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10月6日

 胸の高まりが抑えられない。

 もうすぐ降り立つ未知の土地への期待は膨らむばかりだ。


 馬車で王都を出発して丸一日。途中で宿に泊まって旦那様とドキドキお泊まり…なんてイベントも全く起きる事が無かった二日目の昼、ようやく見えてきた目的地。

 そう、アクロイド伯爵領。


「旦那様!湖が見えますわ!なんて美しいの…!」

 小高い丘から臨む眼下の伯爵領は、湖に向かって三日月を描くような不思議な形をしている。

「レジーナ、身を乗り出すな。…君は落ちる。すでに6回ほど落ちかけている。ついでに言うと、あれは海だ」

「うみ……海?我が国に海がございましたの?わたくし家庭教師に習いましたわよ?国の西端は〝エーベ湖〟だと」

「間違いでは無いが、陸地に囲まれた小さな海なのだ。紛らわしい名前を付けたのは誰だろうな」

 海だなんて……!これは一舐めするしかありませんわ…

「…海水を飲もうなんて考えるなよ?」

「え?あ……ふふふ?」

 どうしてかしら。けっこう前から旦那様には心を読まれている気がするわ。

 


 小高い丘の頂上で停まった馬車。旦那様に手を取られ、芝生に置かれた灰色の敷石の上へと降り立つ。

 チラッと視界の端にメルが乗ってきた馬車が映ったと思った瞬間。

「きゃ〜っっ!レジーナちゃんっっ!!」

 眼前にニョキッと現れた旦那様そっくりな顔。

「お、お義母さま!ご無沙汰しておりますわ」

「長旅大変だったでしょう?」

「いいえ、整備された街道ばかりでしたので楽なものでしたわ」

「ささ、邸に入って頂戴!皆に紹介するわ。もうみんな朝からソワソワしちゃって大変だったのよー!あのレジーナ姫がやって来るって、そりゃもう盛り上がっちゃって……」

 ふふ、お義母様お変わりなさそうで良かったわ。わざわざ外まで出迎えられるなんて、余程旦那様の帰りを待ち侘びて…待ち侘び……

 玄関アプローチの灰色の石畳の上でお義母様がクルリと振り返る。

「それでね、レジーナちゃん…えっ!?あら、エドガー?あなたいつからそこにいたの!?」

「……ずっとおりましたが」

「ええっ!?あなたそんなに影の薄い人間だったかしら!?」

「………………。」

 ……これは面白いことになりそうだわ。



「よく帰って来たね、二人とも」

 こちらで数か月お世話になるため、それなりの量になった荷物の整理をメルに任せ、ご両親の待つ応接へと入る。

「父上、長らく無沙汰をしました」

 旦那様のお辞儀に合わせて私も腰を落とす。

「お義父様、しばらくお世話になります」

「いやいや、ゆっくりと過ごすといい…と言ってやりたいところだが……」

 お義父様が口を濁す。

「ふーたーりーとも!三日間秒刻みのスケジュールで働いてもらうわよ!」

 お義母様がビシッと私たちの方を…いえ、どちらかと言うと旦那様の方を指差す。

「「秒刻み……」」

 旦那様と声が揃う。

「そうよ!エドガーあなた、本当なら二年前にやっておかなきゃならなかった宿題が残っているでしょう?だいたいあなた今の今までよくもまあうんぬんかんぬん……」

 まあ!旦那様は宿題は溜め込むタイプでしたのね。私そのあたりはちゃんとしてましたの。

 それよりも問題は〝秒刻み〟の方ですわ…。私の場合、だいたいぼんやりしている間に一日が終わりますもの…。


 お義母様の語彙数の多さにしどろもどろになっている旦那様に、お義父様から救いの手…声が伸びた。

「エドガー、雑多な仕事は少しずつでいい。領主の披露目だけはせねばならん。元気にしている姿を領民に見せなさい。…それが最初の仕事だ」






 家令を始めとするアクロイド伯爵家の上級使用人とレジーナの面通しが済んだ後、邸には大勢の人々がやって来た。

 領地の管理をする代官や判事、各分野別に事務を担う書記官、そして領内の治安を維持する自警団の代表など。

 父上が忙しい人だとは知っていたが、領主というのはこれら全てを代表するものだとは正直認識が甘かった。

「お会いできて光栄でございます。ご活躍の噂はかねがね」

「就任の祝いもご結婚の祝いもお伝え出来ずに心苦しく思っておりました」

 本来ならば都度都度祝いの催しをせねばならないところ、父上と母上の苦肉の策により晩餐会という形が取られた今夜、私は自分がいかにつまらぬ領主なのかを自覚した。


「いや…私の方こそ長らく顔を出さずに迷惑をかけた。至らぬ身ではあるが、これから精進を重ね……」

 反省の弁は出て来るものの、ではどのようにして精進しようか頭が痛い。

