シーン1:俄雨の兆し
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「ま、待っててね……! もう少しだから……!」
視界のほとんどを枝葉の緑に覆われながら、少年は懸命に呼びかけ続ける。
「も、もう少し……ッ!? わ、わぁッ!!」
不意にバランスを崩し、ぐらりと身体が傾いた。少年は悲鳴を上げながらも、どうにか支えとなる枝にしがみつき、落下を堪える。
ひとまず、無事だ。けれど噴き出した冷や汗が全身を濡らす。心臓は破裂しそうなほどに早鐘を打ち、喉奥からは喘ぐような呼気が漏れる。
眼下に一瞬だけ見えた地面は、その距離感は、想像よりずっと遠かった。
怖い。家に帰りたい。少年は自分の心が挫ける音を聞いた。
「や、止めときゃ、よかった……!!」
そのごく他愛のない事件は、とある街外れにある木立ちの中で起きていた。
青々と葉を茂らせた木々の群れ、うち一本の幹に、庭木剪定用と思しき脚立が立て掛けられている。そこから視点を数メートルばかり上方に移すと、枝葉に紛れて格闘する一人の少年の姿を見つけることができるだろう。
「うう、どうしてそんなところに、登っちゃったんだよう」
半泣き気味の声色は、少年が自らこの状況を望んだわけではない事実を如実に示している。そして彼が不本意な木登りに挑んだ理由もまた明白であった。
「ニャア……」
「泣きたいのはこっちだよう」
すなわち、梢にしがみつく一匹の子猫を、救うためだった。
「ああ、もう……。なんでおれ、こんな……」
少年は数分前の自分を呪った。思い付きで行動するのが悪い癖だと、いつも齢の離れた姉に叱られていたことを、いまさらのように思い出す。
そう。きっかけは単なる偶然と、ちょっとした善意だった。
昼ご飯を済ませて野原に遊びに出かけた少年は、なんの気なしに木立ちの方へと近付いて、そこでふと頭上から聞こえた弱々しい鳴き声を聞き取った。
そこで木から降りられなくなった子猫の存在に気付き、ついでに子猫が今にも枝から落下しかねないほど弱っている事実にも気付いた。
大人を呼びに行っている時間はない。慌てて周囲を見回せば納屋があり、その壁に立てかけられた脚立があった。焦燥に駆られた少年は思わず脚立を担ぎ出し、幹へと立て掛け、無我夢中で登った。そうして現在に至る。
「やっぱり、いくらなんでも、無理だよ……」
少年の心を徐々に後悔と諦念が支配していく。一度でも感じてしまった恐怖は、まるで遅効性の毒めいてじわじわと全身に染み込んでいくようで。
やはり大人の助けを借りるべきだったのではないか。今からでも家に戻って父親を呼んでくるべきではないか。きっと子猫はまだ耐えてくれる。ここで変に意地を張るより、可能性の高い選択を選ぶ方が、よっぽど――
「ニャア……、フミィ……」
――耳朶を打ったか細い鳴き声が、少年の意識に冷や水を浴びせた。
「……お腹、減ってんのかな。もしかして、あいつ」
もしかすると、ではない。子猫は確実にお腹を空かせている。
ならば身体に力は入らないだろう。心細いだろう。
いま耐えているのもやっとのはずだった。
いったい何時から木の上に居るのか。
野犬にでも追われて逃げ込んだのだろうか。
子を守るべき親はどこに行ってしまったのか。
脳裏で渦巻く疑問の数々を、しかし最終的に少年は切り捨てた。
「……違う。そうだ。駄目だろ。おれが、……助けないと!」
そう。いまやるべきことは、それだけなのだ。
恐怖と躊躇に使命感が勝った。使命感が勇気を奮わせ、勇気が決意を導き、決意が行動を生む。少年は一度大きく深呼吸してから頷いた。進もう。
太い枝の上に横たえた身体を、全身で抱き締めるようにして固定。そうしてなるべく下を見ないよう、芋虫が這うような速度でじりじりと前進する。
身動ぎするたびに枝が揺れ、軋み、心臓を絞られるような恐怖が襲った。
