12月7日
私に状況が説明されたのは昨日の昼の事だった。
そして私がいた場所が、アンディさんの主家であるケイヒル侯爵領…北国との玄関口であったという事も。
皆さまとても気を遣って下さり、体力や心の傷が回復するまで暫く逗留しても良いと仰ったのだけど、私はそれを丁重にお断りした。
…一時も早くアクロイド伯爵領に帰って、多大な心配をかけた皆に顔を見せたかった。
「レジーナ、辛くないか?もう少し寄りかかるといい。一生分の我儘を言ったって叶えてやるから」
「まあ…こんな所で一生分を使ったら勿体ないですわ」
「じゃあ何か飲むか?」
コトコトと揺れる伯爵領へと向かう馬車の中、甲斐甲斐しく私の世話を焼いてくれているのは旦那様…では無い。
「……アーネスト、少し近すぎないか?」
「何を言ってるんですか。俺はレジーナの側を離れません!」
「…………だいたい隣の席は私のものだろう」
「食事の時は譲ったでしょう」
「お、お兄様…!」
そう、ここに来て何故か妹愛を爆発させているアーネスト兄様である。
何でも領事館の捜索結果、私の姿が無い事が判明するや否や怒り狂って近衛の皆さまと憲兵の皆さま総出で取り押さえたのだとか……。
「…ったく。ベルツが目を丸くしているでは無いか」
対面の席で旦那様が溜息をつく。
そう、この馬車に乗り込んだのは旦那様とアーネストお兄様の他にもう一人…。
「いえいえ、鉄面皮で有名なアクロイド少将もアーネスト大尉も、レジーナ殿の前では形無しですね。とてもいいものを見せて頂きました」
「お恥ずかしい所をお見せして申し訳ございませんわ。旦那様はともかく、兄はまだ婚約者もない身…。出世に響かないような報告を切にお願いしますわ」
「ははは!我ら憲兵と言えど、ウィンストン公爵家に内偵を行うような事態は御免被ります」
「そうですの?クリストファー兄様なんて凄く怪しいですわよ?」
…なんて冗談だけど。憲兵の仕事は軍内部の取り締まりだという事はちゃんと聞いている。
「……皆さま、大切なお話があるのでしょう?わたくしは大丈夫です。王都に戻られれば席を共にするのも難しいご関係だとお察しいたします。……わたくしにお話できる事でしたら何なりと」
さすがの私も分かっている。本当ならば昨日にも聞き取り調査が行われたであろう事は。
そうでなければこの組み合わせでの馬車移動は不自然だから。
「…ベルツ、レジーナは被害者だ。そこは履き違えるな」
旦那様が真顔でベルツ大尉を牽制する。
「承知しております。…アーネスト大尉もそう睨まれますな」
「……分かっている」
なるほど、昨日聞き取りが行われなかったのは二つの怖い顔のおかげだったのね……。
穏やかに微笑みながらベルツ大尉が口を開く。
「レジーナ殿のご協力に感謝します。改めて自己紹介致します。私はロバート・ベルツ。仕事内容は詳らかには出来ませんが、要は軍内部の〝裏切り者〟を探しております」
「裏切り者……ですか」
「左様。この度御身に降り掛かった災難には複合的な要因がございます。ですがその一端を軍所属の人間が担った事は確かです」
旦那様と兄様の眉間に皺が寄る。
「……思い出せる限りでけっこうです。お話をお聞かせください」
色々な事が頭をよぎったが、私は一つだけ頷いた。
ベルツ大尉の言葉は明瞭だった。
歌劇団との最初の出会いはいつだったか、場所はどこだったか、誰と一緒だったか、そのような質問を一つ一つゆっくりと尋ねられた。
そして最後には意外な質問が……。
「…レジーナ殿は、どうして歌劇団の団員と懇意になる事を避けられたのでしょうか」
「……え?」
「他意はございません。我等にとっても本件は危機感を覚えているのです。通常であれば諜報活動の標的となるのは我々…つまり男側なのです。それが今回は……」
「ベルツ、レジーナに余計な事を言うな」
旦那様が不機嫌になる。
「…大切な事です。軍人ならば教育も訓練もできる。ですが夫人方への警戒など不可能に近い」
「だが……」
なるほど……。
私とメルの探偵団の推理はここに繋がったのね。
今さらだけど歌劇団自体がスパイだったという事。そしてそのターゲットは軍の高官のご夫人方……。
何ということかしら。私ったら出資の話なんかしてしまって……。
「ベルツ大尉、レジーナは特殊なんですよ」
隣でしつこく私の肩を抱き寄せる兄様が失礼な言葉を発する。
「…特殊……とは?」
「レジーナにとっては、歌劇団の男ども程度では歌って踊る案山子にしか見えなかったという事です」
兄様ったら何を突然……。
「ちょっと兄様、いくら何でも馬鹿にしすぎですわ。わたくし歌劇団の皆さまの事はちゃんと最初から人間だと分かっておりました。……男性だと思わなかっただけです」
言って後悔した。ベルツ大尉がポカンとした顔をしたから。
「…ふふ、ははは!それはそれは素晴らしい目をお持ちだ。…これは少将も気が気では無いですね」
「…う、うむ……」
旦那様、この件に関してだけは同じ穴のムジナだと思っておりますわ。
ようやく帰って来た伯爵領で、父上や母上、それからメイベルに囲まれて微笑むレジーナを見ていた。
