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12月3日 前編

 馬車のタラップが軋む音が聞こえ、視界の先に黒い革靴が映る。

 伯爵領の庁舎前に集まった大勢の民が歓声を上げる中、彼は静かに下りて来た。


「王太子殿下におかれましては、遠路はるばるようこそお越し頂きました。殿下の御滞在期間中、恙なくお過ごし頂けますよう領内総出で努めさせていただく所存にございます」

 先頭で深く腰を落とした私の耳に、柔らかい声が届く。 

「顔を上げるが良い」

 静々と頭を上げ、目の前に立つその人を見た。

 淡い金色の髪に淡い緑色の瞳……そう、王族の体現者のような王太子殿下。

「皆の歓迎を嬉しく思う。何かと世話をかけるが宜しく頼む」

 いつもどこか寂しそうに微笑む、昔のままの殿下がそこにいた。

 


 まだ私が幼い子どもだった頃、父様や母様に連れられてしょっ中王宮に遊びに行っていた。

 最初はアーネスト兄様と殿下と3人で、兄様が寄宿学校に入られてからは私と殿下だけで、王宮中を走り回っては大人たちに叱られたものだ。

 実際のところ7つ年の離れた兄様よりも、5つ離れた殿下の方が私と真剣に遊んでくれていたし、何なら私も兄たちよりも懐いていた。

 