目尻には涙が滲み出て、それでも少年は前に進む。心に忍び寄る怖気を無理矢理押し潰し、ただ子猫を救うという一心のみを頼りに、強張る手足を動かし続ける。
一歩。また一歩。そしてようやく、手が届く位置まで辿り着く。
「やった、もうちょい……っ!!」
少年は限界まで身体を伸ばし、子猫を確保しようと試みる。
頼むから暴れないでくれという願いが通じたのか、それとも暴れるだけの元気がないのか、大人しい子猫はすんなりと少年の両腕に収まった。
体温と、鼓動。儚くも確かな命の感触。柔らかく暖かなその手触りに、思わず少年は溜息を吐き、ほんの一瞬だけ気を緩ませた。それがいけなかった。
「え、……ぁ」
ずるり、と。両腕の支えを失った少年の身体が、バランスを崩して枝から滑り落ちる。不味いと思った時にはすでに落下が始まっていた。
(――あ、おれ。死ぬ。嘘だろ)
前進から血液がすべて抜け落ちた、そう錯覚するほどの凄まじい寒気。
落ちる感覚は世界そのものから強引に切り離されるような途方もない心細さを伴い、咄嗟に胸元に庇った子猫の感触だけがやけに大きく感じられた。
両親の顔が。姉の顔が。友達や、お気に入りの玩具や、昨晩の食事のことが。次々に頭の中を過っては消えていく。現実感がない。それが余計に怖い。
「やだ、助け――」
その叫びは誰にも届かないのか。
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「――助けるからねッ!!」
否。叫びを聞き届けた者はいた。
少年を呑み込もうとする死という絶望。その運命に対して強引に割り込むように、救いの意志を示す応えは発せられた。
そして力は疾風の速度でやってくる。
え、と少年が思ったと同時、六連発の破裂音がスタッカートで鳴り響く。少年はその正体を理解できなかったが、ほぼ一音の連なりとして生じた銃声だった。
攻撃的な音響に鼓膜を叩かれ、本能的に身を竦ませた少年は、そこでふと、自分の背中がなにか柔らかいものに受け止められていることを悟った。
「……落ちて、ない?」
落ちるどころか、むしろ、宙に浮いていた。
地面から上空へと向かって吹き上がる強烈な風の流れが、まるでクッションのように少年の身体を空中に留めたまま無事に保護しているのだ。
草と土の匂いを染み込ませた上昇気流が頬を撫でる感触に、命が助かった安堵も手伝って少年は思わず深い溜息をこぼす。そこに再び声がかかった。
「そのままじっとしててね、いま下ろしてあげるから!」
鈴を転がすような軽やかな声が聞こえ、するとその言葉通り身体が徐々に大地に近付いていく。そうして両足が付くほどの高さになったところで、
「よっと、……よし! もう大丈夫!」
風ではなく二本の腕に背中を支えられ、そこで初めて少年は救い手の顔を見た。
「声が聞こえたから、走ってきたんだ! 間に合って良かったよ!」
どこか子供っぽい物言いには、けれど心からの喜びが滲んでいた。
どうやら悲鳴を聞きつけて駆け付けてくれたのだと少年は理解しつつ、そこでふと当然の疑問も同時に浮かぶ。この人物は何者だろうと。
少なくともこの辺りでは見かけない顔である。
風に踊る灰白色の髪。煌めく瑠璃色の瞳。
間近に見た表情は、太陽が輝くような笑顔。
年頃は自分とそう変わらないか、ひとつふたつほど上だろうか。長い睫毛と柔らかな頬の輪郭が、救い手が“彼女”と呼ばれるべき性別である事実を悟らせる。
ふと、彼女が着こんだ空色パーカーの胸元辺りから、汗の匂いと硝煙の香りが入り混じって漂い、少年の鼻腔をくすぐった。それと密着した身体の体温。
少年は自分の顔が赤くなるのを感じた。極度の緊張から解放された喜びと、不思議な気恥ずかしさとが、胸の奥を突きまわしてムズムズとさせる。
そんな感覚に戸惑いながら、少年はどうにか口を開く。
まずは礼を言わなければならない。子供ながらの意地と礼儀が働いていた。
