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3月30日

 私は完全に母上を舐めていた。

 あの人の行動力も、悪知恵の働かせ具合も、そして手に持つ権力も………。


「エドガー様!今水面が光りましたわ!何かしら……?宝石でも浮いて……」

「ば、馬鹿者!身を乗り出すな!!落ちたらシャレにならん!!」

 咄嗟に船の欄干から身を乗り出すレジーナの腹に手を回せば、耐えに耐えた領地までの二日間が脳裏に蘇る。

「も、申し訳ございません。船に乗るのは初めてで……。落ちたらどうなりますの?」

 ……これだ、これ。

 彼女が世間知らずの鍵付き宝箱入り令嬢だとは理解していたが、私は公爵令嬢というものを甘くみていた。

 ……よもや風呂にも一人で入れないとは。

 そのくせに髪が編めるのは納得がいかん。

 


 イサーク殿下の近衛と従者のうち、国外任務を受け入れた数名を引き連れ下見に行くだけのはずだった今回。

 母上により発行された商会の身分証と、伯爵領発行の査証を手にしたレジーナの〝初仕事〟が、なぜか見事に重複していた。

 ……犯人は分かりきっているが、どう復讐しようか頭が痛い。一生勝てる気がしない。

 ついでに言えば、西国への船の手配をしたのが父上だと判明した今日、とんだ裏切り者の登場に絶望感で一杯だ。


「……光ったのは魚だ。いいか、レジーナ。落ちたら高い確率であの世行きだ。君が水に顔をつけられない事は昨夜まででバレている」

「あの世……それは困りますわ。わたくしの初仕入が棺桶なんて……」

 ……可愛い顔をして縁起でも無い事を言うな。タチが悪すぎる。

「そうですわね、それに海水も想像より美味しくなかったですわ。海は離れて眺める事にします」

 はあっ!?いつ飲んだ!いつ飲んだんだ!?


 あー……頭が痛い。

 西国では別行動なのだぞ?向こうの商会の人間が迎えに来ているらしいが、不安すぎて全身のどこかしらがずっと痛い。


「エドガー様のお仕事はいつまでですの?わたくし今夜は…ええと、ホテル・ウエストシェル…?に宿泊する事になっておりますわ。そして明日帰国……」

 レジーナがゴソゴソとバッグから行程表を取り出して読み上げる。

 …分かっていた。そうなるだろう事は馬車で王都を出発した瞬間から分かっていた。

 だが言わん!

「…仕事がいつ終わるかは未定だ。レジーナ、一人でフラフラ動かず、部屋で大人しく原価計算して過ごすのだ。…返事!」

「は、はい!!」

「よろしい」

 ……私とて馬鹿では無い。母上に気づかれずマーカス達を動かしている。他国への潜伏任務もこなせる備えをさせている。

 だが彼らにレジーナの突拍子もない行動を予測するなど不可能だ。せめて道の上を歩いて宿まで辿り着いてくれる事を祈るのみ。



 下船後、レジーナを迎えに来ていた西国の商人たちに『絶対に目を離すな』と言い含め、マーカス達に『死守』のサインを出したあと、にこにこ顔で手を振るレジーナを見送った。


「さて……私たちも行動に移ろう」

 同行している者たちにそう声を掛ければ、なぜか彼らが戸惑った顔をする。

「ええと……奥方の行動を観察されるのでは……?」

 若手の近衛兵が声を出す。

「……は?」

「我々は殿下の留学生活における警備体制の確認に来たのでは……」

 その通りだ。……は?

