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2月2日 前編

 ああ…溶けてしまいそうですわ……。

 旦那様の逞しい腕がわたくしを後ろからぎゅっと……。

 駄目よ、レジーナ。私はこの腕を解かなければならないの。温もりに浸っている場合では……


「…レジーナ……」

 ああ駄目、耳元で囁かれては力が抜けてしまいますわ…。

「そこでグッと踵で爪先を踏む!」

 ええ…?爪先を……

「よ、弱い……!そして何という軽さだ!!レジーナ!体重を増やせ!あと20キロ!!」

「ええっ!?断固拒否ですわ!!」

「馬鹿を申すな!そんな力でどこの暴漢を追い払うというのだ!せめて重さを増さなければ……」

 アクロイド邸最近の朝の風物詩。

 甘い夫婦のスキンシップだと思っているのは私だけで、旦那様にその雰囲気は欠片も無い。全く。


「……お二人とも、正気ですか……?」

 まだまだ寒い朝の中庭に、一層冷たい風が吹く。

「メイベル、何を言う。正気に決まっているだろう。レジーナは一歩外に出れば7人の敵がいるのだ。護身術ぐらい仕込まねばならない」

「どこの世界の男子の話ですか!縄抜けまでは見逃しましたけど、レジーナ様に体術など無茶でございます!」

「なにぃ……?」

「「ぐぬぬぬぬ………!!」」

 あらあら、また始まってしまったわ。

 旦那様とメルは本当に仲が良いわねぇ……。


「はっ!こうしてはいられない。レジーナ、一日五食を必達目標とすること!では行って来る」

 颯爽と仕事へと出かけられる旦那様の背に慌てて声を掛ける。

「あ、いってらっしゃいませ!今夜は早くお戻り下さいね!」

 …聞こえたかしら。

「…ったくあの天然はブツクサブツクサ………」

「あ、メルったら今悪い言葉使ったでしょう?聞き逃してあげるから食事はいつも通りでお願いね?」

 片目を瞑り、メルにお願いをする。

「あ、あ、あ、当たり前でございますっっ!!私が磨き上げたレジーナ様を白豚などにしてたまるものですかっ!!」

 え、白豚?……それは少し面白そうだわ。少しずつ日焼けしたら何日で焼き豚になるのかしら。…試してみるのも一興……


「…なんて事を考えている場合では無いわ!メル、今日は何の日か分かってるの!?」

 ビシッとメルの鼻先を指差せば、メルが心底興味無い顔をする。

「もちろん存じております。レジーナ様に余計な教えを熱心に仕込むこの邸の当主……エドガー・アクロイド伯爵の誕生日でございます」

「そう!そうなのよ!今日は旦那様の30歳のお誕生日…!30年前にシルバーブロンドの爽やかな青年と遠い星の貴婦人の間に奇跡が起きた日だわ……!」

 なんて尊いの……!

「……はぁ。レジーナ様、準備なさるのでしょう?邸に入りましょう」

 …どうにも温度差を感じるわね。



「ふふふ、楽しみだわ。わたくし褒賞を頂いたでしょう?それで旦那様にプレゼントを……メル、聞いてる?」

 居間でのんびりとテーブルクロスとナフキンの色合わせをする私の側で、メルが私の3倍の早さで手を動かしながらフラワーアレジメントをやっている。

「聞いております。レジーナ様のお金は公爵家からも伯爵家からも十分に……まあ何であれ、きっと旦那様もお喜びになる事でしょう。多分、おそらく」

 …聞いてはいるけれど、どうでも良さそうな事は分かったわ。


「それよりこの蝋でできた花々はどうなさったのです。あまりにも精巧な作りで驚きました」

 テーブルに広げられた大量の造花を見ながらメルが言う。

「すごいでしょう?西国の女性の内職として有名なのですって。紙を折って蝋でコーティングしてできているの。お義母様が仕入れて下さったのよ」

 メルが本物よりも輝きの強い花を掲げながら呟く。

「ああ…旦那様は花の香りが苦手ですからね。なるほど、大奥様はこうして邸を飾られていたのですね」

「ええと…少し違うかしら?旦那様が香りが苦手になったのは大人になってからみたい。何でも強いお酒と強い花の香で人生最大の窮地に陥ったと……」

「………………。」

 あら、白目になってるわ。


 

 忙しかった最近の出来事を思うにつけ、私にはメルがいてくれて良かったと心から思う。

「ねぇメル……」

「どうなさいましたか?」

「……王太子妃殿下にはメルのような侍女はいらっしゃるのかしら。心おきなく話せたり、時に姉妹のようにはしゃいだり……」

 生きていくために手段を選べないなどという緊張感の中で、心を安らげて下さる方はいらっしゃるのかしら。

 …本当は殿下がそうであるのが一番いい。だけど王族の婚姻は色々と難しい。

「……わたくしね、子どもの頃はリチャード殿下の婚約者だったのですって。メルは知っていた?」

 メルが目を見開いて私を見つめる。

「…知らなかったわよね。わたくしも知らなかったもの。…もしかしたら妃殿下のご苦労はわたくしのものだったのかもしれないと思うと、せめてメルのような信頼出来る人が側にいて欲しいなんて……偉そうね、わたくし」