「あ、ありがとう。えっと、……お姉ちゃん?」
「どういたしまして! けど、疑問形は付けないでほしいなあ」
彼女は苦笑。と、そこで蟇蛙の鳴き声めいた音が響いた。音源は彼女の腹。ぽかんとする少年に、彼女は気恥ずかしそうに眉尻を下げて、
「それで、その。助けたお礼にってのも、ちょっと厚かましいんだけどさ。……ご飯食べられる場所、どこか知らない? 実は腹ペコなんだ」
レーゲン・アーヴェントは、はにかみながらそう言った。
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レーゲンが案内されたのは、近くの町にある一件の宿屋であった。二階建ての一階部分に酒場が併設されており、昼時をやや過ぎてなお店内は賑わっている。
「もぐもぐもぐもぐ、んぐんぐんぐんぐ……ッ!!」
大皿にこんもり盛られたマッシュポテトが吸い込まれるようにレーゲンの口に消えていく様を、居合わせた人々は唖然とした表情で見守った。
「あの嬢ちゃん、すげぇ食いっぷりだな……」
「そもそもあんなちっこい身体のどこに入るんだ?」
「てか、芋ばっかしあんな詰め込んで、大丈夫なのか?」
案の定、喉に詰まらせたようだ。顔を青くして胸を叩くレーゲンに、給仕服の少女が慌てて水の入ったコップを運んでくる。それを一息に呑み干して、レーゲンは大きなため息を吐いた。同時に周囲からも安堵の声が上がる。
「……はぁっ!! ああ、死ぬかと思った!!」
「もう! そんなに慌てなくても、ご飯は食べられるでしょう!」
「あ、あはは……。ごめんなさい、つい食欲が暴走しちゃって……」
給仕服の少女に叱られ、レーゲンは苦笑いする。
なにせここ数日間ろくなものを食べていなかった。
旅立つときに用意した携帯食はとっくに食べ尽くし、以降は食べられる木の実や川魚などで飢えを凌いでいたのだが、その試みが常に上手く行くわけもなく。
特に今日は朝から何も食べておらず、空腹は限界に近付いていた。そんな状況でまともな食物にあり付けたのだから、つい箍が外れてしまうのも無理はない。
「だって、美味しかったから……。ポトフも、カツレツも……」
「お褒め頂きありがとう。だけど限度ってものがあるでしょうっ!」
「まったくもって、おっしゃるとおりです……」
バツが悪そうに頬を掻くレーゲン。駄目押しのように濁声が飛んだ。
「そうだぜ嬢ちゃん! うちの店で死人なんか出たらどえらいことだ!」
カウンターの奥にある厨房から、髭面の中年男性が顔を出している。
「なあに。そんなに慌てて食わなくても、飯ならいくらでも出してやるさ! なにせウチのバカ息子の命の恩人だからな、アンタは!」
つまりはそういう経緯で、レーゲンはタダ飯の権利を得たのだ。
ちなみに件の少年は現在、酒場の隅っこでしょぼくれている。彼は事情を聴いた父親から、説教と拳骨を頂いていた。気の毒だがこればかりは仕方がない。
現在は買い物に出かけているという彼の母親も、帰ってきて事の顛末を知れば大いに驚くことだろうと、少年は今から戦々恐々としているようだった。
「そら、次の料理が出来上がったぞ! これ持ってけ、リューベ!」
父親に呼ばわれた給仕服の少女が、元気な返事を発して駆けて行く。エプロンの裾がふわりと翻り、近くの男性客が何食わぬ顔で視線をそちらに向ける。
「リューベちゃん、色っぽくなったな……」
「馬鹿野郎、ンな色目使うと親父さんに殺されるぞ」
「聞こえてっぞテメェら!! 代金割り増しにするからな!!」
一喝を喰らった男性客が不平の声を上げ、周囲からは笑い声が巻き起こる。話のネタにされた給仕服の少女、リューベが澄ました顔で料理の皿を運んできた。
「はい、これ。スズキのソテー。……ごめんね。ウチの店、うるさくて。おまけに客層も下品な連中ばかりだし。まあ、でも、悪い人たちじゃないからさ」