「ですから……殿下と奥方の社会生活能力はほぼ同等でしょう?想定行動パターンの事前把握の為に連れられたのでは……」

 ………………。

「はっ!!」


 その日我々は一日中レジーナの後をコソコソ付け回った。






 沢山の人と物に囲まれて、何不自由なく育った幼少時代。

 出来が悪いのに惜しみなく教育を与えられた令嬢時代。

 それが有難い事だとか、幸せな事なのだとか、考える機会はそうなかった。

 …ただ、当たり前にそこにあったから。


「レディは西国の言葉がお分かりになるのですね。一応通訳も用意しておりますが、必要なかったですかな」

「まぁ、稚拙でお恥ずかしいですわ。日常会話はなんとか……。ですが専門用語は遠慮なく通訳の方を頼らせて頂きますわ」

 にこりと微笑みながら、素敵な口髭をたたえた老紳士の話に耳を傾ける。

 今回突然お義母様から依頼されたのは、他国の富裕層の間で流行し始めているという、〝冷たいお茶〟を試飲する事。

 広く海に面した西国でも、その文化が一部入って来たらしい。

 大きな商会を経営しているという紳士が、自ら私の案内を買って出て下さって、今は商会建物内の応接室で手ずからお茶を振る舞って下さっている。


「まあ……!こんなに冷たい飲み物は初めてですわ!」

「そうでしょうなぁ。火を起こせば湯が沸く事に比べて、この季節に水を冷たくするには途方もない労力が必要ですから」

 少し濃いめに淹れられたお茶に、切り出した氷を溶かして作られるというこの飲み物。

「……氷は北国よりもさらに北の国で取れるのでしょう?それを溶かさずに運搬するなど………」

「左様。それこそ〝途方もない労力〟ですな」

 パチリとウインクをされる紳士の笑みに微笑み返しながら、彼の笑顔の先に見えているのはきっとウィンストン公爵家と王宮なのだろうと思った。



 物珍しいものを沢山見て回り、変わった食べ物を食べ、異国の風を全身で感じながら過ごした一日の終わり、私はあてがわれたホテルの部屋で物思いにふけっていた。

 …わたくし、仕事が云々かんぬんなどと言っている場合では無いのかもしれないわ。

 何も無いのよ、何も。自分で身に付けたものが何も。驚いたわ。言われた事を守って仮面を貼り付けていれば大丈夫だったのは、結局お父様の力だったのよ。

 わたくし、アクロイド伯爵家の一員になったつもりだったのに、なんてことなの……。



 腰掛けていたソファからガバッと立ち上がり、大きめの歩幅でバスルームへと向かう。

 着替えが出来るようになった日、メルがあまりにも寂しそうにしていたから口には出さなかった。

 二人で行ったカフェで私が初めて支払いをした日、メルが泣きそうだったから言わなかった。

 …わたくし、自由になった気がしたの。メル、あなたが私に見せてあげたいと言っていた自由よ。

 あの冷たいお茶を〝レジーナ・アクロイド〟に売ってもらうには、自由になる努力が足りないのよ!!


 ジッと湯船に張られたお湯を見る。

 …分かってるわ。湯船に浸かって、あそこにあるモワモワしたもので石鹸を泡立てるのよ。泡で髪を梳いて……違うわね、メルは香油と石鹸をどうのこうの……

 香油……は無視よ!今日も旦那様流儀でいきましょう!

 

 いささか調子に乗っていた。

 お風呂に一人で入っている自分に酔っていた。

 どうしてあの時、このまま水に顔をつけて息を止める訓練もやるべきだと思ったのか………


「ーーーレジーナッッッ!!」


 最後に耳に残ったのは、悲鳴のような旦那様の声……


「レジーナッッ!!部屋で大人しくしておけと言っただろう!!なぜ風呂で死にかける!!」

 ……ではなく、現在進行形で響き渡る怒鳴り声。

「これは学寮の風呂にも警備の配置が必要ということか…?侍従も入学させるしか方法が……ブツブツブツ…」

「あの、その…わたくし……」

 引き摺り出された部屋の床の上で縮こまる私を、旦那様がギロッとひと睨みしたあと、思いっきり目を逸らされた。

「!!」

 …わたくし………幻滅された………?


