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10月8日

 ここなら大丈夫かしら…?

 見えていないわよね?

 ふふふ、私昔からかくれんぼは得意ですの。


 私は気づいてしまったのだ。

 旦那様が昨日の朝、日が昇る前に何処かに出て行かれたのを。

 朝食の前に剣を手に戻って来られたから訓練をされていたのだとは思うのだけど、何せ昨日も一日中慌ただしくて聞きそびれてしまった。

 昨日は本当に勉強になった。船着場というもの自体初めて見たけれど、魚を取る船と荷物を運ぶ船が違うなんて全く知らなかったし、そもそも海があんなに深いなんて思わなかった。

 変な勇気を出さなくて良かったわ……と、こんな事を考えている場合じゃないわ!旦那様、旦那様……。

 茂みに隠れて、裏庭で剣を振る旦那様を凝視する。


「ふーん……覗きですか」

「!!」

「朝早く起こすようにと仰るから、真面目に予習復習に取り組まれるのかと感心しておりましたが、覗きですか。…しかも御夫君の」

「メ…メル…!」

 しまったわ…!部屋にアリバイ工作を施すのを失念したわ!

「や…やあねぇ、覗きだなんて。わたくしは妻として旦那様がどんな剣さばきをなさるのか知っておいた方がいいかと…」

「あ、丸太が真っ二つに」

「えっ!?」

 ああもう!メルに気を取られて大事な瞬間を見逃したわ!

 心の中で地団駄踏みながらも、再び目線は旦那様に釘付けである。

 それにしても本当に麗しいわ…。いつもより高めに結い上げられた髪がキラキラと…激しくキラキラ……。

 あら、汗をかかれたのね。そうね、確かに伯爵領は温暖だわ。だからと言って旦那様ったら秋の早朝だというのに薄手のシャツ…を脱いで……

「ーーーー!!」

 な…なんという………

「レ、レジーナ様!?レジーナ様ー!!」

 この世に…あのような………



「…レジーナ、目覚めたか?」

 ふと目を開ければそこは先ほどまで寝ていた部屋のベッド。

「あら旦那様、おはようございます。何だかとてもいい夢を見ておりましたわ」

 引き締まった彫刻のような美しい旦那様の裸体、そして首から掛けられた何かしらのメダル……そう、あまりにも鮮やかすぎてどこか現実的では無い夢を見ておりました…なんて……

「現行犯で身柄確保した」

「は…い?」

 私を見る旦那様の目がどこか冷たいような…。

「罰として、今日は私のやり方に付き合ってもらう。…覚悟しておけ」

 …え。

 

 

 は…速い!それにもの凄く揺れますわ!

「馬車でチマチマと移動するから時間がかかるのだ。……しっかり捕まっていろ!」

 ええ、ええ!それはもうしっかりと…掴まれていますわ!お腹の辺りをグッと、それはそれは力強く…!

 馬に乗ったことはある。カポカポと馬場を散歩する馬の背に、アーネスト兄様と一緒に乗せてもらった。

 だけど走る馬に乗った事は無い。それだけでも心臓がドキドキするのに、耳元で感じる旦那様の声や背中にあたる胸板に、頭が沸騰しそうである。

 朝の夢といい、私…変だわ……!!


 変なのは多分私だけなのだろう。

 野を駆け山駆け畑を駆けて、行く先々で旦那様は真面目に何かのリストを消し込んでいる。

 馬の休憩がてら降り立った小川で、堪えきれずに聞いてみた。

「あの、旦那様?今日は何をご覧になっていらっしゃいますの?何か熱心に調べ物をされておりますでしょう?」

 声を掛ければ、川で水を汲んでいる旦那様が私の方に振り向く。

「特に何という事は無い。父上から今日は民の暮らしぶりを見るように言われたからな。いくつか抜粋して見ているのだ」

 確かに旦那様は行く先々で人々の動きを観察されていた。何となく〝見る〟の意味が違うような気がしたけれど、そこは黙っておいた。

「我が領が攻め込まれるとしたら海からだからな。船は厄介だ。一度に運んで来る兵数が多い。残念ながら我が国には海軍が存在しないのだ。第十一師団の拠点が近くにあるが、海上戦を自警団だけで応戦するには無理がある。かと言って籠城戦は地獄だから避けねばならん。そうなると民を逃がす場所なのだが………」

 …視点が違うだけで、しっかり〝見て〟いらっしゃいますのね。

 

「ほら、改良版だ」

 旦那様がポンッと私の手のひらに包みを乗せる。

「今度のものは水で溶くらしい。…絶対に不味いと思うのだが……まぁ罰だしな」

 糧食……

「素敵!まるで冒険者のようですわ!」

 本当に素敵…。装飾も何も無いよく分からない包みに入ったよく分からない食べ物……。

「…宝物が見つかる気がしますわ………」


 私の呟きに旦那様が返して来た言葉は、『ふむ…。食べたぐらいで索敵能力が上がるなら、現場は大助かりだな』だった。

 