「あはは。私の住んでた村でも、酒場の雰囲気はこんなもんだったよ。慣れてる慣れてる、大丈夫! むしろなんか、懐かしいくらいでちょっと嬉しいよ」
「そう? なら良いんだけど。……ほら、カロッテ! いつまでも拗ねてないで、アンタも手伝いなさい! ちゃんとレーゲンさんにお礼言ったの?」
「い、言ったよ! ちゃんと! おれがそんな恩知らずに見える!?」
姉の呼びかけに件の少年、カロッテは渋々といった表情でエプロンを締め、給仕の手伝いを開始した。まだ接客は拙いが客たちからは可愛がられている様子である。彼はいくつかのテーブルを回った後にレーゲンの下にもやってきた。
「あはは、小さいウェイターさんだ」
「なんだよう、馬鹿にすんなよな」
「してないしてない。でも、偉いね。ちゃんと家の手伝いしてさ」
「別に。家族経営の辛いところだよ。忙しいわりに小遣い少ないしさあ」
口を尖らせるカロッテに、レーゲンは思わず噴き出す。どの家庭でも似たような不満はあるものらしい。そこでカロッテはちらり、とレーゲンの顔を見た。
「あの子猫、さ。さっき、親が迎えに来たよ。ちゃんと見張ってろよな、って思うんだけどさ。やっぱり、……良かったなって思うんだ、おれ」
どこか歯切れの悪い報告に、レーゲンは目を細めた。
さきほどからこの少年が所在なさげにしていたのは、もしかすると子猫と別れた寂しさもあったのだろう。それから数秒ほどしてから、カロッテは畏まって、
「あの、レーゲンお姉ちゃん。さっきも言ったけど、……ありがとう」
「こっちこそ! ご飯奢ってもらっちゃって、本当に助かったよ!」
「うん。本当はちゃんとしたレストランとか案内した方が良かったんだろうけど」
カロッテはレーゲンを実家の店舗に連れてきたことを少しばかり悔やんでいるようだった。それは帰ってきて早々、父親に目から火が出るほど叱られる一部始終を、目の前でレーゲンに見られてしまった恥ずかしさも一因なのだろうが。
「ううん、むしろ有り難いよ。実を言うと、あんまり持ち合わせなくってさ」
偽らざる本音である。実際にレーゲンの所持金額は心許なかった。
頼みの綱のエーテル結晶も、その換金施設はもう少し大きな街に行かねば置いていない。もしカロッテの父親が、厚意から食事と宿の無償提供を申し出てくれていなければ、また野宿をする羽目になっていたところだった。
レーゲンがそう伝えると、カロッテは目を見開いた。
「の、野宿してんだ……。え、じゃあ、家には帰ってないの?」
「というか、一人旅してるんだ。腕試し目的というか、武者修行的な?」
修行という単語を耳にして、カロッテは胡散臭そうな顔をした。実際、危険の多いこのご時世でそんなことを試みるのは、狂人か物好きくらいのものである。
「ふうん。なんか、大変そうだね……」
故にきっと真剣には捉えなかったのだろう。
カロッテはふと、視線を傍らに立て掛けられた剣鞘へと向けたが、あるいは玩具かなにかと考えているのかもしれない。
レーゲンとしてもその方が良いと思った。
武器は危険から身を護る道具であると同時に、無用の警戒や不審をも招きかねない代物だ。今は恩義から好意的に接されてはいるが、妙なことをすれば即座に一転、自分に向けられる眼差しは厳しくなるに違いない。
一時でも親しくなった相手に恐れられるのは避けたかった。
レーゲンはひとつ咳払いをして、話題を切り替える。
「それに、ここの料理、美味しいしね! だから得しちゃった気分だよ」
「……なんというか。レーゲンお姉ちゃんって、案外、現金なんだね」
「ふふふ、渡世の義理と人情が、この痩せた腹に沁みやすぜい」
レーゲンが冗談めかして言うと、カロッテは無言で肩を竦めた。どうやらウケなかったようだ。レーゲンは誤魔化すように再び話題を変える。
「それはそれとして。この一宿一飯の恩義は、ちゃんと何らかの形で返すからね。なんなら数日間、このお店の手伝いしてもいいし……」
