プロローグ:微風一陣
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釣りの極意は待つことにある。
まずはじっくりと腰を据えて機を窺う。動かぬ岩のように息を潜め、そして獲物が鈎針に喰い付いた瞬間、電光石火の勢いで竿を引き上げる。
重要なのは静から動への急激な変化を躊躇わないこと。そのためには好機を見逃さぬ判断力と、なにより好機を呼び込む忍耐力が必要なのだ。
「……なんて、父さんなら心得てるんだろうけどさ」
ぽつり。苦笑いを浮かべて、レーゲン・アーヴェントは独り言ちる。続いて零れたかすかな溜息は、一瞬だけ大気を揺らして微風に溶けた。
麗らかな陽気が照らす昼下がりの湖畔。
静寂の中、小鳥のさえずりと葉擦れの音だけがささやくその片隅で、少女がひとり、ぽつねんと岸辺に胡坐をかいて釣り竿を構えている。
白に近い灰色の髪。黒みがかった深い瑠璃色の瞳。明るい色のリボンで長めに括った後ろ髪が、うなじの辺りから尻尾めいて伸びている。
歳の頃は十代前半と思しい。若々しい生気に満ちた顔付きは、一見すると少年のような雰囲気を帯びていた。小柄な体格には溌溂とした意気が詰まっているようで、ひとたび動き始めれば猫のようなしなやかさを発揮するであろう。
服装は空色のパーカーと、カーキ色の長ズボン。加えて左腕の肘までを防護する鞣革と黒鉄で拵えられた手甲。腰のベルトに括り付けられた複数のポーチ。
そして、武装。すなわち、荒事に対する備えと、覚悟の意思表示。
腰の後ろ側に吊られた剣鞘と、右腰に付けたホルスターの存在は、少なくとも彼女が危険に対する準備を済ませてある事実を窺わせる。
その視線が注がれる先は、波紋ひとつ浮かばぬ水面。正確にはそこから伸びたここ小一時間ほどまったく微動だにしていない釣り糸へと。
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「……釣れないなあ」
本日何度目かになる、しょんぼりとした呟きだった。
場所が悪いのか、それとも時間が遅すぎたのか。昼飯を獲得すべく試みた魚釣りは、今のところロクな成果を上げていない。俗にいうボウズである。
やがて、ぐう、と。レーゲンの腹が蛙の鳴き声めいた音を立てた。
「駄目だあ。この調子じゃ、本当に日が暮れちゃうよ」
レーゲンはがっくりと肩を落とし、渋々釣り糸の回収を始めた。
こんなに実りのない釣りは初めてだった。普段の感覚なら今頃は二、三匹程度、とっくに釣り上げていてもおかしくはないのだが。
「うーん、魚はいるはずなんだけどな……」
陽光を受けて輝く水面を覗き込み、レーゲンは訝し気に首を傾げる。
ここ数日にかけて大雨が降った記憶はなく、実際に見る限りでも湖水が泥で濁っている様子はない。ならば他に原因があるのだろうか。
が、考えていても仕方なかった。今はひとまず食料探しが先決である。
後ろ髪を引かれつつ、湖畔を立ち去りかけたレーゲンの歩みが、そこで不意に止まる。表情から稚気が消え、瑠璃色の瞳がすう、と細まる。
「外道が釣れちゃったかあ」
夜気に晒された地金の如き冷たさを帯びた声だった。
それに呼応するように、すぐ傍の茂みががさりと揺れる。
レーゲンの左手が、ゆっくりと、背中側へと伸びていき――
「――GYAWA!! GYAGA!!」
――静寂を悍ましい金切り声が引き裂いた。子供の背丈ほどの影が数体、茂みを突き破って飛び出し、一直線にレーゲンを目掛けて殺到する。
「……っとおッ!!」
下草を踏み拉き、足音を蹴立てて、背後より迫りくる襲撃者。対するレーゲンの行動は迅速だった。躊躇なく大地を蹴り付け前方へと駆け出す。
(飛び道具はない、はず。あったら今頃、矢なり弾なり、飛んできてるだろうし)
わざわざ姿を晒してまで接近を試みるのが最大の根拠だ。
ならば襲撃者の武器は刃物か鈍器といった近接用に限られる。
レーゲンは走りながら、追跡者と自分それぞれの速度差を瞬時に計算し、十分な相対距離を得たと判断してから踵を返した。振り返る。
「……〈骸機獣〉!!」
レーゲンは改めて襲撃者と向き直り、眦も鋭くその姿を真正面から見据えた。
-§-
「――GYAWA!! GYAGYA!!」
「……“小鉈鬼”か。数は三、……四体と」
姿形を端的に評するならば小型の類人猿。
猫背気味の姿勢と細長い手足、耳障りな金切り声。
違いといえば、顔面の中心からギョロリと睨み付ける大きな単眼と、右手首の先から五指の代わりに生えた鋭く分厚い鉈。
裂けたように大きく開いた口から覗く乱杭歯。その奥から漏れ出た紫黒色の瘴気が、徐々に周囲へ漂い始める。土を枯らし、水を腐らせ、風を汚し、火を絶やす。生物に致命的な害を与える猛毒を、奴らは存在するだけで垂れ流すのだ。
生物としての特徴を歪ませ、捻じれさせ、悪意と害意を混ぜ込んだかの如きその異形。生きとし生けるものすべてに仇為す、暴力と殺戮のみが存在理由の怪物。
〈骸機獣〉。かつて世界中を混乱と悲嘆の渦に陥れ、今もなお癒えぬ傷痕を人々の胸に刻み続ける、共存不可能なる魔物たちの呼び名がそれだ。
(……こんな風通しの良い場所で、小型とはいえ四体も発生するなんて?)
