5月28日
アクロイド伯爵家が由緒正しく力のある家だということは、私が暮らしているタウンハウスを見れば分かる。
貴族にとって王都で過ごすための別邸であるタウンハウスは、多くの場合集合住宅となっている。けれどアクロイド伯爵邸は独立した単独の建物である上に、邸の裏に専用の馬小屋を持つほど敷地が広い。
実家の公爵邸は…それはまあアレである。比べる対象では無い。
「レジーナ様、毎日毎日邸内をウロウロされてどうなさったのです?何か気になる事でもございましたか?」
私の後ろを着かず離れずの距離で歩いているメルが、さすがに堪えきれないといった雰囲気で尋ねてきた。
「ああ…そうね、ここで彼女と同居というのは現実的では無いと思ったの。別棟を建てるほどには敷地が無いし、かと言って客間を提供という訳にもいかないでしょう?」
女性用の衣装部屋を覗き込む私に、メルが大きな溜息をこぼした。
「…レジーナ様、少し落ち着いてください。お気持ちはよく分かりますが………」
あら?…自分では落ち着いているつもりなのだけど。
三日前、メルの実家からこの邸に戻った私の目に飛び込んで来たのは、何だかキラキラした男の人と、その胸に縋って涙を流すイゴール夫人だった。
キラキラした男の人は、キラキラしているという以外に形容する言葉が無いほど……ええと…キラキラしていた。
実家に出入りする人間はたくさんいたが、あれほど見事なシルバーブロンドの髪色は見たことがない。
玄関ホールに立った私を見て、吸い込まれそうなほど青い…藍色の瞳を丸くして……たかしら?どうかしら。よく覚えてないわね。
正直言って誰だか分からなかったけど、状況からこの邸の当主…つまり私の旦那様だと判断した。
「奥様、先日のお話でしたら、あれは大きな誤解でございます!」
「全くもってその通りです!奥様、何卒御心をお鎮め下さいませ!!」
居間でぼんやりお茶を頂く私の元に、なぜだか執事のダンテとメイド頭のナンシーがやって来て、天罰を下す準備中の神に訴えかけるような台詞を口々に叫んでいる。
「ええと…ダンテにナンシー?わたくし…何かを誤解したかしら」
行儀悪く指先に菓子を摘んだまま二人の方へ顔を向けると、先ほどより一層青褪めた顔が目に入る。
「それより皆も一緒にお菓子どうかしら?実はね、わたくしパティスリー・ナダメールに知り合いがいるの。ほら、新作なのよ?感想を聞かせて頂戴な」
主人と同じ席に着くなど…と、やはりリタとアナの時のように最初は遠慮してジリジリしていた二人だが、なぜか私の顔を見て諦めたらしい。
「ほら、リタとアナもいらっしゃい。そうねぇ…おすすめはこのオレンジの皮が使われているクッキーなんだけど……」
皆に菓子を取り分けようと菓子皿に手を伸ばすと、メルが横からそれを留める。
「レジーナ様、お聞きになりたいことがあるのでしょう?サーブは私がやります」
メルの強い瞳に、私は手に持った皿をテーブルに置き、不安気な顔を見せる4人をじっと見つめた。
大きく息を吸い、そして吐き出しながら言葉を出す。
「…伯爵家当主……あなた方にとって絶対の主である旦那様について、使用人が口の端に上らせる事は禁止します」
私の言葉に4人が目を見開く。
「…だから今日は、こうして同じ席に着いた…そうね、この邸で暮らす先輩として一つだけ教えて頂戴。ええと…イゴール夫人は…旦那様にとって、特別…な方…なのでしょう?」
執事のダンテが眉根に皺を寄せ、本当に苦しそうに一言だけ呟いた。
「……左様でございます」
窓の外で剣術訓練に勤しむ部下を眺めながら、自分が入隊したばかりの頃を思い出していた。
私はぼんやりした子どもだった。特に何かに興味を持つ事も無く、だからと言って何をさせられても反抗するでも無く、両親にとってはさぞやつまらない息子だっただろう。
そんな私を何かにつけ誘い出してくれたのが、近くの領地に住むテレンス・イゴールとミランダだった。
いつも二人の後を着いて回り、何とか普通の子ども時代を過ごした私は、テレンスが行くというからそのままくっ付いて王都の士官学校へ入った。