「…なるほど、確かに対岸がすぐそこに見える。あれは西国なのだろう?」

「ええ、伯爵領はエーゲ湖を西国と分け合って統治していると聞き及んでおります」

 港に立って、肉眼でも見える隣国を眺める殿下の横顔を見る。遊びに来たという雰囲気は一切無く、真面目に政務にあたる立派な王太子になられた殿下を。

「海のどの辺りを国境とするのだったか、確か……」

 ……難しい質問が出たら後ろに控えているメルをチラッと見る。

「……ヒソヒソ…海の底にある土地の始まりから数えて、双方の中間で線を引く……でございます」

 私の耳元で囁くメルの言葉を聞き逃さずに殿下が言う。

「…クス、そうだったな」

 片眉を下げて微笑む癖もあの頃のまま。

 ……変わってしまったのは、お互いに大人になった事だけ。

 だけどそれこそが一番大きな変化なのだ。


「…ヒソ…おい、レジーナ。エドガー先輩はどうした」

「!」

 瞼に思い出を映しながら殿下の左後ろを歩く私に声が掛かる。振り向けばそこには近衛の制服に身を包んだアーネスト兄様。

「え、兄様!?いつからいらっしゃいましたの?」

「静かにしろ!護衛中は私語禁止なんだ。…というか最初からいただろう…?なんなんだこの妹は……」

 まあ…全く気づきませんでしたわ。何て影の薄い……あ、護衛だからそれで良いのかしら。

 私語禁止という割に兄様がコソコソヒソヒソと話しかけてくる。

「…先輩は?知らせは出したんだろう?なぜ姿が無い」

「旦那様はご多忙です。領地の仕事は私が任されましたの」

「……チッ」

 …ち?まぁ兄様ったら、公爵子息が聞いて呆れますわ。



「アクロイド夫人、次は船を見せて欲しい。何でも珍しい外国船が泊まっていると聞いた」

「は、はい!」

 兄様と話している場合では無いわ。

 今日の私は仕事中。殿下も私を夫人と呼ぶ。そう、今日は夜会の時とは全く違う。お互いの立場をきちんと弁えた、王族と臣民だ。

 …と思っていたのだけど。


「今日は良い一日だった。とても勉強になった。我が国で海を持つのはアクロイド伯爵領だけだからね。…いつか来たいと思っていた」

「左様でございましたか」

 船の見学を終え、晩餐のために邸に戻る途中での事だった。

 殿下が少し休憩をしたいとおっしゃったため、急遽馬車を丘に停め、お茶を供することになったのだ。

 そこまではまだいい。そんな事もあろうかと、積荷にはテーブルセットもティーセットも準備されている。

 冬空の下、寒いのも我慢する。ただ…

「殿下、護衛と離れてよろしいのです?何かあったら……」

 ……伯爵領の責任問題ですとも言えず、殿下の顔色を伺う。

「ああ、見える所にはいるし大丈夫だ。こうでもしないと話もできないだろう?」

「え、ええ……」


 メルまでもが下げられたため、たどたどしい手付きで私がお茶を注ぐ。

 一口喉に流し込み、ふうっと白い息を吐く殿下。

「…すっかり大人になったのだな」

 殿下が神妙に呟く。

「それはそうですわ。わたくしこうして結婚もしましたし、殿下だって……」

「リチャードだ。…ずっとそう呼んでくれていただろう?せめて二人の時ぐらいは名を呼んで欲しい」

 名を……

「わかりましたわ。…けれど後から罰金なんて払えませんわよ?わたくしお財布を持たせて貰えませんの」

 冗談で返せば殿下の顔が崩れる。

「はは、罰金など…はて、徴収した後どこに仕舞おうか。私も生まれてこの方財布を持った事がない」

「まあ!ではリチャード様も計算が苦手ですの?お買い物はすごく奥が深いのです。金貨が使えない店がたくさんあるのだとか…。きっと引き算が大変だからですわ」

「引き算が……ははは!レジーナは相変わらずだ。…あの頃のまま……あの頃は……楽しかった。何も疑わず、レジーナを妃に迎え、当たり前に王位に着くのだと思っていた」

「…え?」


 殿下の顔が少し曇る。

「レジーナ、私は本当ならば王太子などという身分を得られる人間では無いのだ」

「え…?」

「……本当ならば、王族籍にさえ載ることのない……いや、決して載せてはならぬ存在…」

 夕焼けに染まる金色の髪の殿下から紡がれる言葉に理解が追いつかない。

「ええと、しかしながらリチャード様はずっと王子でいらっしゃったでしょう?初めてお会いした時、それこそ私が3歳の頃に間違いなく第一王子殿下だと紹介を受けましたわ。15の歳にはちゃんと立太子されて……」

 王族籍に載せられない子が陛下の後継になどなれるはずが……

「…レジーナ、違うのだ。君がいたからだ。君が…ウィンストン公爵家がいたから……」

 殿下の声がどんどん細くなる。

「わたくしとウィンストン公爵家が何か……」

 妙な緊張感が走る。

「レジーナ、君は…私の婚約者だったんだ。君が生まれてから10年間…私の立太子までは」

 こん…やく………?

 わたくしと殿下が…婚約者だった?


 ただでさえ働きのよくない頭がぐるぐる回る。

 婚約…が本当なのだとしたら、解消されたのはなぜ…?

 王家と公爵家の婚約が白紙に戻ることなどあるの?


「レジーナ、単刀直入に言う。もう一度私を助けて欲しい。私には力が無いのだ。…東部の戦も、私に力が無いせいで起こってしまった…」

「え…?」

「権力には、それを支える圧倒的な後ろ盾がいる。人は肩書だけに着いて来るのでは無いのだ」

 後ろ盾……

「わたくしに何をしろと……」

 殿下の緑色の瞳が私を見つめる。

「…そのまま、レジーナ・アクロイド夫人として、私の側にいてくれればいい」

「レジーナ・アクロイドとして……」

 ああ…駄目だわ…。

 復習する時間が必要。とてもではないけれど頭の中では処理できない……

 

「…レジーナ……」

 殿下が私を呼ぶ。

 ぼんやりと声の主の淡い瞳を見つめた時だった。彼の目がカッと見開かれる。

「逃げろっっ!!」

 突然殿下が叫ぶ。

「えっ!?」

 突然引っ張られる腕、倒れる椅子、割れる茶器。

 そして鳴り響く笛の音と地割れのような足音。

 私の目の前には…鈍い一筋の光……


「レジーナ!!」

 近衛に囲まれた殿下が私に手を伸ばす。

「殿下!お下がりください!!」

「レジーナが…レジーナが!!」

 なおも私に手を伸ばす殿下に怒声を浴びせる人がいる。

「黙れリチャード!!下がれっ!!」

 アーネスト兄様、またそんな汚い言葉を使って…。殿下を呼び捨てにするなんて、もしかしてお財布持ってますの?

 でも兄様があんなに真剣な顔をするなんて珍しい……


「…騒ぐとためになりませんよ」

 目の前にあった鈍い光が私の首筋へと移ると同時に、頭上に響いた高くもなく、低くもない声。

 伯爵領で聞こえるはずのないその声に、ようやく私の頭が現実を認識した。

 キョロキョロ目だけを動かして、私を羽交締めする人物を確認する。

「あら、ご機嫌ようお姉さま……お兄さま、ですわね」

 なぜ彼がここにいて、私の首筋に刃を当てているのかは分からない。

 分からないが、ジリジリ、ジリジリとアーネスト兄様を始めとした近衛の集団が殿下を背に隠して後ずさっている事だけは確かだ。

「今日はこちらで公演を?」

 私の肩にかかる黒髪の持ち主に話しかけてみる。

「…そんなところです」

 なるほど…。きっと私の後ろには歌劇団の方々がいるのだろう。

「…それでしたら今日の観客はわたくし一人ですわ。あそこにいる方たちはとても〝夫人〟とは呼べませんもの」

「………………。」


 正面を向いたまま、ゆるゆると後ろに下がっていく私の体。

 視界には一歩踏み出そうとするアーネスト兄様が映る。

 兄様の蒼白な顔とお母様譲りの灰色の瞳を見つめながら、心の中で必死に唱える。

 …動かないで、兄様。殿下をお守りして。アクロイド伯爵領で殿下に何かあっては駄目なの。わたくし初めて仕事を任せてもらえたの。

 …お願い!

 

 兄様の顔が絶望に染まったと同時に、私の視界は暗闇に包まれた。

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