1.引き継ぎ事項手引書(4)
何がどうなっているんだ。さっきまで目の前に居たイかれた天使様が、何やら男の夢を詰め込んだ理想の身体をしたある意味で天使なレディに変わっている。
それにさっきまで俺の背後で死にかけていた瀕死の狂人の姿も無くなっている。と言うよりも、俺が移動している。目の前のこの女は何なんだ。
「あんた。……誰だ?」
「誰?と聞かれましても、そのご説明には恐らく永い刻が必要となりますがお聞きになりますか?」
「簡潔にわかる様にささっと説明してもらえると助かるんだが」
「でしたら簡潔に。私はこの書庫の管理を任されています。名をサラーサ・アシャルと申します」
優雅にそして深々と頭を下げて自己紹介をするアシャルの姿からは、神々しい気品が溢れていた。
「サラーサさん。ここは何処でここの本棚は何なんだ?」
「敬称は不要です。混乱されるのも仕方がありません。まず、ここは歴代の勇者様たちが授かった能力を封印した本を保管する書庫です。そしてあなたは第30,609代目の勇者であり、この書庫の所有者となられました」
激しく頭痛がする。あからさまに作られた笑みを浮かべながら語る彼女の姿形に、目眩すら覚える荒唐無稽な話の内容、そのどれもが頭が痛くなる要因だ。
「よくは分からんが、俺の前にも勇者ってのがそんな数居て、ここに来てあんたと話をしたと?」
「ええ。それこそ大勢の勇者様がここを訪れました。しかし、ここ千年ほど生まれた勇者様の殆どはここの存在すら知らずにお亡くなりになっていましたが」
「それはどう言う事なんだ?」
「何やら神を讃える者達がここの存在を知る前の勇者様を、次々に片っ端から貢物にしていたからの様です。ですからあなた様は久方ぶりに此処を訪れた勇者様です。ではさっそくですが、本を数冊お持ち致しますので、少々お待ちください」
そう言うとサラーサは部屋の奥に消えた。俺は部屋を歩き回り本棚に並べられた本を数冊手に取り開こうとしたが、全ての本に鍵の差し込み口が付けられており、ページを開く事ができない。
「お待たせしました」
「ひっ」
突然現れたサラーサに耳元で囁く様に声をかけられ、つい声が漏れてしまったが、下の方は漏れていないので良しとしよう。
「ご、ゴッホン。いやいや、ゼンゼン待ってないよー。大丈夫ですよー」
全力で平静を装った俺の演技は恐らく見破ることはできないだろう。ただサラーサの俺を見つめる瞳が、先程までに比べて若干軽蔑をはら見ながら据わった目で見られていると感じるが、気のせいである事を祈ろう。
「急激な心拍数の上昇を確認しましたが、生命活動には影響しない範囲ですので、ご安心ください。そして、こちらが今回あなた様が鍵を開けた本になります」
サラーサが差し出してきた内の666と書かれた本に目を奪われる。深い黒色に染められた気味の悪い外観をしている。恐る恐るその本を受け取って近くで見てみると、その本の色が黒ではなく暗赤色であることが分かった。
本を手に持っていると背筋に冷たいモノが伝うのを感じる。そして頭脳にではなく胸の奥の深いところに、誰かの感情が流れ込むのを感じた。俺は俺一度その本を手放して他の本と一緒の場所に並べた。
「30609代目勇者様。そちらの本の説明を致しましょうか?」
「長い呼び名だな。まぁいいや、頼むよ」
そう言うとサラーサは本を手に持ち、表紙をこちらに向けて話し始めた。
「まずこちらの本は123代目勇者様が残された力、名は【立ち向かう者の剣】、能力は短時間の間、対峙した者を上回る力を得る。取得条件は(圧倒的な戦力に立ち向かう)です。
次にこちらの本は5052代目勇者様の力、名は【初めて】、能力はキレの良い指パッチンの力を与える。取得条件は(初めて能力を取得する)です。
そして最後の本は666代目勇者様の力、名は【???】、能力は???、取得条件は(???)です?」
本の紹介を終えると、サラーサは一歩下がってこちらを見たままその場で待機している。訳がわからないが、行動を起こさない限り進まない事を感じて本を一冊手に取った。
本の表紙にはNo.5052とだけ書かれており、サラーサが説明した能力名や取得条件なるものの記載はない。
