1月5日 前編
旦那様と一緒に王都に戻ってからひと月。
つい先日私はレジーナ・アクロイドとしての初めての新年を静かに迎えた。
静かなのは夜だけで、昼間の邸敷地内ではあらゆる場所で工事が行われており、旦那様こだわりの『侵入するのが嫌になる外壁』と『足を踏み入れた事を後悔する庭』、それから『目に映るだけで死を覚悟する邸』への改築が進められている。
わたくし、今までの自分を振り返って大いに反省したの。世間知らずで向こう見ずだった自分を。だから反省の意味を込めてしばらく外出自粛を申し出たのよね。
…期間は〝三歩先を考えられるようになるまで〟。
あの一件を聞きつけたお父様がクリストファー兄様と一緒に伯爵邸に来られて仰ったの。
『無事で何よりだった。だけど次からは三歩先を考えて行動出来るようにエドガー君に指導してもらいなさい』って。
きっと旦那様は自粛期間がかなり長くなりそうだと思われたのでしょうね。私が退屈しないように邸をホラーハウスにして下さっているのだと思うの。実は一度暮らしてみたかったから探索が楽しみ…
……などと考えている場合ではない。
「レディ・シエラ、レジーナにものを教えるのは苦労するでしょう。この子は昔から頭の引き出しの開け閉めが下手なのよ」
「あら、そんな事ございませんわよ。基礎教育は完璧ですし、何よりとても素直ですもの。それよりレジーナちゃんは全然お金を使わないからそちらの方が心配で……。いらぬ気苦労をさせているのでは無いかと」
「ああ、この子は昔から物欲が無くてね。欲しがる物はおかしな本かおかしな器具、もしくはおかしな動物ばかり」
「まあ、レジーナちゃんらしいわ!」
…どう考えてもおかしいわ。
どうして年始の忙しい時期にお母様がここにいるのかしら。
来週から議会が始まるため、領地に帰っていた貴族が再び王都に集まり始めている今日この頃。アクロイド伯爵邸の居間では二人の夫人が盛り上がっていた。
ご存知、現代を生きる石の魔女と、遠い星から来た貴婦人だ。
二人が楽しそうなのはいいとして、お母様来訪の目的が不明。私が何かしたのだと思うが、それも不明。…怖い。
「…いけない、本題を忘れるところでした」
少し居ずまいを正したお母様が灰色の瞳で私を見つめ、そして静かに告げる。
「…レジーナ、あなたに王城より召喚状が届きました」
「召喚状…でございますか?」
「そうです」
シエラお義母様が申し訳無さそうな顔をして私を見る。
「ごめんなさいね、レジーナちゃん。本当は領地のあなた宛に届いた書状だったの。でも前回の事があるでしょう?…まず最初にウィンストン公爵家に相談すべきだと判断したの」
……王太子殿下の視察の件ね。
「レディ、前回の判断は正しいものでした。無事の知らせより前段階の報告が届いた日には、公爵とクリストファーが王家に討ち入りでもしたでしょうから」
王家に討ち入り…え、お父様とお兄様って怖い方たちだったの?いつもニコニコニコニコと…怖いわね。
「レジーナ、この度王城から届いたのはあなたに対する褒賞の授与についてです。…王太子殿下を身を挺してお守りしたことに対する、王家からの感謝の意でしょう」
褒賞……。それならば授けられるべき人は他にいる。
「お母様、感謝されるような事は何もございませんでしたわ。殿下の身を守ったのは近衛の皆さまで……」
「それが彼らの本分です。詳細はアーネストより報告を受けています。近衛が本分を全う出来たのも、あなたの態度が立派だったからだと褒めておりました」
…兄様が……?
兄様性格が変わられたのかしら。褒められた事なんて一度も無いのだけど。
「レジーナ、私はあなたに教えるべきかどうか長年悩んでいた事があります」
お母様の視線がふと下を向く。
「…ですが、この度あなたの身に起きた事柄を鑑み、事実を知らずしてのほほんと褒賞を受けられるような事態では無いとお父様が判断なさいました。よって、本日は公爵夫人としてではなく、あなたの実母としてここに参りました。…現在の母であるアクロイド前伯爵夫人にも聞いて頂きたく思います」
緊張した面持ちのシエラお義母様と私が静かに頷いたのを見計らい、お母様は壁際に控えていた侍女を部屋から出した。
私の懐刀のメルさえも。
「レジーナ、あなたは我が国の婚姻制度について正しく理解していますか?」
真顔で口を開いたお母様からの最初の言葉は少し意外なものだった。
「婚姻制度……はい。我が国では厳格な一夫一婦制がしかれております。平民はもとより、貴族もそれを違える事は出来ないと…習ったと思います」
「その通りです。この制度は貴族だけでは無く、王族にも適用される。…表向きは」
そうね、そうだったわ。ジェニファーお姉さまから聞いて知っている。
「…愛人……のことでしょうか」
お母様とこういう話をすることは無いと思っていたのだけど…。
そう思いながらお母様の顔をジッと見つめれば、ふむふむなるほど。相当に苦手な分野の話とみえる。
「………一般的にはそう言います。ですが…それは…ええと…」
まあ!お母様がマゴマゴされているわ。可愛らしい所がおありになるのね。
「ええと…レジーナちゃん物知りねぇ!そうそう、それよ、それ!でもそれにもやっぱりルールがあって…」
なかなか次の言葉が出て来ないお母様に変わって、シエラお義母様が合いの手を入れる。
「まあ、ルールが?自由恋愛なのではなくて?」
確かそういう話だった記憶が……
「…ゴホン。単刀直入に言うと、貴族の愛人は既婚者である必要があるのです。それは愛人と呼ばれる女性が子を身籠った時の相続関係を明確にするため。…愛人の子には爵位の継承権が認められません」
ああ…これもジェニファーお姉さまがおっしゃっていた事だわ。あくまでも正妻の子が夫の子に……ええとつまり、愛人の子は…その女性の夫の子に…?
