日下もえ
『大人気アイドル 日下もえ 今年度いっぱいで卒業⁉』
暗い部屋を辛うじて照らすスマホは電池切れ間近。そこに映し出されるSNSやネットニュースはひとつのトピックで埋め尽くされている。
どのように自宅まで帰ってきたのかすら覚えていないが、帰ってきた時にはまだ窓から陽が差し込んでいたように思う。スマホが示す現在時刻は二十三時五十七分。
帰宅して数時間、私はこうして何もせずに座っていたらしい。
『三月でアイドルを卒業しますっ!』
あの言葉は聴き間違いじゃなかった。インターネットの文字たちがそれを証明している。
どうして、なんて私が考えたところで意味なんてないのは分かっている。それでも出口のない迷路に迷い込んだ思考は同じ場所をぐるぐると回り続ける。
SNSのタイムラインを何度更新したってその答えが出てくるわけはない。
深く息を吐いてスマホの電源ボタンを押す。
真っ暗になった画面に映るのは、瞳に光を宿さない私の顔。
と、スマホが軽快な音楽を鳴らして震え出す。暗くなったばかりの画面にポップアップしたのは緑と赤の二つの丸いボタン。電話だ。
相手は――日下もえ。
頭が回っていなかったこともあり、つい習慣で緑のボタンをタップしてしまったことを後悔する。卒業の理由は気になりはするが、それ以上に今は彼女と話したくない。だからといって切るわけにもいかず、ゆっくりとスマホを耳に押し当てた。
『あ、もしもしみちるたん? こんばんは〜、いまろこ〜?』
電話越しでも酔っ払っているのが丸分かりな舌の回らない挨拶。それでもこのふわふわで蕩けそうで可愛らしく頭の悪そうな声の主が彼女で間違いないことはすぐに分かる。
「酔ってるの……?」
『あ〜、みちるたんだあ。ろした? 暇なの〜?』
会話ができなさ過ぎてもう切ってしまおうかとも思ったがなんとか思い留まる。
「あなたが電話してきたんでしょう」
『ああ、そうれした! いまろこにいますか?』
「家だけど」
『ほーん、今、あなたの家の前にいるの〜』
ドンドンドンドンドンッ!
声と同時に玄関の扉が力強く叩かれる。
本気で心臓が止まるかと思った。
電話越しにもドンドンと音が聞こえることから、部屋の前にいるのは本当に彼女なのだろう。廊下を走って勢いよく玄関扉を開ける。
「ホ、ホラー映画かっ!」
ガッ!
何かに当たって扉は開ききらない。しかしパッと見た感じでは障害物は見当たらない。
「っ〜〜〜〜」
超音波のような音は足元からのものだ。
視線を下げるとそこには障害物があった。いや、いたという表現が正しいのだろう。
額を抑えて、涙目の上目遣いで私を見上げる日下もえだ。
「……ご、ごめん」
「いたい……」
「あなたの部屋は隣よ」
私が粉のミルクティーを二杯テーブルに置くと、もえはわーいと小さな胸の前で小さな拍手をした。彼女の動きに連動して長いポニーテールがふりふりと揺れる。
遠慮という言葉を知らないのか、彼女はミルクティーをズズズっと一気に飲み干してしまった。
「部屋は間違えたんじゃないよ。みちるちゃんに会いに来たの!」
先程の痛みでいくらか酔いが覚めたらしい。かろうじて会話は成立している。
「こんな深夜に? しかもあなたツアー明けでしょう?」
「あれ、みちるちゃん私のツアーの日程とか覚えてたんだ」
「同期のドームツアーくらい覚えてるわよ」
「いつもは興味なさそうにしてるくせにぃ」
もえと私は同期だ。同じ事務所からほぼ同じ時期にデビューしたアイドル。そんな彼女が全国のドームでライブをするというのに意識しないなんてできるわけがない。
「まあ、興味はないけれど」
「みちるちゃんはそうだよね。そういうところがクールでかっこいい」
眩いばかりのアイドルスマイル。これが営業ではなく素で出てくるのだから日下もえは底知れない。アイドルになるために生まれてきたような女だ。
「……それで、なんの用なのよ」
「ちょっと一緒に飲もうと思って!」
「あなたさっきまでも飲んでたんじゃないの?」
「みちるちゃんと飲むお酒は別腹だし別肝臓!」
何を言っているのかよく分からないので、「あっそ」とこれ以上の情報を拒んでおく。
「ていうか知ってると思うけど私は飲めないからね」
「大丈夫大丈夫、私がみちるちゃんの分まで飲んであげるからさあ。まったく手がかかるなあ、みちるちゃんは~」
「それはあなたが飲みたいだけでしょう」
ドンッとテーブルに置かれたのは、茶色っぽいお酒。瓶に貼られた白いラベルには銘柄らしき『山崎』という文字と大きめに『25』と数字が書いてあるのが見て取れる。余計な模様などがないためどこか渋くてかっこいい気がする。
「山崎二十五年っ! ファンの人からもらったの!」
「ふーん、よく分からないけど有名なお酒なの?」
「なんかそうみたい。わたしもよく分からないけどさっき通販サイトで見たら十五万円くらいしてたよ」
もえはにっこにこで空のティーカップにドバドバと酒を注ぎ、やはりこれも一気に飲み干す。
