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空蝉

 帰りの電車の中でつり輪につかまり本を読みながらふと顔を上げると、窓に自分の顔が映った。


 誰だコイツ……。


 背中から冷や汗がながれた。


 確かにオレのはずなのに、まったく別人の顔が映っている。


 食い入るように何度も見るオレのそぶりを不信がる周りの乗客の視線に気づき、あわてて本に目を戻したけど、それでも気になりチラチラ見たがやっぱりオレじゃない。


 駅に着いてトイレに駆け込み鏡を見ると……いつものオレの顔だ。


 やはりさっきのは見間違いだったのかと安心して、トイレから出たところの窓をなに気に見ると……また知らないヤツの顔がある。


 しかもさっきとは違うヤツの顔だ。


 再びトイレで確認したが、やはりどこもおかしくない。


 ……そうだ、オレは疲れてるんだ。

 さっさとうちに帰ってゆっくり風呂につかって、今日は早めに寝よう。それに限る。


 家までの道のりに閉まっている店の窓や、通りすがりの車の窓ごとにオレじゃないヤツの顔が次々映ったけど、疲れだ……そうだこれは全部、眼精疲労か何かの症状なんだ。


 今日はまず早く寝て、そっ、それでも続くようなら医者に診てもらおう。それがいい。



 うす目にして家まで走って帰ると、妻がキッチンで6歳の娘といっしょに小学校の宿題をしていた。

「あら、お帰りなさい。息切らしてどうしたの?」

「お、オレの顔、いつもどおりだよな?」

「何よそれ」

「いいから、オレの顔、いつもどおりか?」

「いつもも何も、会った時から何も変わってないわよ。そりゃあ少しは老けたかもしれないけど」

「パパ今日コワい」

「ああ……ごめんな、すまない。やっぱりオレちょっと疲れているようだ。今日は早めに休むよ」

「何だか知らないけど、体だけは気をつけてね」

「ああ、ありがとう」


 妻と娘の言葉でやっと落ち着きを取り戻し、風呂場の鏡でもいつもの見慣れたオレの顔であることを確認して、安心してベッドにもぐりこんだ。


 次の日、昨日あれほどあせったことを思い出して恥ずかしくなった。窓に映る姿が別人だなんてあり得ない話だ。

 本当に疲れていたんだろう。

 まあ、早く眠ったおかげで今日はずいぶんとスッキリしている。


 厚いカーテンを開け、まばゆい日差しを反射してぼんやり窓に映るオレの顔は……。


 額から汗が流れ落ちた。

 やはり知らない男の顔だ。



 洗面台に駆け込み、心臓の激しい鼓動を押さえながら鏡をのぞくと……やっぱりオレの顔だ。


 どうなっているんだ!


「何をやっているの?」

「ああ、いや、何でもない……」

「昨日から変よ。本当に何があったの?」

「何でもないよ。本当に……何でもない」


 ……窓に映る顔が他人に見えるなんて、どう説明すればいいんだ……。


 オレは仕事に出かけるフリをして眼科に向った。会社には体調が悪いので遅れるとの連絡を入れた。



「……危ないところでしたよ!」

 オレの眼にまぶしい光をあてながら、眼科の先生が言った。


「網膜剥離を起こしかかっていますよ」

「網膜剥離ですって!?」


「見えるものがゆがんで見えるとおっしゃった原因は間違いなくこれでしょう」

「でも、網膜剥離なんて……治るのでしょうか?」

「完全に剥離しているわけではありません。ここにはレーザー手術の機械がそろっていますから大丈夫ですよ」


 そのまま手術室へうながされ、緊張していたが、検査の時に使う機械のようなものの前に座って一か所をじっと見ていると……眼の奥にチクチクと軽い痛みと光のようなものを感じる……。


「終わりましたよ」

「え、もう?」

「レーザーで剥がれかかった網膜を、剥がれないようにしっかり固定するだけですから。もう大丈夫ですよ」


 薬で瞳孔を開いているため、光が普通よりまぶしく見えるため車の運転は止められたけど、網膜剥離の手術だというのにこのまま帰っていいとのことだった。知らない間に手術の技術は進んでいるんだな。


 考えてみれば、ぼんやり映る窓と、ハッキリ映る鏡では見え方が違うなんてあたり前だ。

 だから別人に見えてしまっていたんだろう。


 ……原因が分かって本当によかった。



 治療費を支払うため待合室で座っていると、壁の一部が鏡張りになっていることに気づいた。


 自分の顔を確かめたくて、そっとのぞいたオレの額から汗がしたたり落ちる。

 振り返って待合室の窓に顔を近づけて見ても、やはりオレの顔じゃない。


「先生! 先生!!」



 診察室に飛び込んだオレの顔を、先生と診察中だった患者があっけにとられて見ている。


「オ、オレの顔、やっぱり別人に見えますよ!」


 カバンから出した小さい鏡に映したオレの顔を、先生に見えるように突き出した。


「何を言っているんですか、間違いなくあなたの顔ですよ」


 先生はあたり前のように答える。

 そこに居合わせた患者も、鏡とオレの顔を見比べて、どこが違うの? と言いたげだ。


「でも、オレは……」

「それが間違いなくあなたの顔ですよ」

 自信たっぷりにくり返す先生の言葉に、オレは自分の中で自信が音をたてて崩れていくのを感じた。


 だったらオレが今まで自分だと思っていた顔は何だったのだろうか?


 いやそれとも、オレが見ていた妻や娘、先生の顔のほうが間違っているのだろうか……?


 鏡に映るオレに、オレは問いかけた。


「お前は、誰だ?」


 鏡に映るオレの口も


 オマエハ、ダレダ?”


 と動いた。

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