頭が混乱してきたわ。
「…この暗黙のルールは、もちろん王家にも適用されます。ですが王家が他と唯一異なるのは、れっきとした制度として愛人を持つという事です」
「制度として…ですか?」
「そうです。王妃が担う公務と政務は多岐に渡り、一言で言うならば激務。その一部を肩代わりする人物……主に〝私的な部分〟を担う人間として、王家の予算からきちんと役目に相応しい額が支給される。それを…公妾というのです」
新年を迎えたばかりの慌ただしい時期に、こういった話が苦手であろうお母様がわざわざ出向いてまでする話…。
あの日の殿下の言葉を思い出し、言いようの無い胸騒ぎが止まらなかった。
冬の寒さを隠そうともしない冷たく無機質な石段を、下へ下へと降りていた。
…地下牢へと続く石段を。
普通の人間でも長時間耐えられる場所では無いこの地下牢に、貴族の令嬢として育った女性がいる。
そう、私の古い友人であるミランダが。
「…ああ、来てくれたの?ふふ、沙汰が下ったみたいね。あなたが会いに来てくれたって事は…死罪かしら」
薄汚れた白衣を身につけ、自慢の種だった髪が乱れ切った姿でも、ミランダの口調は相変わらずだった。
「……沙汰は…後刻担当者が告げに来る。今日は古い友人として話をしに来た」
ミランダが口端を上げる。
「あらそう、それはありがとう。それじゃあどんな話をしましょうか。エドガーに楽しい話は期待出来ないわよね。そうねぇ…せっかくの機会だし、私の質問に答えてくれない?」
格子越しに手枷をされたミランダを見る。確かに楽しい話は一つもしてやれないだろう。
「…わかった。何が聞きたい」
お互いに最後だと分かった上であえて聞かれる質問だ。きっと彼女にとって大切な事なのだろう。
「…私とあの子、どこがどう違うの?」
「……あの子?」
想定外の質問に面食らう。
「だから、お姫様と私。…17才だった頃の私ね」
レジーナと…ミランダ?17才の頃…
「質問の意味が……」
「分からない?…相変わらずね。あなたはそういう人だわ」
ミランダが遠い目をする。
「…私ね、あなたとテレンスが士官学校に入ったあともシエラおば様の所に遊びに行っていたの。…優しくて美しくて、私おば様が大好きだった」
「そ…そうだったのか。悪い、知らなかった」
本当に知らなかった。母上も一言もそんな話は…いや、私が聞いていなかったのだろうか。
「……あの頃のわたしね、あなたが好きだったの。…幼い初恋よ」
「え?はつこ……は?」
死を前にした冗談にしてはタチが悪い上に、テレンスはどうしたという気持ちで頭が混乱する。
「…それでね、17才の…そう、あれは忘れもしない夏の終わり、私おば様に聞いてみたのよ。…私をエドガーのお嫁さんとしてどうでしょうかって」
驚きで言葉が出て来ない。
「そしたらおば様がね、『エドガーではミランダちゃんを幸せに出来ない』っておっしゃったの。…あの頃のあなたと今のあなたに大きな違いがあるとは思えないのよね。…どうして彼女はアクロイド夫妻に迎えられたのかしら」
正直言って動揺している。ミランダとどうのこうのなど考えた事も無かったが、母上がそんな話を……
「…その顔じゃ全然分からないって感じね。残念。最後に聞けるかと思ったのに」
何かを諦めたように遠くを見ながらミランダが語り出す。
「…私馬鹿だったの。その話をテレンスにしちゃったのよね。私とテレンスって兄妹みたいなものだったでしょう?まさかあんなに彼が傷付くとは思わなくて…。ほら、テレンスってあなたにだけは負けたく無いって必死だったから」
「負けたく……?それは有り得ないだろう。テレンスは私より何でも出来た。人望も厚かったし、誰もが認める優秀な…」
ミランダが首を横に振る。
「…それでも、あなたへの劣等感は凄まじかったの。……だから私を望んだのよ。あなたを好きだった私を」
意味が…分からない。仮にテレンスに劣等感があったとして、何故それがミランダを望む事に繋がるのだ。
「……けれどテレンスには感謝してるの。いい夫だったし、何よりも私にライナスを与えてくれた。…これ以上無い喜びだったわ」
「ミランダ、ライナスは……」
そう、今日唯一私がしてあげられるはずだった話。きっと一番ミランダが聞きたかったであろう息子の話……。
だがミランダの瞳は違っていた。
最後の炎を灯すかのように揺らめいていた。
「エドガー、ライナスの両親はイゴール伯爵夫妻よ。……もっと早く……諦めるべき…だったの。こんなに愚かな母親なんて…あの子の人生の足枷にしか……」
静かな嗚咽が響く暗い地下牢で、私は立ち尽くしていた。
テレンスの死後、ミランダとその息子をイゴール伯爵家が支援していた事は知っていた。
春先にテレンスの兄が爵位を継承したと同時に支援が打ち切られた事も、同時にミランダが何より大切にしていた息子がイゴール伯爵夫妻に養子に迎えられた事も、彼女の口から聞いて知っていた。
知っていたが……何も分かっていなかった。
その裏で動いている人の感情の激しさというものが何も分かっていなかった。
そして思った。
私はこれからも何も分からないまま、分かろうとしないまま、取り返しのつかない大きなものを見逃していくのだろうかと。