「……ええ? それじゃなんだか、堂々巡りじゃない?」
不思議そうに首をひねるカロッテに、レーゲンは微笑みかける。
「堂々巡りでもいいんだよ。恩を受けたら恩を返す。そしたら喜ぶ人は私と相手で二倍になるじゃん。私はさ、そういう、みんな幸せになる方が好きなんだよね」
それはレーゲンにとって譲れない信念だった。
「もちろん、受けた恩義を返さないような人間は誰からも信用されないとか、そういう悪評が纏わりつくのを心配してるってのもあるんだけどさ」
それだけじゃない。実利や仁義を貫く以上に、もっと個人的な観点で。
笑顔の数は多い方がいい。どうせ何かを得るのなら、大勢で共に分かち合いたい。なにより助け合う方が成し遂げられる物事は大きくなるだろうから。
その繰り返しが世界を善くするのだとレーゲンは信じている。
あるいは。かつて見た大きな背中を追いかける途中で、あの太陽のように眩い“彼女”の在り方を模倣しているだけなのかもしれないが、それでも――
「だって、そっちの方が気分良いじゃんね」
――なにより、レーゲン自身が、そうしたいのだから。
「レーゲンお姉ちゃんってさ。もしかして、……物凄いお人好し?」
「そう言われるの、わりと嬉しいんだよね。性悪よりはいいでしょ?」
にっこり。衒いのない笑顔を向けると、カロッテの頬が赤くなった。その様子を微笑ましく思いつつ、レーゲンは改めて料理に手を付けようとして、
「おう、邪魔するぜッ!!」
荒々しいがなり声が、店内に響き渡った。
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レーゲンは伸ばしかけていたフォークをぴたりと止める。
直後、酒場の扉が乱暴に叩き開けられ、どやどやと数人の男たちが無遠慮に踏み込んでくる。どう見ても堅気ではない、暴力的な雰囲気の集団だ。
レーゲンは彼らの風体に目を留める。薄汚れたシャツとズボン。そして腰から下げた、斧や鉈といった武装類。それらには使いこまれた形跡があった。刃にこびりつく赤黒い色。その道具本来の用途とは異なる使い方をされたであろう形跡が。
気付けば店内の雰囲気が張り詰めていた。重く、苦い。嫌な空気。さきほどまでの歓談は鳴りを潜め、客たちは硬い表情でテーブルに俯く。
「……また、お前らか。今度は何しに来やがった」
唯一、店主だけが強気な態度を崩さない。対して荒々しい闖入者たちは下卑た哄笑を上げた。先頭に立つ一人がわざとらしく手を叩きながら言う。
「おいおい、ご挨拶だな親父さん。ここは酒場だろ? なら、酒と飯を頂きに来たに決まってるじゃねぇか! それとも、それ以外の用事を済ませてほしいのか?」
後半部分には明らかに脅しの意志が込められていた。店主は舌打ちをしてから「さっさと食って、大人しく出ていけ」と吐き捨て、鍋を振るい始める。
「さすが親父さんは話が分かるなあ!! よし、ちょいと席を借りるぜ!!」
そう言いながら荒くれ者どもは三々五々、手近なテーブルを陣取るように我が物顔で腰掛けた。周囲の客たちはそそくさと席を離れるか、リューベに飲食の代金をこっそり手渡すと、そのまま酒場を逃げるように出ていく。
「……どう見ても歓迎されてないね。連中、何者?」
レーゲンは傍らのカロッテに小声で問う。カロッテは憎々し気に応えた。
「旅行士だよ。最近この町にやってきて、好き勝手ばかりするんだ。乱暴だし我侭で、最低な連中だよ。どうせ今日も代金を払わないつもりだろうし」
レーゲンの表情が歪む。憤りと哀しみを織り交ぜたものに。
旅行士。それはかつてこの世界を救った勇者たち一行が辿った旅路を真似て、自らも世界を巡る冒険を志した、力と夢を抱く者たちの総称だ。
果たしてその実態は暴力と示威を是とする無法の徒であることが多い。
