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6月6日 前編

 その日アクロイド伯爵邸は大わらわだった。

 普段はのんびりぼんやりしている私も、右へ行ったり左へ行ったり何か手伝おうとウロウロしてみるが、結局『奥様は座っていて下さい!』などと皆に邪険に扱われる始末。

 それも仕方がない。

 正式に帰宅の手紙が届いたのだ。

 …旦那様から。


「お前たち、旦那様のお戻りまで残り2時間です!旦那様は香りが強い物が苦手です!もう一度邸中を確認なさい!」

 まあ、ダンテったらあんなに大きな声が出せるのね。

「旦那様のお部屋は整えたわね!?リタ、リネンは大丈夫!?」

「はい!アナと二人で最終確認済みです!」

「執務室もだいじょうぶです!」

 メイドたちも張り切ってるわねぇ……。

 旦那様ってそんなに厳しい方なのかしら。

 …もしかして、流星のような速さで頭に血が昇る方なのかしら。

 邪魔にならないようにエントランスホールから二階へ上がる階段にちょこんと座り、下らない事をとりとめもなく考える。


「あ、レジーナ様!そんな所にいらっしゃったのですか!?お行儀が悪いですよ!…じゃなかった。レジーナ様、お召し替えの時間です!あと2時間しかありません!」

 階下のホールから、メルが私を見上げている。

「……これよ、これ。着替えに2時間という非生産性。わたくし簡易ドレスを考案しようかしら。パチンパチンとくっ付ければ大丈夫…的な」

「ええ、ええ!今日が終わったら存分になさいませ!行きますよ!!」

 ズルズルとメルに引き摺られ、邸内に与えられた私の部屋へと連れ戻される。

「いいですか、伯爵に愛想よくする必要はございません!気に入られる必要など皆無!ですがウィンストン公爵家の品位は保たなくてはなりません。行きますよ、本気令嬢モード!!」

 目に炎を燃やすメルのおかげで、私の苦痛な2時間が始まった。


「…お見事です……!お見事ですわ、メル様……!!」

「すごい技術です…!アナを弟子にして下さい……!!」

「ふふん!見習いから数えてこの道8年!レジーナ様を着付けさせたら私の右に出るものは無いわ!」

 リタとアナに誉めそやされ、お鼻が天を向いているメルの隣で鏡を覗き込んで仰天した。

「メ、メル!!何なのこの盛装姿は!自宅に帰って来る旦那様を迎える格好では無いわ!!」

 はっきり言って夜会にでも行くのかという盛り具合である。

「ふんっ!旦那様は結婚式の夜、それはそれは美しく仕上がったレジーナ様を見もしませんでしたからね!逃した魚の大きさを思い知らせる復讐です!」

「…………メルはなかなか遠回りで伝わりにくい復讐方法を思いつくのね」

 ジェニファーお姉さまは分かりやすくパイを投げられたというのに…。

「……解きなさい。残り15分で解きなさい」

 ガーン!!といった様子のメルであるが、公爵家の品位がどうのこうのと言ったのはメルである。

 時と場所を弁えない格好など論外。

 

 そんなこんなで慌ただしかった邸内がピタッと静まり返ったのは、あと5分で時計が18時を指す頃だった。

 ふふ、アクロイド邸は愉快だわ。公爵邸はつまらないのよ?使用人たちは揃いも揃って訓練された護衛兵みたいなんだもの。

 まぁ仕方がないのよね。邸の女主人がお母様ですもの。怖いわよね。私だったら三時間半で解雇されるわ。

「あら、こんな事を考えている場合では無いわ。メル、あなたも旦那様にご挨拶なさい。お部屋を頂いているのだし」

「…かしこまり…ましたよ!」

 んもう、メルったら。



 手紙に書いてあった通り18時ちょうど、伯爵邸の正面玄関扉が開いた。

 当主の正式な出迎え作法に則り、最前列で頭を下げて旦那様に『おかえりなさいませ』を述べ、ゆっくりと頭を上げる。

「た……ただいま…か…帰った」

 初めて近くで見た旦那様は、キラキラの顔に眉根を寄せて、何故かどもっていた。

「…? あ、お勤めご苦労様でございました。お召し替えお手伝いしましょうか?」

「はっ!?……結構だ。必要無い」

「…畏まりました。それでは後ほどご夕食で……」


 これはやってしまったわね…。

 アクロイド伯爵家は実家と違って近侍や侍女を置かない。だから嫁ぐ際にメルを連れて来ていいという話になったのだ。

 旦那様は従僕すら使わないと聞いていたから、お着替えの手伝いが必要だと思ったのだけど……。

 そうよね、それは私じゃなくて執事かメイドの仕事だわ。

 そもそも私自分の着替えだってまともに出来ないじゃないの。いったい私の頭の中はどうなっているのかしら。

 