脳裡を過った疑念を、しかしレーゲンは即座に払い捨てる。
余計なことを考えている余裕はなかった。こちらへ明確な殺意を向けてくる敵が四体。距離があるとはいえ不利な状況であるのは間違いない。
(瘴気の量は大したことないし、ほとんど風に流れて薄まるだろうから、ひとまず気にしなくて大丈夫。今は目の前の連中だけに、……集中!)
状況認識は恙なく完了した。最優先事項は、戦って勝つことである。
レーゲンが思考を切り替え、意気を構えたと同時。一体の“小鉈鬼”が痺れを切らしたように、甲高い奇声を発して躍りかかってくる。
「――GYOWAAAAAAAAッ!!」
一気に距離を詰めてくる凶悪なる形相、容赦なく叩きつけられるどす黒い殺意。
対峙するレーゲンは臆さない。瑠璃色の瞳に戦意が煌めく。彼女は剣鞘から刃渡り一メートルほどの短剣を一息に抜き放ち、そのまま逆袈裟に斬り上げた。
「……でぇりぁああッ!!」
「――GYOAWGAッ!?」
鋼の鈍い輝きは一筋の銀閃となって空を奔り、まるで吸い込まれるように標的を捉えた。破断音と悲鳴が重なって響き渡り、レーゲンは口元を歪める。
「まずは、……一匹!!」
胴体を断ち割られた“小鉈鬼”が勢いよく吹っ飛ぶ。
二つの塊に割断された小型の〈骸機獣〉は、そのまま数メートルほど成す術もなく宙を舞い、やがて元居た茂みの中に叩き込まれて沈黙する。
小柄な体格に見合わぬ膂力を見せた少女に、残った三体の“小鉈鬼”たちの間に、戸惑ったような躊躇するような気配が漂う。
レーゲンはその隙を見逃さなかった。
「……二、匹目ッ!!」
力強く大地を踏み込み、発条が飛ぶようにレーゲンは駆ける。
短剣を右肩に担ぐように構えた姿勢で、思い切りぶつかっていくように接近。その気勢を保ったまま、今度は上段から兜割りの一撃を喰らわせる。
虚を突かれた“小鉈鬼”は斬撃をまともに喰らい、抵抗の余地もないまま、頭から股下までを一刀両断された。悲鳴を上げる暇もない。
「次、三匹目……!!」
「――GYA、GYAGYAッ!!」
この段に及び、ようやく“小鉈鬼”たちは「反撃」の二文字を意識する。
残った二体のうち、自身が狙われていることを悟った“小鉈鬼”が、斬り掛かってくるレーゲンに対応すべく遮二無二に右腕の鉈を振るった。
子供が刃物を振り回すような粗雑さだが、少しでも刃先が引っ掛かれば人間の肌など容易に切り裂かれる、危険な凶器である事実は変わらない。
“小鉈鬼”の狙いはレーゲンの躊躇を誘うことだった。そうして彼女の気勢が減じた隙に、前後を挟み撃ちにするつもりであったのだが、
「ンなもの、喰らうかぁ!!」
レーゲンの気勢は止まらない。彼女は眇めた眼差しで振り回される鉈を見据えると、その根元目掛けて左から右へ、薙ぐように短剣を振るった。
「――GYAAAッ!?」
悲鳴が上がる。“小鉈鬼”の鉈が手首の辺りからもぎ取られていた。そして武器を奪ってしまえば、もはや“小鉈鬼”の対処など、赤子の手をひねるも同然で。
「今度こそ、三匹目ッ!!」
今度は右から左への斬り返し。首狙いのコンパクトな一撃が飛び、切り離された“小鉈鬼”の頭部が宙を舞う。断面から墨汁めいた血飛沫を撒き散らして崩れ落ちる“小鉈鬼”の亡骸、己の成果をけれどもレーゲンは一顧だにしない。
「……四匹目ッ!!」
狙いは背後に回り込んでいた最後の一匹。
レーゲンは左足を地面に突き刺すように置き、それを軸足として思い切り腰を捻る。同時に右足を大きく振って、その遠心力を以て鋭く右旋回。
線の集合体となって流れる視界に、鉈を振りかざした“小鉈鬼”の姿が映り込む。レーゲンは恐れない。気勢を叫びとして迸らせ、強烈な回転斬りを打ち込む。
「――せぁあああああッ!!」
灰白色の後ろ髪が、奇麗な弧を描いた。
レーゲンの放った一撃は、狙い違わず“小鉈鬼”の胴体を直撃。
“小鉈鬼”の貧弱な身体が真っ二つとなり、腰から上が捩じ切られるようなかたちで回転しつつ、あらぬ方向へと吹っ飛んでいく。その場に取り残された下半身が、数歩分だけたたらを踏み、程なくして崩れ落ちた。
