5月25日 夕
自分ではかなり厳しく淑女教育を受けて来たと思っている。頭のてっぺんから爪の先まで貴族女性としての振る舞いを叩き込まれた。
言いつけを守り、一人で外出した事も無く、与えられるものは素直に受け入れる代わりに、自ら欲しがる事は決して許されなかった。
そのお陰でどんなに理不尽な状況でも人前に出れば勝手に微笑みの仮面が貼り付くし、それによって確立される立場も嫌というほど知っている。
でも私が知っているのは、結局上辺だけの知識だった。
…綺麗に記された、教科書の中の知識。
「…結婚してしばらく経った頃…領地での暮らしにもようやく慣れた頃だった。夫から紹介したい人がいるって言われたの。普通は職場の同僚でも紹介されると思うでしょ?」
「ええ…。おもてなしをどうしようか悩むところですわ」
「ふふ、そうよね?……でもね、紹介されたのは私より年上の……お針子だったの」
「……は……え?……えー…と…」
どこかぼんやりと遠くを見ながらも、まるで目の前で繰り広げられる演劇を語るようにジェニファーお姉さまが言葉を紡いでいく。
「…ずっと前から想い合っていたんですって。でも彼女が平民だから結婚はできなかったって。…ようやく一緒に暮らせる、離れに住まいを用意するから心づもりをって」
「ーー!!」
二の句が継げない私の隣で、メルがカチャッとティーカップをソーサーに下ろす。
「…で、姉さんはどうしたの?」
「えー?見ての通りよ。夫の顔を引っ掻いて、愛人にミートパイぶつけて出て来たわよ」
「…ミートパイ………焼きたてかしら」
私の呟きにジェニファーお姉さまが目を丸くして……そして笑った。あの頃みたいに。
「ふ…ふふふ、ふふ、あはははは!ほんとね!オーブンで温め直せばよかったわ!さすがレジーナちゃん!……私ね、絶対に離婚しないの。女にとって既婚者の肩書は最強よ!誰とでも恋ができる。それにね……?」
意味深な微笑を浮かべるお姉さまの方に、何となく耳を近づける。
「……ヒソ…私が産む子は絶対に夫の子になるの。例え誰との間に出来た子でも。そして愛人の子に爵位の相続権は無い。…どんなに愛し合った二人の間に出来た子でも」
「!!」
「すごい復讐だと思わない?……私みたいな女を…夫が言うにはね、フフ、悪女って言うんですって」
陽が落ちて、人影が消えた通りを馬車に揺られる。
「すっかり長居しちゃったわねぇ…。お夕食まで頂いて迷惑かけたわ」
帰りの馬車の中、メルはとても静かだった。
「……身内の恥を晒すことになり、大変失礼しました……」
「恥だなんて……」
夕食の時間もメルはずっと俯いていた。
今はその瞳に薄ら涙が光っている。
「…姉さんは……怠惰なのだろうと……思っておりました。嫁ぎ先に馴染む努力をせず、勝手に実家に戻って毎夜遊びほうけているのだと……」
「メル……」
「…ご存じの通り、カーター家は貴族の末席にポツンと名前がある……ほとんど平民と変わらない感覚で生きております。足らなかったのは…貴族女性としての…教育でございました」
メルの言いたいことはよくわかる。
あまりに厳しいお母様からの躾に私が泣いていた時も、憤って一緒に泣いてくれた侍女は、カーター家出身のメルだけだった。
「…わたくしが受けた淑女教育は、どんな事態になっても表情を変えず、淡々と受け入れて家の仕事をするためだったのね…」
愛人というものが、まさか妻公認の存在だとは思いもしなかった。
それと同時に教科書に当たり前に書いてある〝なぜ妻が貞淑でいなければならないのか〟もはっきりと分かった。
そう……妻はビジネスパートナー。貴族にとって何よりも大切な家名を維持するための存在。
心の拠り所は………別の相手。
「……わたくし、きっと悪女にはなれないわ。ジェニファーお姉さまみたいに……寂しげに笑えない」
「…レジーナ様…………」
あまり頭の働きが良くない私でもわかる。
ジェニファーお姉さまが自分を悪女だと言ったのは、精一杯の強がりだということが。
私は強がってまでアクロイドの家名にしがみつく事は無いだろう。
……だって、いつだって手放せる。
ねぇお母様、私がビジネスパートナーとしての役割すらも求められなかったと聞いたら落胆される?
お父様、私が再びレジーナ・ウィンストンに戻ったらお叱りになる?