 自分の不出来さに肩を落としてトボトボと自室へと歩いていると、後ろからリタが追いかけて来た。

「レジーナ様、申し訳ございません!先にお伝えしておくべきでした!」

 振り向いて焦り顔のリタを見る。

「どうしたの?」

「あ、あの、旦那様は気を悪くされた訳では無くて、普段から身の回りの事は全て自分でなさるんです!靴紐が結べない軍人など真っ先に標的になるとかなんとか……」

「まあ…!」

 なんて立派な志かしら。ボタン一つ自分では留めない何処かの兄様に聞かせたいものね。

「そうだったのね、ありがとうリタ。旦那様についての知識が一つ増えたわ。着替えを自分でなさるなんて素晴らしい心掛けだわ……」

 きっと旦那様は貴族というよりも、軍人として生きてらっしゃるのね。



 メインダイニングで再会した旦那様は、激しくキラキラしていた。シンプルなシャツにベストという、どちらかというと飾り気のない服装にも関わらず。

 …何なのかしら、後ろで誰かが背景エフェクトでも描いているのかしら。そう言えばメルが星屑がどうのこうのと……。

 上座に座る旦那様の上空をジッと見ていると、やや遠慮がちな言葉が聞こえてきた。

「…上に何かいるのか?不気味なのだが……」

「えっ!?ああ、申し訳ございません。天井がちゃんとありますわ。天窓などあったかしらと思いまして」

「……は?」

 そうよね、例え天窓があったとしても星屑が落ちてきたら大問題だわ。忘れましょ。

 

 それにしても……今度は旦那様の目の前に置かれた料理を観察する。

「…旦那様は食が細くていらっしゃいますの?私はアクロイド邸の料理人の腕はなかなか大したものだと思うのですが……」

 旦那様のお皿からはあまり料理が減らない。これでは給仕をする使用人も次の料理が運べずに困るだろう。

「ああ……いや、何というか、なるべく粗食に舌を慣らしておかないと遠征の時に苦労するのだ。配給される食事ははっきり言って人間の食べ物では無い」

 まあ…!やはり根っからの軍人でいらっしゃるのだわ。想像以上……!


「食事というと、ええと…糧食…のことですの?」

 私のこの質問で、ようやく今日初めて旦那様としっかり目が合った。

「知っているのか?」

 綺麗な瞳だった。

「ええ。実家では以前退役軍人の方を雇っておりましたの。その中に食糧を運ぶ仕事をしていたという者がおりまして……」

「元補給兵が?公爵邸に?」

「まあ!補給兵というのですね。勉強になりますわ。彼は実家では見習い料理人でしたの。軍の食事は不味い不味いと常日頃ぼやいておりまして、そんなに不味いのならば食べてみたいとねだって……」

 

 旦那様の顔が驚愕に染まる。

「た…食べたのか?あれを?公爵家の令嬢が?」

「え…?ええ。そうですわねぇ、なかなか通な味…いえ、味がしない……ええと……口の中の水分が……」

「…フ、不味かったのだろう?正直に言っていい」

 あら、今少し微笑まれた?

「………大変、まずぅございました」

「まずぅ………ク…そ、そうか。まずぅ……」

 ………変なこと言ったかしら。

「ええと…そうそう、わたくしに貴重な経験を与えてくれた彼は、今菓子職人として独立しておりますの。パティスリー・ナダメールはご存知です?」

「いや……菓子には縁が無い生活だ」

「左様でございますか。彼は事業を大きくして、いつか軍に新しい糧食を提供するのが夢だと申しておりますの。よろしければお包みしますので同僚の方々に味の感想など聞いて頂けませんこと?…実はわたくし……こっそりお母様の宝石を売り払って彼の店に出資しておりますの。売り払ったと言っても、ちゃんとそっくりなイミテーションを宝石箱に仕舞いましたから、あと3年くらいは大丈夫だと思いますの。でも万が一という事もございますでしょう?なるべく早く結果を出したくて……あ、こういうのは口利きと言うのでしたね。……卑怯かしら」


 気がつけば、旦那様そっちのけで緊張感なく一人でペラペラと喋っていたのだった。

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