そんな私とテレンスの人生の分岐点は、まさに入隊の時に訪れた。
決して優秀な学生では無かった。
少しばかり剣術ができる程度で、集団の中でのリーダーシップや作戦立案力、そして遂行力も明らかにテレンスの方が高かった。
そのテレンスが尉官から軍人生活をスタートさせたのに対し、落ちこぼれに近かった私は…最初から佐官スタートだった。
出身階級は同じ伯爵家。テレンスが次男で、私は長男。下らない配属の理由は恐らくそれだけだった。
それだけだったのに、私はこうして少将になり、テレンスは死んだ。ミランダと、幼い息子を残して。
ミランダの苦しい境遇は察して余りある。
軍人の遺族に払われる恩給だけでは、貴族令嬢だったミランダの生活は立ち往かないだろう。
テレンスの実家のイゴール伯爵家が支援をしていた…が、だ。
「…さて、何かを説明すべきなのか………」
三日前のあの夜、なぜ今さらミランダが私の邸に現れたのか理解が及ばないでいる内に、大きく玄関扉が開いた。
真正面から初めて見た明るい緑色の瞳。
その瞳はすぐに柔らかく弧を描き、完璧な微笑みとともに目の前から消えた。
私は悟った。
私の目論見がいかに浅はかだったのか。
彼女は徹底した教育を受けて来たのだ。感情を制御し、家名のために生きる事を徹底されて来たのだと。
彼女は小娘ではない。
……幼かったのは、私の方だったのだ。
だが悟ったところで、それとこれとは話が別。
やはり彼女は若すぎる。いくらでも未来を描ける少女だ。
取るに足りない伯爵家で、いつ死ぬかもわからない夫を待つ暮らしなど、人生をひたすら無駄に生きる必要など無い。
…だが困ったことに、彼女が邸で婚姻の継続が難しいほどのトラブルを起こす事は無いだろう。
メンツこそが全ての貴族の世界においては離婚制度などほとんど機能しない。膨大な時間と費用をかけても認められないなんてザラだ。
だから取れる手段が一つしか無かったのだが……
「あー……なるほどね。その方法は思いつかなかった」
「!!」
突然背後から聞こえた声に驚き振り返る。
「アンディ……?はっ!?私は今……声に出して……?」
「ところどころ」
「!?」
何という恥。いったいどこからどこまで………
愕然とする私に、アンディが溜息を吐きながら言う。
「妻と床入りしないのは一方的に男の責任問題になる。でも相手が18歳未満なら正当化される……だな」
「……………。」
「ついでに、嫁いで来た女が家を守るのに不適格な場合、男の方から婚姻無効を主張できるんだっけ?」
「……ああ」
離婚と婚姻無効は全く違う。婚姻歴すら残らない無効ならば、彼女の人生に何の汚点も残さない。
「…エドガー、お前の事だから清いままで嫁さんを公爵家に返そうとか何とか考えたんだろうけど、ウィンストン家の姫君がアクロイド伯爵家に嫁いだ事は社交界中が知ってるんだぜ?」
「…は?」
アンディが今度は肩まで落としながら大きな溜息を吐く。そしてむくりと起き上がって叫んだ。
「お前なあ、自分がどれだけ有名人なのかもう少し自覚しろ!!お前の嫁になった時点で、〝無傷〟なんて有り得ないんだよ!例え経歴がサラに戻っても、お前に付けられた妻失格の烙印は消えないんだからな!」
……烙印…………
「…ちゃんと話せよ。いくら女が煩わしいからって、17歳の子から逃げ回ってどうするんだよ」
逃げ………てなどいない。
そう思いはしたのだが、自分だって10年来の婚約者から逃げ回っている男に、この時は何故か反論できなかった。
『5月28日 曇り
ダンテとナンシーには当主の噂話など言語道断!なんてかっこつけたのだけど、一つだけこっそり聞いちゃったの。旦那様には二つ名があるのですって。〝流星〟なんてオシャレだわ!走るのがすごく速いのね。きっと子どもの頃から泣いているミランダさんの元に駆けつけていたのだわ。ロマンチック……などと言っている場合では無かったわ。ごめんなさい旦那様。私ここに来るべきでは無かったのね』




