2月12日 前編
私は久しぶりに実家の門をくぐっている。
アクロイド伯爵家が……いえ、滅多に買い物をされない旦那様が、何を思ったのかポンッと購入された四頭立て六人乗りの箱馬車で。
この馬車を使う事を条件に自粛期間が繰上げになったのだから、とてもありがたいことなのだけど……。
「奥様、あと3分で扉を開きます」
「え、ええ…」
「我々4人が配置に着いたら合図を送りますので、侍女殿に続いて下さい」
「ええ……」
六人乗りの馬車の中には、私とメルと、これまた旦那様が何を思ったのか突然雇われた四人の護衛。
彼らはどこに行くにも着いて来る。
自粛明けにメルと二人で市場調査のためにカフェに行こうとしたら、馬車の回りを馬で並走して着いて来た。
「あなた方…ここをどこだと思ってるんです!!畏れ多くもレジーナ様の御生家、ウィンストン公爵邸ですよ!まるで敵地へ乗り込んだかのような扱い、失礼にも程があります!」
メルがプンスカ怒っている。
「で、ですが、閣下から厳命されておりますので。奥様にかすり傷一つ付けるなと……」
護衛のリーダーであるマーカスが困った顔をする。
「それでもです!時と場所を考えて……」
「まあまあメル、落ち着いてちょうだい。旦那様にも何か考えがあってのことでしょうし、それにここには怖い魔女もいるじゃない」
「レ、レジーナ様!!」
余計にメルを怒らせてしまったけれど、旦那様の行動にはきっと意味がある。
そして私にも何となくそれに心あたりがある。
その心あたりに助言をもらうため、今日はお母様を訪ねたのだ。
「レジーナ、よく来ました。さ、そちらにお掛けなさい」
「お時間を頂きありがとうございます」
お母様が精魂込めて整えたオランジェリーの中、軽く頭を下げて勧められた席へと静かに座る。
「お母様、この度のウィンストン公爵家の御慶事、心よりお祝いを申し上げます」
メルがササッと差し出した贈り物の箱を一瞥すると、お母様の顔が僅かに綻ぶ。
「ああ…ありがとう。ローゼリアには苦労をかけました。無事に男児が産まれ、お父様もクリストファーも喜色満面ですよ」
我儘な上に選り好みが激しいせいで…嘘よ、兄様。政治的にも政略的にもお相手選びが非常に難しくて結婚が遅かったクリストファー兄様に、ようやく産まれた初めての子ども。
お母様の表情を見れば、公爵家の後継の誕生がよほど嬉しかったのだとわかる。
「本当におめでたい事ですわ。そちら宜しければお義姉様と一緒に開けてみて下さいな。お揃いのドレスが三着入っておりますの。お母様とローゼリア義姉様と公子様でお揃いの」
私の言葉に一瞬ギョッと目を見開いたお母様だが、少し困ったようにこう言った。
「……クリストファーは女児服を着せて育てる事に大反対しているのです。伝統ある邪気払いだというのに………」
「あら。では兄様が王都で旦那様に付きまとっている間は女児服にされてみてはいかがです?親友だの何だのと言って、妻のわたくしより顔を合わせる時間が多いのですよ?…あ、姿絵の方はもれなくよろしくお願いしますわ」
私の言葉にお母様が少し口端を上げる。
「…貴女は変わらないわね。姿絵もいいけれど、今年は直接公爵領に顔を出しなさい。秋にはローゼリアも少し落ち着いているでしょう」
「ふふ。では私の分のお揃いのドレスも持参しますわ」
いつの間にかテーブルに並んだお茶を一口飲み込むと、私は今日の本題を切り出した。
「…お母様、実は今日お時間を頂いたのは、お祝いとは別にご相談があっての事ですの」
そう言えば、お母様の顔が瞬時に公爵夫人のものに変わる。
「言ってごらんなさい」
「……はい」
自分自身で持参した鞄の中から、ゴソゴソと分厚い紙束を取り出し、お母様へと差し出す。
「……茶会の招待状ですか。何とも大層な量ですね」
お母様の言葉に一つ頷く。
「…ご招待はありがたい事なのですが、どう返事をしていいものか悩んでおります」
束ねられた招待状の紐を解き、お母様がパラパラと中をあらためる。
「…レディ・シエラは何と?」
これは当然の質問だ。私だってそのくらいは頭を働かせてお義母様にはきちんと相談をした。
「シエラお義母様からはアクロイド伯爵家と懇意にしている家々については教わっております。それからお仕事関係、ご友人方も……。ここにお持ちしたのはそれ以外の家のものなのです」
令嬢時代に付き合いのあった家はそう多くは無い。そもそもまともに友人がいない私には、これらをどう判断すべきなのか情報が無さすぎるのだ。
「お母様、わたくしウィンストン公爵令嬢として育ったでしょう?……偉ぶるつもりは無いのですが、興味の無いお茶会は何の気兼ねも無くお断り出来たのです」
そう言えばお母様がふうっと溜息を吐く。
「…確かにそうですね。私も子どもの頃から参加する茶会は選ぶ側でした。…そうね、貴女は伯爵夫人となったのだものね……」
公爵令嬢から公爵夫人となったお母様が、手元の招待状をジッと見つめる。
「…レジーナ、ようやく伯爵夫人としての自覚が芽生えた貴女に、貴族社会の処世術を授けましょう。…今はとても繊細な時期。貴女の行動一つで伯爵家を窮地に陥れる可能性がある事を心して聞きなさい」
お母様に深く頭を下げる。
旦那様が護衛を雇った意味、そして日々届く知らない家々からの大量の招待状。
……領地での出来事のようなことは二度と御免だわ。
「何卒よろしくお願いします」
はっきりと述べて顔を上げれば、そこには見たことも無いほど穏やかに微笑むお母様の顔があった。
「……我が国の置かれている状況についてはご理解頂けただろうか」
王宮の一角、各省庁の官吏たちが忙しく働く北宮の会議室で、私は途轍もなく面倒な仕事を押し付けられていた。
「アクロイド…中将だったか。言わんとする事は分かるが、些か考え過ぎでは無いのかね。我が国は食うには困らぬが、余らせるほど作物が取れる訳でも無い。この地を落として何の得があるというのだ」
あー……本当に面倒くさい。
いつの時代を生きているのだ、このツルピカは。
「……作物を収穫するだけが国土の価値では無い………事を分かって頂いている前提で私は今日この場に呼ばれたはずだが?」
「な、何を……若造が!!」
…あぁ?
