5月25日 昼
はぁ……難しいわ。本当に難しい。
どんな書物をめくっても駄目。知りたい事が一つも載ってないんだもの。
「はぁ…………」
自室のソファで大きな溜息を吐く私を、ジト〜っと見つめる視線を感じる。
「…レジーナ様。本当はこれっぽっちも知りたくは無いのですが、今後発生するであろうトラブルの未然防止のためにお聞かせください。…何をお悩みなのでしょう」
「やぁねぇ、メルったら。何度も言うけれど、私がいつ何処でトラブルを起こしたって言うの?お母様がどれほど厳しかったかあなたも知ってるでしょう?」
「確かに奥様は貴族夫人の見本のような方でございました。それは致し方ございません。名実共に国内の貴族女性の頂点に立つお方ですので」
そうでしょそうでしょ?お母様は現世を仮の姿で生きる魔女なんだから。人間を石に変えるのよ?
「ですが!!忘れたとは言わせませんよ!その奥様の目を盗んでなされたアレやコレやを………!!」
「…ええ?」
「……緑の馬…時が止まった邸…毒リンゴ紛失……」
「……………ふふ?」
「…干上がった池…消えた家畜…すり替わった宝石……」
「………………。」
「…レジーナ様?さぁ…おっしゃるのです。何を企んで…」
ずいずいっと眼前に寄ってくるメルの顔を手で遮る。
「わかった、わかったわよ!…何も企んで…は無いわ。両立するにはどうしたものかと…」
「…両立?でございますか?」
訝しげな表情を見せるメルにこくりと頷き、見つからない答えをぼやく。
「わたくしね、おそらく悪女と呼ばれる立場なの」
「あ…く!?」
「ええ。でも邸の中では貞淑な新妻でいなければならないでしょう?使用人たちに迷惑はかけられないもの」
「は、はあ……?」
「だから…何とかうまく立場を両立したいのだけど、わたくしの頭の中に悪女のイメージが湧いてこないの。口紅をワインレッドにすればいいのかしら…」
メルがピタリと止まる。
そして大きなため息をついた。
「……………私の手に負えない案件か」
あら、メルにもそんな物があるのね。
「リタ、アナ」
何を思ったのか、メルが壁際でジッと待機しているメイドの二人を呼ぶ。
「「お呼びでしょうか」」
「……馬車の用意を」
…馬車?
「それから執事に言伝を」
言伝…。
「……行きますよ、レジーナ様」
「行くって……どこへ?」
メルの片眉が上がる。
「……悪女の見本を観察に」
……まあ!
馬車に揺られること小一時間。
悪女の見本がいるというから、どんな鄙びた街に行くのかとドキドキしていたのだが、着いてみれば貴族街の外れ。
というか………
「まあ、レジーナお嬢様!?どうなさったんですか!メイベルに何かありました!?」
「ごきげんよう、カーター夫人。ええと……ご無沙汰しておりますわ」
よく見知った男爵邸の玄関で、よく見知った男爵夫人に挨拶をする。
「母様、久しぶり。姉さんいる?」
「メ、メル!?あんた…何お嬢様を連れ出してるの!!」
「やむにやまれぬ事情よ。それより姉さんは?」
……もうお分かりの、メルの実家。そう、ここはカーター男爵邸。
「ジェニー?いるにはいるけど……」
「よかったわ。姉さ〜ん!!ジェニファー姉さ〜ん!!」
大声で姉様を呼びながら屋敷の中へと入って行くメルを早歩きで追いかける。
いつもの笑顔を貼り付けながら。
「姉さーん!いるんでしょ!!メルが帰ったわよ!!」
「メ、メル?どうしてご実家に?ここには悪女の見本なんているわけ無いでしょう!?」
メルのドレスを後ろからクイクイっと引っ張りながら着いて行く。
「…いるんですよ。元・貞淑な妻の、現悪女が」
えぇ…?