十八年前に世界を襲った〈災厄の禍年〉。今もなお癒えぬ傷痕が深々と刻み込まれた世界は、いまだ数多くの危険と悪意によって分断されている。
そんな荒野を行く者たちが、ことさら品行方正であるはずもなく。無論その信条や目標は各々で異なり、誰も彼もが悪漢というわけではないのだが、
「噂だけどさ。あいつら、元々は盗賊団らしいんだ」
カロッテの囁き声に、レーゲンは耳をそばだてる。
「十八年前に家や仕事を失くした人って多いんだって。それでどうしても食べるのに困って、悪いことをしているうちに、そっちの生活に慣れちゃって……」
よくある話だった。〈災厄の禍年〉はあまりに多くのものを、この世界から奪っていった。そしてそれは当然ながら、人々の良心も例外でなく。
「でもあんまり大っぴらに暴れたら、すぐに〈巡回騎士隊〉が飛んでくるから、わざと旅行士を名乗るんだって。それで、どこかの町や村に居座ってそこの自警団みたいな顔をしながら、お金とか食べ物を住民から巻き上げるんだよ」
「……あいつらも、そういうことしてるんだ?」
「森の方に水車小屋があるんだけど、そこを占拠しちゃったんだ。小麦粉を挽いたりするのに必要なのに、使えなくなったから皆困ってるんだよ。おかげで小屋の周りも荒れ放題になっちゃって、でも誰も怖くて近付けないから……」
レーゲンは数秒ほど考え、カロッテにいくつか質問をする。
「連中、誰かを傷付けたりとかした? あるいは、殺したり」
「そこまでは、してない。酔っぱらって道端で喧嘩したり、物を壊したりはしょっちゅうだけど。でも、何人かは因縁付けられて殴られたよ。あと一度通報しようとした人が、取り囲まれて散々に殴られて、それっきり誰も手出しができなくて」
「そっか。……水車小屋って、ここから南の方?」
「うん。森があって、川があって、近くに湖もあるよ」
「ありがと。それと、あいつらが居座り始めたのって、どれくらい前から?」
「だいたい、一ヶ月前くらいかな。急にやってきたんだよ」
「……森って、私が来た方角だ。じゃああの湖は水車小屋のある川に通じてて、その流れが一ヶ月間も滞ったなら、空素構成もどんどん淀むから――」
小声で独り言ちたレーゲンは一言、不味いかも、と最後に呟いた。
「い、痛いっ!! や、やめてください!!」
と、そこでレーゲンの思索を悲鳴が断ち切った。ハッとして顔を上げると、一人の荒くれ者が興奮した様子で立ち上がり、リューベの手首を捩じり上げている。
「なんだそのツラ!! 俺に酌するだけのことが、そんなに気に喰わねぇか!!」
「そ、そんなつもりじゃ……!! やだ、お願い!! 放してください!!」
「――姉ちゃん!! やめろよ、姉ちゃんになにすんだよ!!」
悲痛な声を上げるリューベに、彼女の父と弟が激発した。特に父親は完全に怒り心頭に発し、熱された鍋を片手に調理場から足音も荒く飛び出して、
「リューベ!! おい、テメェ!! ウチの娘になにしやが――」
が、それよりも。レーゲンが立ち上がり、荒くれ者どもの元へ歩み寄る方が早かった。その際、レーゲンの横顔を垣間見たカロッテが、表情を凍らせる。
「れ、レーゲン、お姉ちゃん……?」
「カロッテ。ちょっと、離れててね」
冷たい眼差しと、冷たい声だった。瑠璃色の瞳に怒りが宿っている。
カロッテは未知の感情に襲われ、二の句を告げぬまま後退る。あまりに急激な変化だった。朗らかだったレーゲンが、まるで別人めいた雰囲気を発していた。
例えるならば穏やかな微風が、突然、鋭い木枯らしに化けたように。
「……あん? なんだ、テメェ。ガキが何しに来やがった?」
「き、来ちゃ駄目!! 危ないからっ、私は大丈夫だから!!」
足早に接近してきた見ず知らずの子供を、無体を働く荒くれ者が見咎めた。その仲間たちは面白がるように薄笑いを浮かべて状況を注視する。
リューベは自身の痛みを堪えてレーゲンを気遣った。