お二人とも許して下さると嬉しいわ。
…私に悪女は無理ですの。
また笑顔で何処かに嫁ぎますから。
貴族が何よりも大切にする、家名にしか価値の無い、私を欲する方の元へ。
馬車の窓から、ポツポツ灯り出す家々の明かりをぼんやりと眺める。
…旦那様は……ウィンストンの家名すらも欲しがって下さらない旦那様は、アクロイド伯爵家の為にどんな方を必要とされていたのでしょう。
「帰った。長く家を空けてすまなか……」
「だだだ旦那様!?お戻りになったのですか!?」
「………は?」
邸の荒れ具合を見てやろうと仕事を一段落させて帰ってみれば、執事のダンテがまるで幽霊を見るような顔で私を出迎えた。
「…戻った……そうだな、戻った…のか?とにかく経緯の報告を。それから破損した物をリスト化し、怪我人がいればその症状を……」
手荷物と軍服のジャケットを手渡しながら指示を出すと、ダンテが困ったような顔をする。
「……何のお話でしょう?」
「何の?こむす……公爵令嬢が住み着いて、出て行くまでの経緯だが?」
「…………本日13時半までの…という事でしょうか」
……13時半に出て行ったのか。
「そうだ。日報を部屋に。あと…簡単に摘めるものを」
「…畏まりました。ご準備いたします」
滅多に帰らない自邸。
帰りたくなくなったのは4月1日以後であり、それまでは物理的にほとんど帰れなかった。
王都と南の駐屯地を往復する生活。王都に戻れば膨大な事務と儀式に追われ、そうこうしている間にまた駐屯地へとトンボ帰り。
…当主となった自覚が足りないと言われればその通りだろう。だがそれでもいいと、軍に所属したままでいいと言ったのは父上だ。
二階奥、清潔に保たれた執務室を見て思う。
使用人の勤勉さが部下に爪の先ほどでもあったなら、駐屯地の暮らしはもっと快適になるだろうと。
執務机の椅子に座り、何となく壁に架けられた歴代アクロイド伯爵の肖像画を眺めていると、コンコンと部屋の扉が鳴る。
「入れ」
「…失礼します。お言いつけのものを持って参りました」
「すまない。…下がっていい」
「は」
恭しくトレイで運ばれて来た日報。
…こういう部分は部下を見習って欲しい。無駄すぎる。
邸の日々の暮らしが記された日報をパラパラとめくる。
相変わらず細やかで丁寧な文字に感心しながら、小娘について書かれた箇所を拾い読み進めると、浮かぶ文字列にどうにも違和感が込み上げて来る。
「4月18日、奥様の湯浴みの準備をしている最中に、メイド頭のナンシーの父親が緊急搬送されたとの知らせ。一命を取り留めるも予後悪く、セント・ミッチェル病院での長期療養となる」
…ミッチェル……あそこの滞在費は相当高額だと聞くが……。
「4月19日、ナンシーが医療費の工面のために親族に借入れをするという話を奥様が聞きつけられ、ナンシーを…部屋に呼ばれた…?奥様は安易な借入に大反対され、ナンシーにこう告げられた。『金銭を借りた相手との間には明確な立場の上下ができるでしょう?人間関係が壊れる第一歩だと言うわ。借入の前にやれることは何でもやってみましょうよ』と………何の話だ!?」
いや本当に…何の話だ。
その後読み進めた日報は、私の期待を裏切り続けるものだった。
『4月30日、奥様が侍女のメイベル様を伴われ、御前試合へと出かけられた。ナンシーが縫った三着の服を買い取られたようだ。奥様の金銭感覚がいかほどかは分からないが、ナンシーの涙を見るにつけ、察して知るべしといったところであろう』
………何の……話だ。
混乱する頭を抱えていると、にわかに邸内が騒がしくなる。
…こんな時間に客人か?
だんだんと大きくなってくる騒めきに緊急事態を察知し、剣を握り階下へと向かう。
「ダンテ、何があった………」
玄関ホールに集まった使用人たちの波が割れ、そこに一人の人物が現れる。
「…エドガー!!」
現れたのは、あの日亡くした無二の親友の妻。
…そして古い知り合いである、ミランダ・イゴールだった。
『5月25日 強風
今日は疲れてしまったわね。ペンを取ったはいいけれど、今書けることは一つだけよ。…予習しておいてよかったわ。学ぶことには意味があるのね。本当によかった。ありがとう、ジェニファーお姉さま。』