 …おそらく罰になって無いな。

 過去数百回に及ぶ覗き被害に遭って来た身としては、本件については厳罰を下さねばならない。

 だがやり過ぎて泣かれでもしたらお手上げだ。匙加減が非常に難しい。

 今だって小銭を持たせ使いっ走りをさせているのだが、明らかに目が爛々としている。

「旦那様!わたくしお使いできましたわ!あとお金が増えました!」

 …お使いでは無い。嫌がらせだ。そして金が増えるわけないだろう、それは釣り銭だ。

「……はぁ」

 溜息も出るというものである。

 不安だ…。彼女は明日から一人で大丈夫なのか?やはり王都に連れ帰った方が……


「旦那様…お花、気に入りませんでしたか?」

 レジーナが少し不安気な顔をする。

 気に入るも何も、私がなぜ店にすら入らず使いっ走りをさせたと思っているのだ。…花の良し悪しなど一つも分からないし、匂いが駄目なのだ。甘ったるい匂いが……

「…うむ。問題無い。黄色い花だな」

「…マリーゴー……さすが旦那様ですわ!よかった、わたくしにだけ黄色に見えていたらどうしようかと思いましたの」

 ……同情されたな。


 

 花束を抱えたレジーナを乗せて、少しゆっくりと馬を走らせる。

 向かう場所は隣領との境。この場所に来るために予定を切り詰めたと言ってもいい。

 

「…テレンス……イゴール……」

 開けた丘の上。人影の無い静寂な場所で、レジーナが小さく石に刻まれた名前を読む。

「…ああ。君を紹介しようと思ってな」

 レジーナが静かに私を見たあと、何も言うことなく墓石に花を手向けた。

 腰を屈めるレジーナの隣に立ち、馬の鞍に提げてきた酒瓶を開ける。

 石に酒を流しながら、最後にここでテレンスを見送った日を思う。

 五年前、土に埋まっていく友の棺を見送った日を。

「…長いこと会いに来ず悪かった。私はまだしぶとく生きている。…運だけは私の方が強かったな」


 明るくて、賢くて、そして強い男だった。

 テレンスのようになりたいと、子ども心に何度も思った。

 だけどそれを理由に砲弾が勝手に避けてくれる訳では無い。

 私は生き延びだ。生き延び続けている。…運が良いのだ。

 …だから運の良い一日を、昨日と同じ一日を、ただひたすら生きればいいと思っていた。

 …友の分まで。



「…あー……今日は報告がある。その一、爵位を継いだ。二年前だ。名ばかり伯爵で領民は苦労していると思う。そのニ、前線を離れる事になった。怪我はしていない。別に自慢話では無いからな。その三、ええと…結婚した。名前はレジーナだ。そうだな……」

 独り言のように言いながら、隣でじっと墓石を見ているレジーナの横顔を盗み見る。

「…色々と心配だ」

 ポソリと呟けばレジーナがなぜかウンウンと頷いている。

 …そういうところだからな。無意識に興味を持たざるを得ない反応をするんじゃない。

  

 何も言わない友の眠る石をしばらく黙って見つめた。

 レジーナも、ただ静かに私の隣に立っていた。

 …テレンス、今日は私の近況だけ報告しておく。近々また来ると思う。その時は……いや、その時までゆっくり眠れ。




 その日の夜、やはりレジーナに与えた罰は全く効果が無かった事が判明した。

「旦那様、わたくし明日から一人でもきっと大丈夫ですわ!今夜からの夢はきっと今朝よりももっと具体的になると思いますの!」

「……具体的」

「ええ!温度も質感も鮮やかに!」

 ………鮮やかに…

「レジーナ、そこに座れ」

 ベッドの左側を指差すと、きょとんとした顔でレジーナがベッドによじ登ってくる。

「自分勝手に脳内再生されるのは困る」

「え…?」

「ちゃんと、正確に、思い出すのだ」


 我ながら気持ち悪い台詞だと思う。

 だが私だって鮮やかな記憶とやらが欲しい。


 緑色の瞳で私を見つめるレジーナに、そっと口付ける。

 唇を離して再びレジーナの瞳を見れば、大きな瞳がこぼれ落ちそうなほど見開かれている。

「…記憶できたか?」

 そう問えば、彼女が意外にしっかりと首を横に振る。

 ……なるほど、これは時間がかかると見た。


 目が合うたびに唇を重ね、言葉に出て来ないお互いの脳内を読み解き合う。

 彼女の中の私がどんな風に描かれているのかは知りたくも無いが、私の中のレジーナは、とても美しく鮮やかに刻み込まれた。





『10月8日  白 紙 』

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