酒場の客たちは固唾を呑んで成り行きを見守り、店主は一瞬だけ呆気にとられた後に鍋を構え、いつでも割り込めるような姿勢をとる。
そして。衆目を一手に集めたレーゲンは、ただ一言だけを発した。
「いますぐ、その手を放して」
緊迫した空気に染み入るような、静かな声だった。けれどそこには鉛のような鈍く重い圧が込められている。対する荒くれ者は苛立たし気に唇を歪めた。
「何様のつもりだ、ああん? テメェみてぇなガキの出る幕じゃねぇ、目障りだから大人しく引っ込んでろ! それともケツでも引っ叩かれてぇか?」
威圧的な態度に、しかしレーゲンは一歩も退かない。
「お尻を叩かれるのはそっちの方でしょ。悪いことをしてるんだから。それともお母さんに教わらなかった? やっていいことと、しちゃいけないことの区別」
「言うじゃねぇかクソガキ!! その吐いた唾、いまさら呑めねぇぞ!!」
瞬時にして空気が熱を持った。荒くれ者の顔面が憤怒の色に染まる。
彼はリューベを荒々しく突き飛ばすと、腰から刃の錆び付いた斧を抜き放ち、そのまま躊躇なくレーゲンの頭目掛けて振り下ろした。
周囲から恐怖の悲鳴が上がり、誰もが撒き散らされる血飛沫を想像する。
「――痛ぇッ!?」
が、そうはならない。血飛沫は一滴たりとも飛ばなかった。
代わりに荒くれ者が苦悶の声を上げていた。その手に握られていたはずの斧は、いつの間にか取り落とされて、今は床に刃先を深々と食い込ませている。
何が起きたのか。誰も状況を呑み込めていない中、レーゲンだけが冷静にその眼差しを敵へと注いでいた。その右手には硝煙を立ち昇らせる自動拳銃。
ようやく、皆が理解する。灰白色髪の少女が、拳銃の抜き打ちで、荒くれ者の振るおうとした斧を撃ち落としたのだ。目にも止まらぬ速度で以て。
「遅いよ。まだ、やる?」
「――舐めんなぁッ!!」
激怒の叫びを契機とし、荒くれ者の集団が一斉に立ち上がった。
その全員がすでに武器を構えていた。彼らは脅し文句を口々に発しながら、激情に血走る眼をレーゲンに向ける。ドス黒い殺意が漲っていた。
荒くれ者たちの認識において、レーゲンはもはや排除すべき敵である。実際に引き金が弾かれた以上、例え相手が子供であろうが関係なかった。
殺さねば殺される。だから先に殺すのだ。
荒くれ者たちは情け容赦なくレーゲンに襲い掛かろうとし、
「だから、――遅いよ」
連発した破裂音が、瞬時にその全員を薙ぎ倒した。
額を。胸を。腹を。急所を的確に撃ち抜かれた荒くれ者たちが、苦悶と反吐を撒き散らして床に崩れ落ちる。彼らの誰一人として武器を振るうことすら赦されなかった。時間にすればほんの数秒。あまりに一方的かつ、迅速なる制圧劇だった。
次いで周囲からどよめきが上がる。荒くれ者たちは、誰も死んでいなかった。撃たれた箇所を赤く腫らしてはいるが、血は一滴たりともそこから流れていない。
銃声が轟いたとき、居合わせた者たちは全員、血みどろの光景を覚悟した。その予想に反する状況に皆が困惑する。撃たれた側の荒くれ者たちですら、自分たちがいまだに生きているという事実が信じられないような面持ちであった。
「空砲だよ」
種明かしはレーゲン自身の口からあっさりと為された。
「火薬だけで、弾頭はついてない。だから誰も死んでない。でも、けっこう痛かったでしょ。風圧だけを飛ばす、ちょっとした手品みたいなものでさ……」
足元に落ちた薬莢を拾い集め、腰のポーチに仕舞い込み。そうしてからレーゲンは新しい弾倉を取り出すと、床に伸びた荒くれ者たちへ露骨に見せつけた。
「でも、次は実弾だよ。……どうする? まだやる?」
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数分後。荒くれ者たちは捨て台詞を残し、よろめきながら酒場を出て行った。さすがに勝ち目がないと判断しての敗走であった。