「エ、エドガー様、わたくし、わたくし…これから何度も船に乗るかもしれないと……水に…顔を……」

 レジーナ、違うでしょ、そうではないわ。

 謝罪が先よ、謝罪して……

「わたくし……わたくしを……嫌いにならないで下さいませ!!」

 立ち上がり、目を合わせてくださらない旦那様の腕に追い縋る。

「努力いたしますわ!もっと努力いたします!アクロイド家に相応しく、だから……」

 ポタッポタッと涙が床を打つ。

 ああ…わたくし、なんて醜いの……。

 泣いて人の歓心を買うのは恥ずべき事よ。


 そっと旦那様の腕から手を離した時だった。

 旦那様がスタスタと無言でベッドのシーツを引き剥がし、私の目の前で大きく広げたかと思えば、グルグル、グルグルと私をミイラにしていく。

 そして身動き取れないミイラの私は、ベッドにドサッと落とされて、そのまま背後から旦那様に抱き締められた。


「はぁ………。私が君を嫌いになるわけないだろう」

 耳元にかかる小さな囁き。

「だいたい努力してどんな人間になるつもりだ。どんな人間なら良くて、どんな人間なら悪いのだ」

 …どんな人間……

「…私は……まるで世界がどうであろうと関係ないように、とぼけた顔で『おかえりなさい』を言う君が好きだ。毎日コソコソと日記を書いて、バレていないつもりで『おやすみなさい』を言う君が好きだ」

「…!!」

「着替えは出来るようになったが、袖のボタンは留められないままの君が好きだし、……まあ、風呂にも一人で入れない君も好き……だと思う」

 

「エ…ドガー様……」

 背中に感じる彼に向けて、声を掛けてみる。

「……君はご両親に愛されて、兄上達にとても大切にされて来た。……だけどレジーナ、私は君を泣かせたい」

「…え?」

「公爵一家がして来たように、大事に大事に慈しみたいのに、心のどこかで君が泣けばいいと思っている。……そしてどんな形であれ…君が涙を流す原因が……自分であればいいと思っている」

 体に回る腕の力が、グッと一段強くなる。

「……自分が気持ち悪い。努力しても……おそらく変えられない」

 

 いつも真っ直ぐに前を向いて、鋭い視線でキラキラを振り撒く旦那様の消えそうな声……。

 思わず身を捩り、ウネウネ、ウネウネと体を回転させる。

「…レジーナ?」

 旦那様の海のような藍色の瞳、そして眉にかかるシルバーブロンド。

「……美しいですわ。エドガー様、美しいですわ………」

「…………背筋が冷たいのだが」

 途端に据わる旦那様の瞳。

「ふふ。わたくし、誰かを美しいと思うのも、誰かに嫌われたくないと思うのも、きっとあなたが人生最初で最後ですわ」

「…!」

「…泣かされても……あなたが好きですわ」

 努力したいのも、嘘ではないの。

 相応しくなりたいの。レジーナ・アクロイドとして……



 少しだけしんみりした気持ちで旦那様の瞳を見つめた時だった。

「21時37分……何とか持ち堪えたな」

 …え?

「はぁ〜……。最後の最後にとんだ攻撃を仕掛けて来るものだ。これが鍔迫り合いというやつか?初めての経験だ」

 ……ええと?しんみりは……?

 突然旦那様が起き上がり、懐中時計を取り出しながら髪をかき上げられる。

 そしてかき上げた手はそのままに、鋭い視線が私を射抜く。


「…レジーナ、誕生日おめでとう。今この時、君は正真正銘18歳となった」

 グルグルミイラを解きながら、旦那様がちっとも崩れないお顔でお祝いを述べられる。

「え、あ、ありがとう存じますわ……」

 わたくし、誕生時刻を聞いたのは初めて……

「君の言質も取れたことだし、遠慮もいらないという事で話は纏まったように思う」

「…え?」 

 首筋に旦那様の唇が触れる。

 そして耳元にかかるいつもより低い声……。

「……アクロイド家に相応しく……?違うな、君は私のものだ。私の……妻だ」

「………!!」


 ま…さかこれは、どっきりだいさくせんとかいう……

 どこからどこまで……?

 いえ、そんな事どうでもいいわね。

 考えても無駄だもの。


 ……刻んで下さいまし。

 鮮やかな……甘い痛みの記憶を。


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