卒業
ステージの上から見る景色は好きだ。それは私色に染まっているから。
幾百もの人間が関わり合って、私だけのために力を振るい、私だけのための舞台を作り上げる。
幾千もの人間が一堂に会して、私だけのために声を上げ、私だけのために明かりを灯す。
この空間の全てが私だけのために構成されている。そしてそれら全てを背負って私はここに立つ。
世界の果てまで届くように歌い。
世界の果てまで見えるように踊る。
一瞬の熱狂が、数秒の声援が、数時間の興奮が、数年の憧れが、十数年の努力が、ひとつ残らず集まって、私を見たことのない高みへと連れていく。
この瞬間私は紛れもなくこの世界の主人公だ。
「今日は私のライブに来てくれてありがとうございました!」
「私たちのライブ、な?」
「細かいこと気にするのね」
「細かくないでしょ」
「あの、喧嘩長引くならあとにしません? 時間が押してるので……」
「みっちーが予定にないアンコールを繰り返すから」
「いつものことでしょ――っと」
唐突にステージの床が下がり始める。台本では普通に下手に掃けていくことになっていたはずだったのだが、どうやらスタッフによる強制退場ということらしい。いつものことだ。
アンコール曲の用意がもうないとプロンプターにも出ているし仕方ないか。
「ほら、また強制退場だよ」
「いつも通りじゃない」
「台本通りなら下手に履ける予定だったの。みっちー一番台本読み込んでるんだから知ってるでしょ」
「アンコールが重なりすぎてもうとっくに台本の外だもの。それに収拾がつかない場合はちかの合図でセリによる退場って小さく書いてあったわ」
ちかは何食わぬ顔で、
「本当にありがとうございましたー。これからもたくさん応援してくださいね!」
とファンに手を振っている。
いつの間にか合図を送っていたらしい。毎度のことなのにちかがスタッフにどのような合図をどのタイミングで送っているのかを知らない。
「台本に収拾がつかない場合はとかいう文言があることに疑問を抱け!」
「いつも書いてあるじゃない」
「ほら、二人とも。もう見えなくなりますよ。最後くらい皆さんの方を見てください」
「「あ、ありがとうございました!!」」
年末から正月にかけてはネット番組への出演がひっきりなし。年が明けたら早々に大きなライブがあり、アルバムのリリース、収録、撮影ととにかく忙しい日々。
予定通りでも忙しいのだが、年末あたりからこれまでにない量の仕事がなだれ込んできたせいで予定よりも遥かに忙しくなっている。卒業発表以来日下もえの活動が急激に減っているせいなのだろう。そのせいで彼女に依頼されるはずだった仕事が私、ないしはバーテックスに回ってくる。
普通卒業を目前にした人気アイドルというのは、それまで以上に忙しくなるものなのではないだろうか。最後を盛大にするためにも。
しかしもえが出演しているのは事前に収録したものやインタビューを受けたものばかり。
何度も部屋を訪ねたが返事はなく、出入りしている気配もないのでどうやら帰宅してもいないらしい。それでも初めのうちはメッセージを送れば遅いながらも返信は来るし、ツイートも時々していたので事件や事故に巻き込まれたというわけではないようだ。
ちなみにメッセージで居場所を訊くとはぐらされて、しつこくすると返信が来なくなる。
しかしそれらも徐々になくなっていった。
あのMV撮影の日以来三ヶ月。急速に過ぎていく時間の中、ストックが尽きたのかどこのメディアでも日下もえをすっかり見なくなり、やがてトレンドに #日下もえロス が定期的に上がるようになった。唯一彼女のことを追えるのは不定期で更新されるホームページの卒業ライブに関する情報のみだ。それはファンだけでなく私も変わらない。
二月の上旬にプロデューサーからもえの卒業ステージに出演するのか否かを問われたきり彼女の動向は一切分からない。
日下もえがいないだけで世界が色褪せたように感じられる。私だけではない。いなくなれば誰もが心のどこかに多かれ少なかれ喪失感を抱くような存在。
TOP of TOPは伊達じゃない。
そして日下もえは一切姿を現さないまま卒業ライブを迎えた。
ふと、「いつか一緒にでっかいステージに立ちたいね」なんてデビューしたばかりの時にもえから言われたことを思い出す。
「いつか絶対に立ってやる」
「立つ? どこにですか?」
すぐ隣の席に座ったちかが首を傾げた。
「ステージよ」
「あーあ、誰かさんが断らなければこんな凄まじいステージに立てたのになあ」
「これに関しては謝るわ。ごめんなさい」
日下もえの卒業ライブのチケットは倍率が高すぎてネットで幻のチケットと揶揄されていた。それもそのはず、本会場である日本で一番大きなドームどころか、全国各地でやっているライブビューイングの会場のチケットまで全て一秒と待たずに売り切れたらしい。
もえがこの席を用意してくれなければ私たちはここにいられなかっただろう。そんな私たちが座っているのは関係者席だ。
あの日、最初にもえからステージへの出演に誘われた日。反射的に私は断ったのだ。もちろんその後にきた正式なオファーも迷わず断っている。
「あら素直。でも分かってるよ、あそこからの景色はまだ私たちが見ていいものじゃない。みっちーの反転アンチな気持ちを理解しちゃいそうなくらい悔しいけど」
「私もあんなところだったら立っただけで心が折れちゃいそうです……」