「ごめんね、騒がしくして。いちおう、物は壊れないようにしたけど……」
言いながら周囲を見回し、そして、レーゲンは哀しげに苦笑する。
酒場の店主も。リューベも、カロッテも。居合わせた客たちも。全員が怯えた目つきでレーゲンを見つめていた。息を潜め、身体を震わせていた。
こうなることは分かっていた。力を振るえば、どうなるか。
確かに荒くれ者たちは憎まれていた。
それを排除することに彼らも否やはないだろう。
しかしその手段は結局のところ暴力で。
つまり傍から見れば違いはなく。
要するに、彼らが特別に恩知らずなのではない。
ただ純粋に、レーゲンを怖がっているだけなのだ。
けれど、見過ごせなかった。
どうしても、放っておけなかった。
だから、後悔はない。ただ、寂しかった。
そして。騒動のケジメはそれを引き起こした当人が付けなければならない。レーゲンは自動拳銃をホルスターに収め、剣鞘を腰の定位置に戻し。
「これから、連中の親玉と話を付けてきます」
皆へと向けて、そう言った。
「懲らしめるか、追い出すか。少なくとも今後、連中が皆に迷惑をかけるようなことには、絶対にさせないって約束する。だから、安心してください」
なにより憂慮すべきは、怨みに駆られた荒くれ者たちの報復である。故にその可能性を取り除かなければならない。話し合いで済めばいいが、実力行使も辞さない態度が必要だろう。これからレーゲンは後始末をしに行くのだ。
「事が済んだら、報告だけしに戻ってきます。そしたらすぐにこの町を離れます。もし一時間経っても私が戻らなかったら、すぐに〈巡回騎士隊〉に通報して、来てもらってください。今だったらたぶん、大丈夫なはずだから」
なるべく淡々と、要求だけを口にする。酒場の店主がぎこちなく頷いたのを確認し、レーゲンは踵を返した。酒場から出て行くのだ。そしてもう戻らない。
「ご飯、美味しかったです。ありがとうございました」
出ていく間際、背後で躊躇うような足音が、数歩分だけ鳴った。
子供の足音だった。しかし呼び止める声は続かない。
レーゲンは頬を掻き、今度こそ酒場を出る。
扉の外には不安そうに集った人々がいた。銃声を聞き付けた町の住民だろう。レーゲンは会釈をしてその間を通り過ぎる。流石に誰も追ってこなかった。
人混みから離れたところで、レーゲンは小さく呟く。
「……銃使ったのは、やり過ぎたよなあ」
けれど剣を振り回していれば、色々と物が壊れていたはずだ。制圧までに時間もかかり、余計に怪我人も増えていただろう。だから結果としては納得すべきで、
「……師匠なら、もっと上手くやるんだろうな」
独り言ちる。そう、師匠なら。きっと誰も傷付けず、誰も怖がらせず、万事を解決して見せたのだろう。翻って自分は怒りに身を任せてしまった。
胸の辺りに苦く重い塊が詰まったような感覚。
旅に出てから失敗したことはいくつもあるが、今回の出来事はそれなりに堪えた。後悔はあった。本音を言えば。どうしても。次から次へと。
「――ああ、もう!!」
レーゲンは立ち止まり、思い切り自らの頬を張った。
「落ち込んでる場合じゃない! まずは、きちんと全部、終わらせてから!」
強引に気持ちを切り替えて、レーゲンは足早に歩き出す。
目指すは荒くれ者たちに占拠されたという森の水車小屋だ。
進むにつれて徐々に湧き上がってくる不安に、レーゲンは嘆息。
「……私の悪い予感、当たるんだよなあ」
急がなければならなかった。なにせ悪い予感を裏付ける情報は出揃っている。あとは決定的な瞬間に間に合うかどうかが問題だった。
もしも間に合わず、自分が下手を打てば。
最悪の場合、死人が大量に出る。
「……ッ!!」
焦燥に駆り立てられ、レーゲンは地を蹴って走り出す。
行く手にはいつの間にか、鈍色の暗雲が立ち込め始めていた。
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