしい史上最悪の〈骸機獣(メトゥス)〉災害の呼び名である。

 発生から終息まで費やされた期間はおおよそ一年。

 その間に人類は比喩でも冗談でもなく、絶滅の寸前まで追いやられた。

 大地を、海を、空を。埋め尽くさんばかりに大量発生した〈骸機獣(メトゥス)〉の群れは、老若男女問わない殺戮の嵐と化し、その数百倍以上の屍を生み出した。

 発生源となったとある国はもはや存在しない。比喩ではなく国土と国民のすべてを喪ったためだ。草木一本に至るまで、根こそぎ、文字通りの全滅である。

 そしてそれに近い規模の惨劇が世界各国で、同時多発的に、一年間朝も昼も絶え間なく続いたのだから、まさにこの世の地獄と呼ぶに相応しい。


「そうさ、地獄だった。毎日毎日、寝ても覚めても死に物狂い。仲間がひとり棺桶に突っ込まれるたび、次は俺の番じゃないかと怯えて過ごしたもんさ。そのうち恐怖すら麻痺してきて、空っぽの脳味噌で引き金を弾くようになる……」


 それでも結論として、人類はこの地獄を乗り越えた。

 細く儚い希望は紡がれ、長く辛い夜は明けた。現代に〈黎明の翼〉と称えられる、世界各国から集った勇士たちの、奇跡的な快進撃の成果として。

 けれどもそれは、人類の勝利と呼ぶにはあまりに血塗れだった。

 限界まで死力を尽くした末に、どうにか掴み取った一滴の幸運だった。


「ようやく戦いが終わった時には、喜ぶ余裕すらなくなってたね。現実感がなかった。とにかく、疲れ切ってた。けれどもうあんな、血反吐と腐臭と蛆虫だらけの場所には戻らなくていいんだと分かって、始めて心の底からホッとしたよ」


 悪夢の日々は人々の記憶から徐々に拭われつつあり、かつて現実に起きた英雄たちの救世譚は御伽噺として語り継がれるようになった。

 その一方。最前線で地獄に立ち向かい生き残った者たちが、敢えて語ろうとしない傷の痛みは、今もなお癒えることなく燻ぶり続けている。


「それで、どうなったと思う? 戦いが終わって、戦えなくなった兵士は、どういう扱いになると思う? どうにもならなかったのさ。ああ。本当に、正真正銘、用済みだった。俺は用済みの破損品として、十把一絡げに放り出された」


 彼は言う。要らないものとして、自らは定義されたのだと。


「ランベルト・エルスター。認識票(ドッグタグ)に刻まれた、それが俺の名前さ。誰からも省みられなかった、もう誰も憶えちゃいない、俺という存在を証明する名前!!」


 癒えぬ傷痕の。

 燻ぶる痛みの。

 流れた鮮血の。


「戦って、戦って!! 死に物狂いで、身体を千切り取られて、それでも生き残って!! なのに居場所がない、この世界から見捨てられた、この俺がッ!!」


 確かに存在する残滓が自分なのだと、かつて軍人であった男はそう叫ぶのだ。


「この遣る瀬無さが、テメェみたいなガキに分かるかよッ!!」



 -§-



「……まあ、そういうことだよ」


 ひとしきり鬱憤をぶちまけたことで、幾許か気が晴れたのだろう。ランベルトは、どこか醒めたような顔で、レーゲンに語る。


「見舞金なんぞは雀の涙、数年で使い果たしちまったよ。仕事の当てもねぇ。片足が不自由な、戦い以外に何もできない男を、どこの誰が雇ってくれる?」


 運転手も、配達員も、清掃員も。そのどれにもすらなれなかったのだと、ランベルトは煤けた薄笑いを浮かべながら言った。レーゲンには返す言葉がない。


「食い物と住処。生きるために最低限必要なものすら、俺たちはどこかから奪うしかない。その点であの町はお誂え向きだ。困窮してねぇし、武力も持たない。要はバランスさ。足りてる所から、足りていない者が、取り立てる……」


