カエルの面に
この標高8000mを超える山の単独登攀にこぎ着けるまでの準備に、7年もの歳月を要した。
世界最高峰への前人未到のルートアタックのために山積みされた難問をクリアできたのは、私自身のこれまでの経歴に賛同してくれた人たちの力添えと登山道具の進歩の面も大きい。
アタックを開始した当初は、GPSによる天候の変化や私自身の健康状態はもちろん、あらゆる危険を想定して臨んでいるため、順調過ぎるほどだった。
だが経験上、山の神がそう簡単に征服を許してくれるはずはない。
案の定、次のステップへのアタックを開始しようという時になって、天候が荒れ模様となった。
あきらめて引き返すか、それともチャンスを待つか。
多くの経験を重ねてきた私は、後者を選択した。
これが山の神の試しなら簡単にあきらめる訳にはいかない。
己の力量を見誤って遭難するのはもってのほかだが、あきらめるべきでないところであきらめては、山はもう2度とチャンスを与えてくれないのだ。
果たして読みは当たり、悪天候から2日後、あの荒れ模様は何だったのかと思えるほど好天に恵まれた。
いざ! 山頂へ。
それでも私は慎重に登攀を続け、残すは眼前に立ちはだかる大氷壁のみとなった。
この氷壁の攻略にも充分な装備で挑んではいたが、しかし、またここで悪天候に遭遇する。
衛星写真から確認して計画していたルートと、実際にこの目で見て判断したルートが吹雪によって刻一刻と迷路のように変化していく光景を前に、これ以上の登頂は断念すべきという言葉が何度も頭をよぎった。
だが、断念して下山するにも吹雪がやむのを待たなければならない。
一人用のテントの中でシュラフにくるまりながら天候回復を待つこと半日。
荒れ狂っていた空から急に青空が見え始めた。
もう登頂計画日程も残り少ないが、一気に攻め落とせばまだ間に合う。
これが最後のチャンスだ。
私は残された体力と気力を注ぎ込み、一気に大氷壁へのアタックを開始した。
長年の経験とカンを武器に、少しずつ確実に。
氷点下の冷たさは厚い手袋を通して指先を凍てつかせ、青空の中でも舞い散る雪は容赦なく体温を奪う。
ああ、そう言えば出発前の故郷は真夏だったな。
見送ってくれたのは年老いた両親や子供時代の恩師。
とっくにあいつの妻になった幼なじみのあの子。
古びた駅には、やたらセミの声が響いていた。
ジーワ、ジーワ、ジーワ。
ミーン、ミン、ミン。
空港で見送ってくれた山岳会の仲間やスポンサー、私を応援してくれるたくさんの人々。
あの時は、声援と飛行機のジェットエンジンの爆音で、セミの声なんて聞こえなかった。
気がつくと私の耳にはセミの声が鳴り響いている。
ジーワ、ジーワ、ジーワ。
ミーン、ミン、ミン。
標高8000mともなれば酸素は地上の3分の1しかない。
低酸素による幻聴を起こしているのだろうか?
そう言えば、子どものころは虫取りが好きだったなあ。
セミもよく採ったけれど、7年地下に暮らしてわずか1週間しか生きられないと聞いてからは、採るのをやめたっけ。
ジーワ、ジーワ、ジーワ、ミーン、ミン、ミン。
ジーワ、ジーワ、ジーワ、ミーン、ミン、ミン。
ジーワ、ジーワ、ジーワ、ミーン、ミン、ミン。
頭の中いっぱいにセミの声が響いたとき、足元の感覚がなくなった。
氷壁の崩落。
固定したザイルは、糸がほどけるように抜けていく。
吹雪から一転、日光に照らされたため気温が上がり、氷が砕けやすくなっていたのだ。
私は、落ちていく光景をスローモーションで見ながら失禁していた。
まるで、セミだな。
この状況で、なんてバカなことをこんなにも冷静に考えられるのだろうか。
大氷壁にへばりついた、ちっぽけなセミのような私は、崩れゆく氷塊とともに深い谷底へと落ちて行く。
ジーワ、ジーワ、ジーワ。
ミーン、ミン、ミン。
気がつくと、白い天井が見えた。
窓に目を向けると暑い夏の日差しと、セミの声。
あの事故から今まで、私は眠り続けていたという。
積もった雪がクッションになったとはいえ、垂直に1400m滑落した私が一命を取り留めたのは、奇跡以外の何者でもない。
ジーワ、ジーワ、ジーワ。
ミーン、ミン、ミン。
ベッドの窓から見上げる太い木に1匹のセミがとまり、けたたましい鳴き声を響かせている。
どうしてあの極寒の中でこの声を思い出したのだろう。
だが、なあセミよ。
前回は登頂まで準備に7年かかった。
もう一度最初からやり直せば、おまえの子どもが鳴くころには、またあの山に挑めるかなあ。
懲りないやつと言われても構うものか。
私のことなど気にすることなく鳴き続けるセミに向かってグッと拳を突き出すと、そいつは“ジジッ”と声を発しながらオシッコを残して飛んでいった。