「皆頼りない領主で不安に思う事もあるだろう。しばらくは領主代行として私が執務にあたるゆえ、エドガーの活躍を今しばらく見守って欲しい」

 対面に座る父上が私に助け舟を出してくれる。…と同時に鳴り響く拍手。

 ありがたいとは思ったが、それならばなぜ爵位の継承を急いだのか、やはり疑問が残ったままだった。


 ふと隣を見れば、いつもニコニコとこのような場をやり過ごすレジーナが、神妙な顔をしていた。

「…レジーナ?どうした、何かあったのか?」

 一向に皿の上の料理も減っていないところを見ると、よほどの事があったと見える。

「…旦那様、本当に申し訳ございません……」

「何がだ」

「旦那様が予期せず二足の草鞋を履かれる事になったのはわたくしのせいですわ…」

 レジーナの……ああ、そういうことか。

 ウィンストン公爵令嬢を妻に迎えるには伯爵子息では余りにも格が落ちる。そういった背景ならば頷けるというものだ。


「…ならば感謝せねばならぬな」

 そう言えば、レジーナがこてんと首を傾げる。

「……おそらくあのままでは私は父上が身罷られるまで爵位を継ぐことはなかっただろう。…領内の事を何も知らず、誰の仕事も知らず、それこそ父上の助けも得られず…」

 お飾りどころの話では無かった。

「だから何も気に病む必要は無い」

 最大限慰めたつもりだったのだが、なぜかレジーナの瞳が潤み出す。

 な…なぜだ…。言葉の使い方がまずかったか?ええとこういう場合は…

「…旦那様……ありがとうございます。わたくし努力いたしますわ。旦那様の後悔がいつか晴れるよう精一杯努めます」

 後悔……?

 ハンカチで瞼を拭うレジーナから発せられた言葉が妙に心に引っかかる。


 宴もたけなわといった頃、母上が立ち上がった。

「さあ、後は男性陣の憩いの時間よ!レジーナちゃん、皆にいとまを告げましょう!」

「はい、お義母様。皆さま、これから領地の発展のために心を尽くさせて頂きます。何卒ご指導くださいませ。…それではよい夜を」

 スッと微笑みの仮面を貼り付け、完璧に身につけられた挨拶を披露するレジーナ。

 そしてそのまま母上と共にメインダイニングを後にした。



 場所を変えて行われるのは、いわゆる酒盛りである。

 こちらとて軍で鍛えられた身だ。飲めない訳ではない。だが緊急時対応のために自制する癖はなかなか抜けない。

 …まあ、もうそんな事も無くなったのだがな。

 酒の肴に領内で起こった小さな事件や、自警団の日常などを興味深く聞きながら、幼い時分には気づかなかった伯爵領の営みを知る。

 二足の草鞋……か。

 貴族の当主であっても王宮に出仕する人間は大勢いる。軍内で言えば元帥だって現役の侯爵だ。

 皆器用で頭が良いのだな。どうやってどちらも疎かにせず両立しているのだろうか。

 …両立できないならば、代わりがいない方を選ばねばならないのだが……。


「エドガー…後悔しているのか?」

 まるで私の心を読んだかのような台詞に振り向くと、父上が昔と変わらない穏やかな顔でこちらを見ていた。

「後悔…の起点が何処なのか分かりません。私はあまり考える事が得意では無いのです」

「はは、そうだったな。…私は何も後悔していない。お前が士官学校に入ったことも、軍人になったことも、爵位を譲ったことも」

「父上…」

「お前も後悔とは程遠そうだがなあ…。まあ自分の顔は自分では見えないものだし、うむ、仕方がない。お前はこのまま行けるところまで行くのだ」

「はあ……」

「よもや30前にしてなあ……。ぼんやりとはよく言ったものだ。ま、頑張れよ」

 …はっ?………は?


 さすがは母上の夫だ。何を言っているのか意味が分からない。

 だが分からないなりに妙な同情をされた事だけは理解して、酒盛り後に宛てがわれた部屋へと入ってみれば、ベッドにはスヤスヤと眠るレジーナがいた。


 ……飲むべきだった。

 前後不覚になるほど酔うべきだった。

 私の直近の後悔は……まさに今だ。





『10月6日 海風

 ちゃんと持って来たわよ!今日はすごく眠いのだけど、書きたいことも沢山あるの。何と言っても海よ!海!とても美しい青だったわ…。旦那様は子どもの頃海を見て過ごされたからあんなに素敵な瞳になられたのかしら。伯爵領に来てお母様が言った事がようやく分かったの。領地を豊かにするために社交に励むという意味が。さて、どうやってお役に立とうかしら。作戦……と思ったけれど、今日はもう無理みたい。』

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