歌声が聴こえる
この霧の海には、100年以上も昔、上半身が女で下半身が鳥の姿のセイレーンという双子の化け物が出たという伝説が残されている。
岩礁に座り、美しい歌声でオレ達を惑わし、遭難させるヤツだ。
だからこの辺りの船乗りはここへは近づかない。
オレ達は今、2日前の急な悪天候から潮に流され遭難してしまい、その場所にいる。
ここは霧だけでなく、潮の流れが迷路のように入り組んでいて、座礁したら抜け出すのは絶望的だ。
夏の異様な蒸し暑さと日の光だけは感じられるが、霧が視界を阻んでいるためどこを進んでいるのか、まったく方向がつかめない。
オレを合わせて乗組員は6人。
船に積んである食料と水は数日しか持たない。
助けなど……長年この海を航海していたオレは、誰も来ないことを一番よく知っている。
この海域から脱出するためには、食料と水、そして気力の続く限り自力で努力するほかないのだ。
4日目
今日も朝から霧が立ちこめ、方向は手探りのままだ。
オレ達は出口に近づいているのか、それとも、ただ海流をグルグル回っているのかさえ分からない。
時おり聞こえる囁き声のようなものは何だろう。
6日目
この蒸し暑さには気力が削ぎ落とされる。緊張感を持続するのが難しい。
食料の魚が腐り始めたので全部海に捨てた。
あとは水しかない。
9日目
出口は見えない。暑い。
水はもう樽に半分もないが、深い霧のため喉の渇きがましなのは助かる。
囁きはだんだん歌のようになってきた。乗組員1人がセイレーンだと騒いで暴れたので、縛って船艙に押し込んだ。暑い。
11日目
霧がますます濃くなってきた。暑い。声ははっきりと歌声として聞こえる。
セイレーンなどいるはずがない。極限状態からくる幻聴だ。暑い。
オレ以外の乗組員は船艙でおとなしくさせた。
14日目
暑い。2日前から水がない。
船艙の乗組員が何人生きているかも分からないが、この暑さではもう駄目だろう。
歌声にまじって笑い声も聞こえてくる。セイレーンなんていない……いないはずなんだ。
ああ、暑い。
この暑さだけでも、なんとかなって欲しかったなあ……。
チーン!
スチームオーブンレンジがキッチンに軽快な音を響かせた。
「できたみたいだわ。
それにしてもお料理中に姉さんの歌が出るってことは、ずいぶんとご機嫌なのね」
「そりゃあそうよ。長い間ダイエットしてたんだもの。
今日は舞台の大成功のお祝いと、自分へのご・褒・美・よ☆」
「ほんと姉さんの歌と踊りは素晴らしかったわ。本物の鳥が羽ばたいているように見えたもの。
でもしばらくは摂生しなくてもいいんでしょ?」
「ええ。次の舞台の稽古が始まるまでは、少しくらい食べたって平気よ」
「だったら今度は大きいほうのオーブンを使わないといけないわね」
「そうね。あれなら時間はかかるけど一度にたくさんお料理できるわ。
お食事がすんだら準備しておきましょうか」
姉妹は久しぶりの豪華な料理に舌鼓を打ち、今日の舞台について楽しそうにおしゃべりを弾ませた。
大きなオーブンは調理に時間がかかるとはいえ、彼女たちにとっては次の食事が少し遅めになる程度にしか過ぎない。
しかし材料たちは温暖化対策と銘打って、少しでもオーブンの中の温度を下げようと、今も躍起になっている。