メルと二人で二階へ続く階段の踊り場に立った時だった。
ギィ…という音を立て、一つの扉が開く。
「……何よ、騒がしいわねぇ……。私が何時に寝たと思って……メル?と……レジーナちゃん!?うそ!キャー!!久しぶりぃ!」
「お、お姉さま!?あ、ご、ごきげんよう、ジェニファーお姉さま。お変わり………ありました?」
「………ウフ?」
顔こそ昔のままメルにそっくりだけど、顔色は悪いし、はだけた寝衣から醸し出される気怠い雰囲気……。
「…そっか、レジーナちゃんお嫁に行ったのねぇ……」
「ご報告が遅くなって申し訳ありませんわ。何せ足元が落ち着かなくて……」
カーター家の小じんまりとした居間でお茶を頂きながら、数年ぶりのジェニファーお姉さまと会話を交わす。
「それはそうよ。新しい家に慣れるのはそれだけで一苦労だわ」
「ええ……」
どうしたものかしら。何を聞いていいのやら……。
戸惑っているとメルが切り出した。
「姉さん、今日はレジーナ様と一緒に姉さんの話を聞きに来たの。レジーナ様に悪女の何たるかを教えて差し上げて頂戴」
ちょ、ちょっとメル!お姉さまに向かって悪女なんて!
「悪女?…あはは!そっかそっか、公爵家では習わないのね?そうねぇ……」
ジェニファーお姉さまが悪戯っぽく微笑み、そして寂しそうに微笑んだ。
「……私も知らなかったの。貴族は結婚して初めて恋人と一緒になれるって」
……え?
「…レジーナちゃんも煩く言われて来たでしょう?貴族の家に産まれた女性の仕事は家の為に結婚することだって」
「え、ええ…。それは…その通りですわ」
なぜかしら…胸がザワザワするわ。
「…男性も同じよ。結婚は仕事。…本当に好きな人は……愛人にするの」
ーーー!!
「師団長、ご自宅からお手紙です」
部下の言葉に思わずガタッと席を立ち上がる。
…邸から知らせ………
「手間をかけた」
「いえ、失礼します!」
礼儀正しく敬礼して部屋を出る部下の気配が消えたのを確認し、急ぎ封を開ける。
変わった事があればすぐに知らせろと伝えておいた執事からの文……。
「……侍女と一緒に実家に…………」
…帰った……か。
この知らせを待っていた。
「ようやくか。二か月…小娘にしてはよく耐えたものだ」
二年近く振り回されたが、終わってみればこんなもの。
最初からおかしかったのだ。
まだまだ壮健な父上が急に爵位を譲ると言い出したかと思えば、ある日婚約話を持って来た。
父上とウィンストン公爵が旧知の仲だという事は知っている。だからと言って、公爵家に何のメリットも無い伯爵家に娘を嫁がせるなどという話になるはずが無い。
王族にだって嫁すことができる娘を……。
「王族……」
ふとあの日のアーネストと王太子の会話が甦る。
きっと一連の動きには何らかの意味合いがあるのだろう。
だが最早関係無い。
私は妻は持たない。
あのように若い娘など以ての外だ。
実のところ、公爵令嬢…というよりは、婚約話が持ち上がった相手が15歳の少女だという事実にこそ衝撃を受けた。
家同士の結び付きこそが全てである貴族の間では珍しい話では無いのだろうが、とにかく事態を打開すべく猛勉強した。
そしてありとあらゆる法律書と過去の事例を読み込んだ結果知った。
この結婚を私から無効化出来る方法は一つだけ。
小娘が18歳を迎えるまでの、僅かな期間だけにしか許されないという事を。
再び文に目を落とす。
「…待て、被害報告が載ってないぞ。あれが無いと……」
彼女が実家に帰った事は始まりにすぎない。
ここから必要なのはこちらに有利に働く明確な証拠と証言……。
……出て行ったのなら、自分で確かめに戻るか。
そうだな、せっかく王都にいるのだし、ぼやぼやしているとまた南部に戻ることになる。
レジーナ…か。
何度思い出してもほわほわと能天気そうな顔をしていた記憶しか無いが、願わくば、派手に暴れていて欲しいものだ。