「じゅっ……もっと味わって飲みなさいよ」
「味わったって味の違いなんて分からないも~ん」
「それを買ってくれたファンも浮かばれないわね……」
まあ、ファンは知っていて贈ってるのか……。
もえの酒乱は有名な話だし、彼女が時々やっているネット配信でもよくこんな感じの飲み方を晒している。ちなみに部屋が隣なので、酔っぱらいすぎて寝落ちした配信を止めに行ったことが何度もある。
悲しいかな、これがTOP of TOPなどと事務所に売り出されているアイドルの実態だ。
「みちるちゃん明日はお仕事?」
「午後からMV撮影があるわね。夜は自主練」
「わたしはね、おやすみ~」
「一月半で全国回ったんだものね……」
きっとほとんど休めていなかったことだろう。
「そうそう。楽しかったなあ。でもみちるちゃんと会えないのは寂しかった!」
「それはどうも。私は隣の部屋が静かで過ごしやすかったけれどね」
「またそんなこと言ってぇ~」
ミルクティーを少し啜ってほっと息をつく。
「これ意外と美味しいわね」
「うん、美味しかったよ」
「あなたはどうせ味なんて分からないでしょ」
もっとも私だって紅茶の味なんて人並み程度にしか分からないが。
「それもそっか!」
わははと声を上げて笑ったもえはいつも通り――だったのだが、細めた目尻からツーと一滴、しずくがこぼれて彼女の白い頬を伝った。
「え、ど、どうしたのよ、急に。泣いてるの……?」
私が味覚をバカにしたせい?
いや、この程度のことで泣くもえではないだろう。
ともすれば飲みすぎか……?
「泣いてるって、わたしが?」
もえが手の甲で自らの目元を拭って――反対の目からも二粒目のしずくがこぼれる。そしてそれを皮切りに次々と彼女の目から涙が溢れ出す。
「あ、あれ、おかしいな……」
少し考えたらこの涙の理由には簡単に思い当たった。卒業関連だろう。
今日、日下もえはアイドルを卒業するという大きな発表をした。
その理由は知らない。彼女はアイドルとしての活動を楽しんでいたはずだ。それにも関わらずやめるとなればのっぴきならない理由があったのだろう。そして決断をするためには計り知れない苦悩があったかもしれない。
そこまで悩んでいたのなら、せめて一言くらい相談してくれればよかったのに……。
そんな感情は言葉になる前に飲み込んで、鼻を啜りながら声もなく泣いているもえに、黙ってティッシュを差し出す。
「……訊かないの?」
もえはズビビと鼻をかんだ。
「何を?」
「何って、いろいろ……」
「……興味ないわ」
「そっか。そうだよね……」
もうもえと出会って七年近い時が経つ。それなのにこんな切なげな表情を見るのは初めてだ。
日下もえは生まれついてのアイドルだ。いつどんな時も笑顔を絶やさないし、明るい言動で世界を彩る。彼女がアイドルじゃない瞬間なんてわずかたりとも存在しなかった。それなのに――
「嘘。興味ないわけない。どうして急に卒業なのよ。私に一言くらい言ってくれもよかったじゃない」
先ほど飲み込んだはずの言葉が思わず飛び出る。
「みちるちゃんに話したら絶対揺らいじゃうもん。たくさん考えて出した結論なのに、それくらいで簡単に揺らいじゃう」
「そのくらいの覚悟ならやめなければ――」
「そういうところだよ、わたしがみちるちゃんに相談できなかったのは」
もえはにっと口角を上げた。
「わたし、最初は目標とかもなくアイドルを始めたでしょ。でもすぐに目標は見つかったよ。それでアイドルをずっと続ければそこにたどり着けると思ってたんけど、そうじゃなかったみたいだって最近気づいたの。どっちかというと逆だった。だからアイドルをやめるの」
「えっと、つまり?」
いつものことながら彼女の言っていることは要領を得ない。酔っぱらっているならなおさらだろう。
「つまりはないよ。それだけ~」
「分かったわ。これ以上訊いたってどうせまともな返事は期待できないことが」
そもそももえのすることなすことなんて凡人には理解できないのだ。そんなことにはとっくの昔に気づいていた。
だからこそだろう。意味が分からなくたって彼女が卒業するという事実を受け止めることができた気がする。
「納得はしてないけど……」
「みちるちゃんが納得しなくたってもう大舞台で発表しちゃったも~ん」
もえは勝ち誇ったように憎たらしく小さな胸を張った。
「相変わらず憎たらしいわね」
「可愛いの間違いでしょ。それにどっちにしてももう長くはないからね……」
再びティーカップいっぱいにお酒を注いだもえはこの上なく嬉しそうにそれを口元へと運ぶ。
「それ、そんなに美味しいの?」
「ん? 一口飲んでみる?」
こちらに傾けられたティーカップには黄金色のお酒が半分ほど残っている。
「いや、私は――」
「あー、でもダメかあ。みちるちゃん弱っちいもんね~」
「飲めるわ、お酒の一口や二口くらい」
私が奪い取るようにカップを受け取り、お酒を口の中へ一気に流し込む。「おー」と目を細めたもえに煽られるまま。
「辛っ――」