「サラーサ、もしかして全ての本の情報を覚えてるの?」
「勿論です。私は本の管理を任されているのですから、至極当然のことです」
瞬き一つせずに答えるサラーサ。その美貌とは裏腹に淡白な態度、並の男ならそれだけで視線を見なることさえはばかれるだろう。しかし、そう言った趣味、もといマグロ属性を愛する者からは恐らく絶大なる支持を受けることだろう。
などといった考えを脳内で駆け巡らせていると、心なしかサラーサの瞳が冷たいモノに変化していくように感じられるが、恐らくは気のせいだろう。そう、先程まで眉ひとつ動かさなかったサラーサの瞳が鋭く変化していようとも。
気のせいではあるだろうが、背中に冷たい汗が何故か流れるのでそちらの思考をやめて目の前に置かれた本に意識を集中させることにした。
恐る恐る本を開くと、同時に眩い光が俺を包み込んだ。そしてその光は俺の身体の奥底に入り込みと身体に吸収された。
「今のは何だ⁈」
「本を開かれただけですが、それが何か?」
「いや、今凄く眩しい光が俺を包んで……——」
「いえ、私にはその様な光は見えませんでしたよ。ですがそういえば確か、初めて本を開いた勇者様はは皆様同じ事をおっしゃっていましたので、問題はないと思います」
サラーサの言う通りなら眩い光は本を開いた者にしか見えないと言う事になる。そう考えると、恐らくはその光が授けられた能力に関係するものであることは、容易に想像ができた。
何より本を開いて眩い光を浴びる前と後では、自分の感じる感覚的な違いがあるのは自覚が出来た。今開いた本は【初めて】で、能力はキレの良い指パッチン。
俺は右手を高らかに挙げて中指と親指を合わせて指パッチンをする為の形を作った。不思議なことに指の合わせる力加減や、角度を当たり前の様に理解している自分がいる。
そして完璧なタイミングで指を鳴らすと、書庫の中を心地よく鳴り響いた指パッチンの音が部屋を駆け巡る。先程まで冷たい視線を俺に向けていたサラーサでさえ、あまりに見事な指パッチンに聞き入っている様だ。
「お見事です。勇者様」
サラーサはそう言うと大きな拍手を俺に送ってくれた。鳴らした本人である俺が言うのもおかしいが、もしもこの音色を奏でる人がコンサートを開くなら迷う事なく大金を積んでも聞きにいくに違いない。そう思えるほどだった。
俺の好奇心は急速に高まり次の本を手に取ると迷う事なくページを開いた。すると先程と同じ様に眩しい光に包まれ、同じく身体の奥底にその光は吸収された。
そしてサラーサに先程と同じ質問をすると、やはりそんな光など見ていないと言われてこの現象は本を開いた者にのみ起こる現象であると確信した。
そして俺は今開いた本の能力を使うのに必要なことを知っている。右手を前に伸ばして俺は言う。
【立ち向かう者の剣】
唱えると何処からともなく現れた程よい長さの両刃剣が俺の手に握られていた。刀身を眺めているとサラーサが何処から持ってきたのか巨大な岩を頭上に掲げてもってくると、俺の目の前にその岩の塊を置いた。
「試し切りにお使いください」
さらっとサラーサが切れと言った岩は、少なくとも直径3メートルは優にある巨大な岩だ。寧ろ壁といったところで疑う者の方が少ないほどに近くで見ると巨大だ。
あまりに長時間見つめていたせいか、またもやサラーサの視線が冷たくなるのを感じて俺は観念して剣を高く構えた。そして力の限り振り下ろすと、見事に弾かれ手に痺れが走った。
しかしこうなる事を俺は知っていた。何せ能力が対峙した者を上回る訳であって物ではないからだ。だが心配して剣を確かめたが、巨大な岩に力一杯振り下ろしたにも関わらず刃こぼれ一つない強度には脱帽した。
俺自身はこの結果にまんぞくしているのだが、サラーサの冷たい視線が和らがない為、仕方なく聞いた。
「あのー、何かお気に召しませんでしたか?」
「いえ、その剣の所有者であられた123代目勇者様はそれぐらいの小石は豆腐の様に切られていたので、驚いたと言いますか。ですがどうぞお気になさらず」
俺はこの日、言われたくない事をすべて聞かされた後に言われる、お気になさらずほど心をえぐる言葉はないと知った。