 微笑みかければ、メルの瞳に薄らと膜が張る。

「…わたし…は!レジーナ様にお仕え出来て…この上なく幸せ者でございます!私のような出自の者が……レジーナ様の侍女だなんて……」


 メルによって綺麗に纏められた花を見ながら口を開く。

「…メル、あなたに一つ伝えておきたい事があるの」

「なんでございましょう」

 メルが手を組み姿勢を正す。

「……あなたの雇用主はウィンストン公爵家です。わたくし専属で仕えてくれているけれど、雇用契約上はあくまでも公爵家の人間」

「…レジーナ様……?」

 メルの瞳が僅かに揺れる。

「…わたくし、ウィンストン公爵家に戻るつもりは無いの。例え何十人という人間がレジーナ・ウィンストンを必要としていたとしても、これからもずっとレジーナ・アクロイドであり続けるわ」

 不安気に私を見つめるメルの手をそっと取る。

「…メル、伯爵夫人のわたくしに仕えてくれないかしら。公爵家と違って、結婚しても辞めなくていい。あなたと、これから出来るあなたの家族もわたくしが一生面倒をみるわ。…どう?」


 いつも凛々しいメルの顔がクシャッと崩れる。

「…もちろんでございます。私メイベル・カーター、生涯レジーナ様のお側に仕えさせて頂きます」

「メル……!」

 ギュッと握っていたメルの手を解き、抱きしめようとした瞬間だった。

「…でもあとひと月は……私の大切なお嬢様でいて下さい」

 ……え?ひと月?

「旦那様と正式な夫婦になる覚悟を決められたのでしょう?少し寂しいですが、あとひと月は可愛い私のお嬢様で……」

「ええと……?」

 

 コテンと首を傾げると、メルの目が据わる。

「……レジーナ様?今日はあくまでも旦那様の誕生日ですよ?レジーナ様の誕生日は来月でしょう!」

「そう…ね。そうだけど……ええと?」

 メルが今度は真っ赤になって怒っている。

「レジーナ様!!由緒ある家柄の御令嬢がそんな事でどうするのです!!若くして嫁いだ妻が18を迎えるまでその身を慈しむのが紳士の役目!旦那様も必死にそうされているでしょう!?」

 え、ええ?

「だ、だってあなた結婚式の夜に旦那様が居なくなった事に怒っていたじゃない!あれは何だったの?」

「私がレジーナ様に着せた服をお忘れですか!?あれは成人前の花嫁の婚礼衣装の一つです!御身を守る為の伝統に則ったそれはそれは美しい最高級の……!それを旦那様は見もせずに!!」

 ……何ということかしら。

 わたくし……ものすごく勘違いをして……?


「…まあ、一年をかけてのレジーナ様の復讐は見事なものでございました。あとひと月……最後の最後までギャフンと言わせて差し上げましょう!!」

 ぎゃふん……。

 どうしましょう。ぎゃふんと言いそうなのは私の方だわ。だって私が用意したお誕生日のプレゼント……蕁麻疹によく効くという東方の薬草なのよ?一緒にゆっくり治していきましょうと差し上げるつもりで……


「メル!わたくし妻失格だわ!!」

「……さてと、後は飾り付けですね」

 顎に手をあてて飾り花の山を眺めているメルは、絶対に聞こえないふりをしている。

「メ〜ル〜!!わたくし絶対絶命の危機なの!初めて迎える旦那様のお誕生日にプレゼントが無いのよ!?このままではレジーナ・ウィンストンに戻る事になるわ!!」

 メルの耳がピクリと動く。

「………八割方賛成ですが…?」

「な、なんですって?わたくし達たった今生涯を共にする誓いを……!」

 メルがやれやれといった風に肩を竦める。

「レジーナ様、少しお耳を拝借します」

「え、ええ」


 私の耳元でポソポソと呟くメルからの提案は、目から鱗が落ちるものだった。






「アクロイド少将!今日こそ色良い返事を聞かせて貰うぞ!」

 …またか。総長は暇なのか?

 毎日毎日どこから現れるのか、私が一人になるのを見計らったように総長が現れる。

「何が気に入らないのだ!歴代最速!誉れでは無いか!」

「そこです。明らかに分不相応。私のような若輩者に誰が着いて来るというのです。候補はいくらでもいるでしょう?軍に何万人いると思っていらっしゃる」

 

 ウィンストン公爵家の兄弟の言い分だと、私がレジーナの側にいるためには昇進しなければならないようだ。

 しかし時期尚早すぎる。前回少将となってからまだ3年。参謀本部に来てからようやく半年程度のこの時期に、新しいものを抱える余裕など無い。

 それに前回の元帥の王家に対する慮りようを見るに、軍での出世に大した抑止効果は無いと思われる。

 というより……

「可及的速やかに家に帰りたいのですが」

「……は?」

 ポカンとする総長になおも続ける。

「今日は妻から早く帰るように言われております。すでに定時を7分過ぎておりますので」

 今昇進よりも重んじるべきは、レジーナの心を完全に手に入れること。

 そのレジーナが願い事をするなど滅多に無いのだからな。

 ここは絶対に外せん。


「定時……などあるのか?我ら軍人に」

 ……存在しないかのように過ごしているだけで、あるに決まっているだろう。

「ふむ、なるほど。ああ、そう言えば確か明日の朝一提出予定の年間行動計画の策定が残ってたな。あれは統合戦略補佐官の仕事のはずだが……」

「は?そんな話聞いてませんよ?」

「今言ったからな。さてさて、取引をしようではないか。なぁに話は簡単だ。…『はい』と言いたまえ。そうすれば君は今夜、奥方にとって信頼に値する最高の夫となれるだろう」

 ひ……卑怯!なんという卑怯さ!!

「ん?どうする?ほれほれ。あ、今日が期限の報告書にも不備があったような無かったような……」

「ーーー!!」

 

 

 定時を28分過ぎた頃に西の宮を飛び出した私は、果たして総長に何を言ったのか……。

 権力は濫用されるもの。

 これだけはしっかり心に刻み込んだ。

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