グチャグチャの顔をした母上とメイベルだけでは無く、父上の目にも光る物を認めた時には心底驚いた。
私が王都に戻ってからの数か月で、レジーナがいかに私の両親と良好な関係を築いたのか知ったからだ。
「…少将、少しお話いいですか?」
馬車の中で決してレジーナの隣を譲らなかった男が、ようやくその手を離して私の元へとやって来た。
「どうした」
「…レジーナ無事の知らせを受けて、王太子殿下は一足先に王都に発たれたそうです」
「…そうか」
彼もまた多忙の身。ギリギリまで邸に逗留してレジーナの身を案じていたのだろう。
「……仕える主人が戻ったとなると、俺も隊を連れて戻らねばなりません」
アーネストの瞳には複雑な色が浮かぶ。
「…分かっている。レジーナのことだろう?ああやって微笑んではいるが、微笑んでいる時の彼女は大抵無理をしている。教育の賜物というか何というか……」
…こんな時ぐらい泣けばいいものを……。
ぼんやりレジーナを見ていると、アーネストが変な声を出す。
「…せんぱ……いえ、あー……もしかしてレジーナの事……けっこう好き……だったりします?」
アーネストが何を言っているのかよく分からない。
「…好き?」
「え、ええ…。その……女性として…という意味で」
やはりアーネストが挙動不審になる意味が分からない。
「当たり前ではないか。女性として好きじゃなければ妻として置くわけないだろう」
「!!」
何なのだ、いったい。
他人に指摘されなければ分からないほど子どもでは無い。
…というかそれなりにいい歳だから悩みも深いわけで……。
「あー……よく分かりました。兄として非常に複雑ですが、レジーナの事をお願いします」
アーネストが頭を下げる。
「あ、ああ。分かっている」
「…ほんとですか?ほんとに分かってます?」
アーネストが顔を上げつつジトッとした目をする。
「分かって………はぁ」
思わず溜息をこぼせばアーネストの眉が吊り上がる。
「な、何ですか!?今の溜息!すっげー嫌な感じ!!」
……おのれ、レジーナの兄でなければ斬り伏せたものを。
この日、就寝前にようやく数か月ぶりにゆっくりと二人で会話をする時間が持てた。
昨日は事後処理や各所への申し送りなどでそれどころでは無かったのだ。
ようやく…なのだが、アーネストとの一件もありなかなか状況は心臓に良くない。
「…旦那様、この度は助けに来てくださって本当にありがとうございました」
レジーナがベッドの片側で居ずまいを正し、深々と頭を下げる。
「ご心配をおかけしました。本当に……申し訳ございませんでした」
ベッドの上に付いた手の甲に、額が付きそうになっている。
「…レジーナ、なぜ君が謝る。それに礼を言われるのも違う。正直に言えば、偶然に偶然が重なった結果なのだ。下手をすれば今日になって王都で事の次第を耳にしたかもしれん」
そう、いくら元帥でもレジーナの誘拐までは想定出来なかったはずだ。
…歌劇団の捕縛は予定の内だったとしても。
そっとレジーナの両手を取る。
「……君を王都に連れて帰ってもいいだろうか」
彼女がようやくその顔を上げて私を見る。
「ここと王都のどちらが君にとって安全かは分からない。勿論どちらにいようが二度とこのような事態は起こさない。だが……私が耐えられそうに無いのだ。すぐに駆けつけてやれない距離も、届かない声も……」
アンディや近衛、憲兵隊がいなければ、気が狂っていたと思う。
…怖かった。本当に怖かったのだ。
フワッと鼻先を柔らかい香りがかすめたかと思えば、レジーナがすっぽりと胸元に収まる。
「…連れて帰ってください。私ももう耐えられません。旦那様に…旦那様に………」
「私に…なんだ?」
泣いて…いるのだろうか。肩が小刻みに震えて…
「ギュッとしてスリスリしたいですわ……」
「…は?」
「出来れば毎日…難しければ三日に一回…いえ、ここは妥協して週に一度……」
スリスリ……?
「あー……詳細は不明だが、何なりと君の気の済むように…」
顎下に収まった後頭部に投げかければ、レジーナが何も言わずそろそろと背中に腕を回して来る。
…なるほど、このパターンか。
次に来るであろう残念な台詞の予測にかかった時だった。
「…ひくっ……ひく…」
胸のあたりから消え入りそうな嗚咽が漏れ聞こえて来た。
ずっと気丈に振る舞っていた彼女の心が私の側で緩んだという事実に胸が熱くなる。
「…………よく頑張った。よく……無事で……」
そして胸が苦しくなって、最後は言葉にならなかった。
その夜私は人生で初めて他人の頭を抱き締めて、髪を撫でながら眠ったように思う。
そう、これぞ鋼の自制心……。
レジーナのスリスリ攻撃があと1分でも続いていたら、私は兄上ズから虫ケラ以下の扱いをされていたに違いない。
『12月7日 晴れ
久しぶりの日記だわ。私本当にちゃんと帰って来たのね。実はまだ頭の中がふわふわしていて現実感が無いの。沢山の人に心配をかけたわ。メルなんて体が半分になるほど痩せてしまって……。私の無事を願っていてくれた方々にどうすれば感謝を伝えられるかしら。あ、旦那様の足音がするわ。そうね、まずは迎えに来て下さった旦那様にしっかり御礼を申し上げなきゃ。』