 ランベルトの口調は苦い。彼自身も自らの悪を自覚しているのか、あるいは寄生虫も同然の境遇に対する屈辱があるのか。レーゲンには分からない。

 ただ少なくとも、彼が自らの行いに一定の正当性を見出しており、その根拠に救われなかった自らの半生を含めていることは明らかだった。


「ここにいる連中、俺の手下共もな。孤児だったり、親に売られたり、散々な目に遭ってきた奴らさ。薄情なこの国から見捨てられた被害者だよ」

「……見捨てられたって。でも、それは、……違うと思う」


 反射的にレーゲンは言い返していた。直後に失敗を悟る。ランベルトの表情が明らかに不機嫌になっていたからだ。周囲からの圧も増したようである。


 けれど、言わずにはいられなかった。何故ならレーゲンは知っている。

 虐げられた者が、打ちのめされた者が、抱き締められなかった者が。

 最後の縁として頼るべき選択肢は他にあったはずだ。どこかに彼らが道を踏み外さずに済む機会は用意されていたはずなのだ。


「……どこかに、誰かが。差し伸べてくれる手が、あったんじゃないの?」


 数秒の沈黙。周囲の空気が針のように感じられた。


「差し伸べてくれる手、ねえ。例えばそれは、どんなものだよ?」


 ランベルトが打って変わって静かな口調でそう言った。

 会話が、続いた。レーゲンは内心で安堵を得る。

 言葉が通じる。ならば説得ができるかもしれない。


「ごめん。具体的には、分からないけど。でも、優しい人や再起の機会は、絶対にあったはずなんだ。だって〈災厄の禍年(カラミティ)〉でたくさんのものを失ったけど、今は幸せに暮らしてる人たちだって大勢いるじゃんか。だったらあなたにも――」

「だが、俺たちにそれは、()()()()


 レーゲンの甘い期待は、断絶を意味する言葉によって、容易く打ち砕かれた。


「――ッ」


 レーゲンの言葉が、意気が、詰まる。詰まって、萎む。

 伝わると信じて発した言葉が、巡り巡って自らの無理解を曝け出していた。

 彼らは現実に救われなかった。手を差し伸べられなかった。そう。取りこぼされた者たちにしてみれば、得られなかった救いなど、存在しないも同然である。


(……救いは、ある。本当に、あるんだよ。あるんだ、けど)


 ならば。()()()()()()()()()()が、その可能性を彼らに対して語るのは、飢えた者の目の前で飽食を貪るに等しい惨酷であろう。その罪状を傲慢と呼ぶ。

 要するに()()()()()は彼らに通じなかった。

 ただそれだけのことである。あまりにシンプルな論理だった。

 そして。シンプルであるがこそ、レーゲンの受けたショックは大きい。


「世間知らずのガキが、賢しらな正論を振りかざすもんじゃねぇ」


 レーゲンの怯みを見透かしたように、ランベルトはそう吐き捨てた。


「話ってのはそれだけか? 気が済んだなら、さっさと帰れ。本当はいくらかこいつらに憂さ晴らしでもさせてやろうかと思ってたが、そんな気も萎えちまった」


 親玉の言葉に追従し、荒くれ者たちは哄笑を上げた。次いで聞くに堪えない罵声のシュプレヒコールが巻き起こる。誰も彼もが口汚くレーゲンを罵る。

 青いケツを拭いてお家に帰れ。ママのおっぱいに慰めてもらえ。冒険ごっこは楽しかったか。鉄砲を振り回して勘違いしたんだろ。ガキが。ガキが。ガキが……。


 言外に彼らはこう言っている。弱い者虐めにも限度がある、と。レーゲンはもはや彼らにとって、奪うべきものすら持たない、ボロ雑巾に等しかった。

 だからせめて鬱憤を拭う道具になれと。それで勘弁してやるからと。

 まさに「戯言を口にする子供」として追い払われようとしているのだ。


 だから、きっと。このままレーゲンが引き下がれば、彼らはもう追いかけてはこないだろう。少なくとも自分の身の安全だけは確保できる。

 今後あの町に降りかかる災難を見過ごし、どうにかすると約束した人々を見捨てて、尻尾を巻いて逃げ去れば要件は片付く。旅は続けられる。


(……そんなのは、嫌だ!)