「……好し!! ……とと、残心、残心」
油断なく周囲の様子を窺い、新手が現れないことを確認してから、改めてレーゲンは息を吐いた。肩から力を抜き、苦笑と共に頷く。
「ふう。……とりあえず、最低限はやれるっぽいね、私」
とはいえ、ここで驕ってはならない。なにせ、まだ旅は始まったばかりなのだ。
今回はおそらく相手が弱かっただけ。現状はスタートラインを踏み越えた程度の段階であろう。気を抜くのは、流石に早すぎる。
ただ、それでも。結果としては、とりあえず上々だ。
怪我も装備の損耗もなし。実戦に際して竦みもなく、身体と意志は鍛錬の通りに動いてくれた。慢心はできずとも、自信の源にするのは構わないだろう。
「師匠と比べたら全然だけど、ね」
乗り越えるべき壁は高く、追いかける背中は遠い。ただし目指す頂は明確だ。故に足りない自覚はむしろ歩みを進ませる原動力となる。
「さぁ、ってと!! 戦利品、回収しなきゃね」
大きく伸びをしてから、レーゲンは周囲を探り始める。
さきほどまで“小鉈鬼”たちの亡骸が転がっていた場所に、今はその姿は跡形もなく、代わって小石ほどの大きさの輝きが点々と落ちていた。
「あった! エーテル結晶!」
死した〈骸機獣〉の身体が正常なエーテルとして世界に還元される際、その副産物として生じるこの結晶体は、純粋なエネルギー源として様々な分野で有効活用されている。換金も可能なため、レーゲンにとっては旅の大事な資金源だ。
もっとも今回入手できた量は乏しく、すべて拾い集めても片手に収まるほど。それでもレーゲンは、昼ご飯代くらいにはなるかな、と満足げに頷いた。
「うん、結果オーライだね! 魚は釣れなかったけど……」
終わり良ければ総て良し。何事もまずは前向きに。レーゲンは己が定義する信条のままに、今回得た報酬を喜んだ。なにより無事が一番嬉しいのだ。
それからレーゲンは、岸辺に放置していた荷物を回収し終えると、きょろきょろと周囲を見回してから首を傾げた。頭の上には大きな疑問符が浮かぶ。
はて、目的地としていた街はどちらだったろうか。
地図はあるにはあるのだが、方角の他には主要な都市と行商路の位置くらいしか載っていない、ごくごく簡素なものだった。一旦脇道に入ってしまえば、目印でも作っておかない限り、自分が今どこにいるのかも分からなくなる代物である。
レーゲンは数秒ほど沈黙し、困ったように頬を掻き。
「……ま、適当に進んでいけば、そのうち見つかるよね!」
ぺかり、と。衒いのない笑みを浮かべた。
「いけるいける。私、方角だけは勘で分かるし。あっちが北でしょ。でも、日が暮れる前に辿り着けるかなあ。野宿は慣れてるから良いんだけどさあ……」
戦闘時とは打って変わって、あまりにも緊張感のない独り言を呟きながら、レーゲンは茂みの奥へと消えていく。なんとも頼りない道行であった。
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レーゲン・アーヴェント。駆け出したばかりの若き旅行士。
冒険と再会を志し、己が力を世界に対して試さんと旅立った少女の、これは最序盤の記録にして後に巻き起こる壮絶なる四重奏への前奏曲。
彼女はまだ、仲間を持たない。彼女はまだ、修羅場を知らない。
吹き始めた風はまだ弱く、微風にも等しい儚さでしかなく。身を焦がすほどの灼熱も、心を切り裂く冷酷も、まだこの時の彼女の内には宿っていない。
けれど胸一杯の期待と希望が、明日を見据える彼女の瞳を輝かせている。
故に今は、たったひとりの気ままな旅路。
もっとも、出会いの気配はそう遠くはなく。
やがて絶望を吹き飛ばす、疾風と叫びの通り雨。その予兆が沸き起こるまで、もう少し。あと少し。本編開始までの一幕をここに書き記そう。
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