いきり立つツルピカ……どこぞの老年伯爵を無言で睨みつければ、会議室内の空気が緊張感でピリリとしたのを感じる。
「…では次に今後の防衛計画についてお話する」
感じはしたがそんな空気を完全無視し、手元の資料に目を落としながら私はどうやって元帥と総長に仕返しをしようか考えていた。
元帥と総長がなぜ私をあれほどまでに出世させたがったのか、その理由の端緒が見えて来たのは先週頃だった。
短い下っ端生活を終え、個室と事務方の補佐官が与えられた私の肩書に〝軍事顧問〟が加わった時に気づくべきだった。
…一体誰の顧問をするのだと。
彼らは言ったのだ。『前線に一番近い仕事を任せる』と。
だから私は内心喜んでいた。おそらくは各駐屯地を巡って、現場の師団長の生の声を聞く仕事を任されるのだろうと思ったからだ。
自分が師団長だった頃には、暇そうにウロウロする本部の人間を疎ましく思ったものだが、はっきり言えば今の私にとっては夢のような仕事だった。
なのに……。
「…次は予算編成について……」
私が任されたのは『御進講係』という官僚向けの座学講師。
前線は前線でも貴族相手の折衝最前線では無いか!!
あの腹黒狸親父ども…いつか泣かす!!
分かってるんだからな!お前たちが私の背後のウィンストン公爵家をあてにしている事ぐらい……!
静かに資料を捲る、おそらくは高級官僚、つまりそれなりに高位の貴族たちをザッと見回しながら、私はもう一つ懸念を抱いていた。
会議室の四隅には、ひっそりと息を潜めながらも、明らかにド派手な隊服を纏った男たちが目をギラつかせている。
…今さら説明するまでも無い、近衛隊だ。
つまりはこの場に王族がいるという事。
年格好から察するに、一番後列出口付近という、王族に似つかわしくない場所で資料を眺めているあの青年だろう。
…薄い茶色の髪と、薄い緑色の瞳を持つ、あの青年……。
「今日のところは以上になる。…何か質問があれば受け付けるが……」
言いながら皆の顔を見回すが、誰も声を発さない。
…質問ができるほどには誰も勉強していないという事だ。
「ではここまでとさせて頂く」
私の一言を合図にガタガタと席を立ち官僚たちが部屋を出る。
……疲れる。行軍より長期遠征より疲れる。
今日は早く帰ってレジーナと夕食でも取ろう。この忌々しい仕事も、レジーナならば何か楽しみを見出すヒントをくれるはず……。
資料を仕舞いながらそんな事を考えた時だった。
「…アクロイド中将、お時間許すならば二、三質問をしても宜しいでしょうか」
思わぬ台詞にバッと顔を上げれば、出口に一番近い席のあの青年と目が合う。
「…質問?」
思わず呟けば、青年が席を立ち私の方へと進み寄る。
「ええ。国軍の方に直接聞いてみたいことがあるのです」
私の目の前に姿勢良く立ち、聡明そうな瞳を見せる青年…。
「…申し遅れました。私はイサーク。…イサーク・タウンゼントです」
……やはりか。
胸に手を当て腰を折る。
「…殿下に名乗らせるなど、無礼をお許し下さい。私はエドガー・アクロイド。伯爵位を賜っております。以後お見知り置きを」
できれば二度と会いたくは無いが。
「顔を上げて下さい。今日の私は一聴講者にすぎません」
殿下の言葉に頭を上げ、再び薄い緑色の瞳と向き合う。
「…ご質問があるとの事。場所を移りましょう」
王子を殺風景な会議室に留め置くのもいかがなものかと思い、私なりに気を遣ってみる。
「……場所を……いえ、金棒引きにわざわざ話題を提供することも無いでしょう。こちらで結構です」
「…左様か」
……絶対に彼は頭が良いに違いない。
本当に私は前線に立たされたのだな……。
それも一番苦手な知恵比べの。
とりあえず、瞼裏に浮かぶ二人の狸のニヤニヤした顔を横一文字に切り捨て、私は第二王子イサークと向き合った。