 けれども。レーゲン・アーヴェントという少女の、引き際の悪さは筋金入りだった。散々に打ちのめされた彼女は、それでも折れない。挫けない。


「だとしても。あなたたちのしてることは、悪いことだよ。見過ごせない」


 哄笑がぴたりと止む。困惑と苛立ちの雰囲気が周囲に満ちる。

 精神的にも物理的にも孤立したレーゲンは強い眼差しで親玉を見据えた。その瑠璃色の輝きに曇りがない事実を認めたランベルトが、忌々しげに口元を歪める。

 そう。それだけは譲れない一線だった。

 確かにレーゲンの考えは過酷な現実にそぐわないだろう。彼らにしてみれば子供じみた理想論でしかないのだろう。けれども、だからといって。


「あなたたちが傷ついていたとしても。辛い思いをしてきたんだとしても。ただ平穏に暮らしている人たちを、傷付けていい理由には、絶対にならない」

「……ハッ! なるほどな。町の連中に泣き付かれて俺たちに文句を言いに来たってのが本題か。だとしたら残念だったな。テメェの言葉にはなんの価値もない」


 ランベルトの些細な勘違いを、レーゲンは敢えて訂正しなかった。

 ここで自発的にやってきたと言ったところで余計に話が拗れるだけである。それよりもまず、彼には伝えるべきことがあった。


「なら、価値を付けてよ。それから返事を考えてほしい」

「……おい。付け上がるなよテメェ、こっちが優しくしてるうちに」

「この一帯の空素構成(エーテル・バランス)が崩れてる」


 さすがにこの切り返し方は予想外だったのだろう。発しかけた怒気を失い、代わりに怪訝な顔を浮かべるランベルトに、レーゲンは事実をなるべく淡々と伝える。


「あなたたちが水車を止めて、この辺りをゴミで汚したせいだよ。エーテルの正常な循環が滞って、淀んだ大気が吹き溜まりみたいになってる」

「それがどうした。むしろ俺たちには居心地がいいがね」

「このままだと〈骸機獣(メトゥス)〉が出るかもしれないと聞いても?」


 その一言にランベルトの顔色が変わった。周囲の荒くれ者たちにも明確な動揺が生まれる。畳み掛けるようにレーゲンは言った。この機を逃すべきではない。


「あなたも知ってるはずだよ。〈骸機獣(メトゥス)〉はエーテルが淀んだ場所に出現する」


 そう。それが〈骸機獣(メトゥス)〉の最も普遍的にして、最も厄介な性質である。奴らはきっかけさえあれば、どこにでも湧くのだ。そして殺戮の限りを尽くす。

 レーゲンが感じていた嫌な予感。もっとも危惧していた事態がそれだった。


「私は数時間ほど前に、ここからそう遠くない湖の辺りで“小鉈鬼”に襲われた。たぶん、この水車小屋から流れてきた瘴気が、奴らを生み出したんだと思う」


 この推察に間違いはないだろうとレーゲンは確信していた。

 本職の空素術士(エーテル・ドライバー)ほどではないにしろ、エーテルの流れを読むことくらいは自分にもできる。位置と距離。その二点を鑑みるに、あの“小鉈鬼”たちの発生源は、この水車小屋であると考えるのが自然であった。


「このままじゃ、皆が危ないんだ。あなたたちも、町の人たちも」


 心情面での和解と説得は、おそらくもう不可能だ。よってレーゲンは相手の危機感に訴えることにした。明確な脅威を提示し、妥協させるしかない。


「軍人だったんでしょ? なら奴らの危険性は身に染みてるはずだよ。いますぐ掃除をして、水車を元通りに動かしてよ。それが嫌ならここを引き払ってほしい。危険が伴う場所にいつまでも居座るのは馬鹿らしいと思わない?」


 最善はランベルトたちの改心であったが、その可能性はもはや潰えてしまった。

 故にレーゲンは次善を求める。つまり、彼らがこのまま自発的に水車小屋を引き払って、どこか別の場所に行ってしまいさえすればいいのだ。

 そうすれば当面の問題は解決する。危険を先送りにすることについては、


(……私がリスクを負うのが筋だよね)


 もちろん彼らを野放しにするつもりはない。強引に後を追いかけてでも、彼らが悪事を働かないよう見張り、力尽くでも止めるべきだろう。


 現時点で最優先目標とすべきは【〈骸機獣(メトゥス)〉の発生を防ぐ】ことだ。まずは目前に迫った危機の回避が先決で、ついでに彼らを追い出せれば一石二鳥。

 これなら当初の方針は最低限クリアできる。なにより今この場で戦うことを避けられ、お互いに頭を冷やす時間もある程度は稼げる。

 冷静になればもう少し穏便な決着も可能なはず。レーゲンはそう考えるが、


「今度は交渉ごっこか。話にならねぇな」

「……どうして? あからさまな危険が迫ってるのに?」


 さすがに都合が良すぎたか。けれど完全に跳ねつけられるような提案でもないはず。問い返すレーゲンへランベルトはわざとらしく肩を竦めた。


「まず一点。テメェの話を信じる根拠がねぇ」

「んなっ!! 本当だったらどうするんだよ!!」

「だとしても“小鉈鬼”程度なら俺たちだけで十分に対処できる。我が家を手放すほどのリスクじゃねぇ。まあ、掃除くらいは取り掛かってもいいがな」

「あ、掃除はしてくれるんだ……」

「根拠はなくとも可能性は潰しておくべきだ。が、そこから先はまた別問題だ。理由を付けて俺たちをここから追い払おうってのがテメェの魂胆だろ?」


 見透かされていた。とはいえ話の流れ的に無理もない。レーゲンは頷く。


「町の人たちは本当に迷惑してるんだよ。あなたたちの事情は分かった。ここをどうしても離れたくないなら、ちゃんとあの人たちの生活を尊重してあげてよ」

「……ああ、それだ。その尊重する、とやらが気に入らねぇ」


 レーゲンは絶句する。この男は、何と言った?