「いつか、必ずこんなステージに立つわよ。それで今度はもえを一緒に立たせる。アイドルやめてたって引きずり出してやるわ」
「え、こわ。みっちーってストーカーな気質があるよね……」
「素直にはいって言えないのかしら? 私はリーダーなのよ」
「パ、パワハラみたいですよ……」
呆れたように息を吐いたちか。
その直後に、ブー、と開演ブザーが鳴る。
会場の明かりが緩やかに落ちる。
真っ暗な空間で無数のサイリウムが緩く揺れる。
ざわざわと静かな喧騒が会場中に満ちる。
誰もが期待を向けるステージ。
バッとついたスポットライト。
それが照らすのは一人の少女。
小さな小さな身体を見せつけるようにクルリと一回転。元気で華麗なターンに世界が熱狂に震える。
後頭部の黒いリボンをぴょこんと揺らしてもえは顔を上げた。
『みんな準備はいい〜⁉』
そんなの訊くまでもない。
誰もが三ヶ月もの間彼女のことを待っていたのだ。準備期間は充分すぎる。世界のボルテージは最高潮だ。
『それじゃあ、いっくよ〜!』
思えば初めての挫折だったのだと思う。
もえはいつも呑気でただ好き勝手はしゃいでいるだけだ。常に自然体で良く魅せようと取り繕ったりもしない。
それなのに――
私はなんでも一番だった。勉強も運動も芸術も。自分より優れた人間がいることが許せなくて何事も誰よりも努力した。
それなのに――
それなのに私は日下もえには勝てない。
私は自分に才能があるのだと思っていた。
どんなことでも目指せば一番になれていたから。
でも本物の天才を目の当たりにしてそれが間違いだと気づいた。
日下もえは一度聴けばそれなりに歌を歌えるようになるし、ダンスも一度見ればそれなりに形にできる。私が段階を踏んでできるようになっていくことを彼女は一足で飛び越えていく。
才能とは最後にたどり着く高みのことではなく、そこへたどり着くための階段の数の差なのだと思い知らされた。
彼女と私では、同じ段数だけ上った時に見えるものに天と地ほどの差がある。
さらにどんなに勉強しても練習しても身につかない絶対的な魅力を彼女は持っている。その容姿、その性格、その声。愛されるためだけにあるような資質。創り上げられた偶像では天然には遠く及ばない。
努力は裏切らない。
積み重ねた分だけ私自身の糧となり、理想の自分に確かに近付ける。
それでも努力は簡単に踏みにじられる。
こと競争においては圧倒的才能を前にその無力さを思い知らされることがある。
それでも、私は日下もえに勝ちたい。
そのために私にできることは、どんなに一歩が小さくても歩み続けることしかないのだ。
爪が食い込むほど強く握った拳がわなわなと震える。
私は彼女のことが好きだ。
あのどこか危なっかしいダンスも。
あの脳に直接響くような歌声も。
あの世界中を強制的に幸福で包み込むような笑顔も。
「ほんと、嫌い……」
私にとっての一番が彼女なのが気に入らない。
私にとっての一番は常に私であってほしかった。
『わたし、今日でみんなとはさよならだけど大丈夫』
相変わらず意味が分からない。大丈夫って何がだよ……。
大丈夫なわけがない。
彼女の卒業は呪いだ。いなくなるということは私が日下もえに追いつく機会は――私が私の中の一番に返り咲く機会は永遠に奪われることになる。
『わたしの親友には悪い癖があります。天井がそこだと思ったのならもっと先まで手を伸ばさなくちゃ、ただ天井に触るだけで終わっちゃうぞ。それに君が思ってるほど天井は高くないからね。分かった?』
何万人の前で個人に話しかけるような奇天烈MC。しかも「はあ、疲れた」なんて言いながらステージのど真ん中に座り込むし。本当にこれが卒業ライブでいいのだろうか。
『私が本気で憧れた人は、自分が世界で一番すごいってことが全然分かってないんだよ~。わたしの夢はあの子と夢を叶えることなんだ。ほんとはね、もう少し時間があると思ったんだけどね、もうダメみたい。半分は夢が叶わないや』
ライブ時間のことだろうか。確かにもう終盤、というか時間的にあと一曲が限度といったところだろう。バーテックスのライブならここからが長いが普通はそうではない。
『あ~あ、本当は自分で見たかったんだけどさあ。あとは世界中の君たちが見届けてください! 大丈夫、わたしなんかよりもっとすごいものをあの子は必ず見せてくれるから!』
いつも以上に話が読めない。世界中の困惑をよそにいたずらっぽく笑うと、もえはよいしょと立ち上がる。
『それじゃあ最後の曲は新曲です! これが最後。応援してくれたみんな、わたしなんかをここまでにしてくれた会社や関係者の皆さん、そして親友のみちるちゃん、今までありがとう。ここまで本気でやってきて、本気でやってきたから、悔いはないよ』
もえはこれまでで最高の笑みを浮かべた。
日下もえは最期の瞬間まで本物のアイドルだった。
そうだ、落ち着いたらたまには私の方から食事にでも誘ってみよう。もえがこれからどうするのかも気になる。それにやっぱり急に卒業してしまったことに文句だって言い足りない。まあでもまずは「お疲れ様」って言ってあげようかしら。
ドームを出て大きく伸びをする。
喪失感を超える興奮は永遠に冷める気がしない。
春の青空に桜が舞う。
「はーあ、勝てる気しないわ」
ホームページで日下もえの訃報が出たのは卒業の翌日だった。
病死という以外の情報がほとんど公表されなかったのは、どうやら本人の意向らしい。
終わりです。
ありがとうございました。