幸せだろう香り
現代医学の粋を集め、最高の腕を持つ医師たちが集結したこの病院にも、残念ながら救うことができない患者もいる。
そのある個室から、家族でさえ耳を塞ぎたくなるほどの、老人の苦痛の叫びが響いていた。
すでに手の施しようがなく、苦痛を和らげるための薬もすべて試したがいっこうに効く様子もなく、昼も夜も、老人は激しい苦痛に襲われている。
これまで平凡ながら幸せに暮らしていた老人が、なぜこれほど苦しまなくてはならないのか……何もできない家族は極度の疲労に見舞われていた。
「せめて、この苦しみを何とかできませんか?」
「現在の薬では、これ以上のことは出来ないんです。
本来なら今使用している薬でさえ、昏睡状態となってもおかしくないのですが」
医師の表情は、家族と同じ疲労と、苦しさ、悔しさに満ちている。
老人の苦痛は日を追うごとにひどくなる一方だった。
ある日、医師は家族に粉末状の薬品サンプルの写真を見せた。
「先週、国際学会で発表されたばかりの新薬で、この国ではまだ認可されていませんが効果は確実です」
「これはどんな薬なのですか?」
「アロマテラピーをご存知ですね。
レトロネイザルと呼ばれている研究から発見されました。五感の中で香りは記憶と強く結びついていることが分かっています。
呼吸器から送り込まれた薬は嗅覚神経を刺激して粘膜を通り脳に到達します。
そこで記憶から最も楽しかったことや嬉しかった思い出、つまり夢を見させて苦痛を取り除くのです」
「そんな素晴らしい薬があるならぜひ……」
「ただし、これまでの臨床試験の結果では、この薬を使用された患者は意識を取り戻すことなく約1か月で死亡されています」
家族は相談の結果、少しでも楽になるならと、その新薬の使用を承諾した。
老人が2、3度息を吸い込むと、苦痛の声は小さくなり、やがて幸せそうな笑顔を浮かべて静かに眠った。
1か月後。
老人は安らかな表情のまま旅立って行った。
家族は、亡くなる間際だけでも安らかな思いのまま逝けたことに感謝した。
「自分の家族がターミナルケアを受けることになったとしたら、君はあの薬を使うかい?」
深夜のカンファレンスルームで、コーヒーを飲みながら医師がもう1人に尋ねた。
「……どうだろうな」
「レトロネイザル=ネグレリア治療か。もし家族が事実を知っていたなら、承諾しただろうか」
水辺に生息する微生物の中には、致死率97%という恐ろしい症状を発症させる「フォーラー・ネグレリア」というアメーバがいる。
「原発性アメーバ性髄膜脳炎」と呼ばれ、発症すると脳を食べながら増殖するため、脳がドロドロに溶けてしまうのだ。
末期患者に使用する乾燥させた特殊なアメーバが増殖する際にある酵素を分泌する。
それは人間の快楽中枢を刺激するため、脳が溶かされるほどに苦痛は消えて、快感、安心感が増していく…ただし、その先には確実な死が待っている。
「自分がそうなったらやってもらうかも知れないけど、それが家族だとしたら…。
だけど、今回のようなケースだったら、やっぱり使うかもしれないな」
ターミナルケアはまだまだ問題が多く、結論は簡単に出せるものではない。
遠くから、聞き慣れた延命装置の機械音が静まり返った病院に響いている。
医師たちは、もうひと口コーヒーを飲んだ。