「奪う方が早い。脅す方が簡単だ。弱肉強食ってのはガキでも分かる理屈だろうよ。それとも、なにか? 連中に頭を下げて、媚びを売れってか? 冗談じゃねぇ! 何故、恵まれた連中共に、俺たちが遠慮しなけりゃならねぇ!」


 遅すぎた。ここに至ってようやくレーゲンは、根本的な思い違いを悟った。

 彼らと自分とは、そもそも視点が違う。基準としている常識が違う。

 やっていいこととわるいことの、ボーダーラインが、違うのだ。


 ランベルト・エルスターという男は、堕ちるところまで堕ちていた。


「そもそも物資を民間から徴収するってのは、昔からどの国の軍隊でも当たり前にやってきたことだぜ。敵国民からなら当然、自国民でも協力すべきだろ。なにせ俺たちは国を守るために、身を粉にして、敵と戦ってたんだからな!」

「そんな滅茶苦茶を何の罪もない人たちに押し付ける気なの!?」

「滅茶苦茶が罷り通るのが戦争さ。お誂え向きに大義名分もできたしな」


 大義名分。その単語にレーゲンは逡巡し、直後に顔色を変えた。


「……ねえ。まさか、だけど。いくらなんでも、そんな」


 震える声で問い質す。信じたくはない。しかしランベルトの返答は、


「俺たちが〈骸機獣(メトゥス)〉から町を守ってやる。そう言われたなら、連中も納得するしかねぇよな。なにせ文字通り身の破滅を天秤にかけなきゃならねぇ」


 愕然とするレーゲンが黙っていると、言葉はさらに勢いを増して続けられる。


「まあ、素直に頷きゃしないだろうな。が、さて。実際に死人が出たらどうだろうな? 物は試しだ。危機感を煽るには一人か二人で十分だが――」

「ふっざけんなあっ!!」


 気が付けばレーゲンは叫んでいた。

 目の前で強烈な閃光が奔り、次いで煮え滾る溶岩のような灼熱が、腹の底から込み上がってくる。全身が震えた。脳味噌が凍えるようだった。

 レーゲンはいま、正真正銘、心から激怒していた。


「わざと〈骸機獣(メトゥス)〉を発生させて、あの町を襲わせる気なの!?」

「全滅させる気はねぇよ。食い扶持がなくなったら困るからな」

「ふざけんな、ふざけんなよッ!! 人の命をなんだと思ってんだッ!!」

「飯の種以上の意味はねぇよ、今の俺たちにとってはな。そうさ。堕ちるところまで堕ちれば、いくらでも食ってく方法はある。勉強になったか?」

「脳味噌から今すぐに掻き出してやりたいよ、そんな馬鹿げた発想ッ!!」

「なら手助けしてやろうか。……今からテメェの脳味噌をぶちまけてなッ!!」


 事態は決定的な一線を踏み越えた。激発する感情を乗せた叫びがその事実を示す。もはや会話の糸口は断ち切られ、暴力の理が一帯を支配する。


「時間の無駄だったな。……殺せ、やっちまえッ!!」

「「「おおおおおおおおおッ!!!!」」」


 ランベルトの号令に、荒くれ者たちが一斉に応じた。

 野太い声が唱和し、銃を構えた男たちが、その引き金に力を込める。抵抗する術のないレーゲンへ向けて、一切の情け容赦もなく。

 嵐だ。殺意の嵐が渦巻いている。その渦中に巻き込まれたレーゲンは、奥歯が軋むほどに噛み締める。後悔と憤怒が全身を駆け巡っていた。


 わざわざ首を突っ込んで。

 事態を引っ掻き回して。

 挙句の果てに暴力。


「どうしてこんなことになっちゃうんだよ……ッ!!」


 何一つ上手く行かなかった。どうしようもないほど失敗した。

 師の背中が遠ざかる。憧れの景色が霞んでいく。これは半端な善意が招いたツケなのか。搾り出された呻きを、幾多の銃声が掻き消す――


「――ッ!!」


 ――その寸前、一秒にも満たぬ、わずかな間隙。


(ああ。こうなったらもう、やるしかないじゃないかよ……!)


 カチリ、と。頭の中で“スイッチ”が切り替わる音をレーゲンは聞いた。



 -§-



 雨音は次第に強まり、そして嵐が吹き荒れる。



 -§-



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