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8月31日 前編

「メル、ちゃんとメモは取れた?靴屋は大丈夫ね」

「はい。滞りなく」

「じゃあ次はバートのパティスリー・ナダメールに行きましょう!元気でやっているかしら」

「……一昨日もお会いになったかと」


 東部での戦が始まって一か月以上が過ぎた。新聞を読む限りでは、戦況が難局化している知らせは無い。

 けれど実家でお父様とお兄様達の話をたびたび盗み聞きしていたから知っている。

 本当のことは記事にならないと。一般に知らされるのはいつも最後だという事も。

 


「レジーナ様、二日に一度町の様子を見ては何をなさっているのです?」

 王都中心部から少し離れた商店街。通りをゆっくり歩きながら立ち並ぶ店先の商品を目に映していると、メルから質問が飛んできた。

「まあ、メル。あなた分からずにメモを取っていたの?すごく器用ね!」

「…公爵邸の見習い期間中に鍛えられましたので。意味は分からずともとりあえず書いておけば、先輩方に同じ事を二度聞かずに済みますから」

 メルが左上方を見て苦々しい顔をする。

「……厳しい下積み時代だったのね。でもメルがいてくれて本当に良かったわ。私付きの侍女はほとんど誰も一年ともたなくて……」

 メルが静かに呟く。

「………良家の令嬢にレジーナ様のお相手は無理でございます」

「えぇ?わたくしとても常識人でしょう?今日もこうして店頭販売価格の調査を……」


 戦局うんぬんは、店に並ぶ商品の価格から読み取れると言っていたのは長兄のクリストファー兄様だ。

 クリストファー兄様はすごく頭がいい。将来の公爵家の跡取りとして、それはもう私やアーネスト兄様の受けた教育とは比べ物にならないくらい厳しく育てられたそうな。

 …でもいつもニコニコ笑顔で……あら、物凄く怖かった記憶しか無いわ。今は確か王宮で予算編成か何かの仕事をしているとかいないとか。

「クリストファー兄様が仰っていたのよ。時代の潮流に一番聡いのは商人の方々だって。戦が長引く時には買い占めがどうのこうのと……」

 

 メルが手元の紙を捲る。

「…アンティークドール、陶磁器、紳士靴……これらの店を覗いて、何か戦の参考になりましたか?」

「……ん〜…と…ふふ?」

 何の価格がどう動くのかまでは聞き取れなかったのよねぇ…。

「だからバートの所に行くのよ!この間だってお鍋の価格が上がってるって言ったら、バートが褒めてくれたじゃない」

「そうでしたか?『そりゃ一大事!新しい鍋買いに行かなきゃ!』…とメモしておりますね」

「………………。」

 賢い侍女を持つと大変よ。



カランカラ〜ン

 小気味良いドアベルが音を立てるお洒落な木造りの扉。開く前から漂って来る甘い香り。

 ここはパティスリー・ナダメール。

「いらっしゃ……あ、お嬢さん?今日もどうなさいました?」

 くるくるとした茶色い髪の毛を何とかコック帽に収めたバートが、カウンター向こうからキョトンとした顔を見せる。

「ごきげんよう、バート。やあねぇ、今日も…なんて。私とバートの間柄でしょう?面白い話を聞きに来たの」

「…価格調査はどうしたんですか」

 隣でメルが溜息を吐く。

「面白い話?お嬢さんの話以上に面白い話は無いでしょうよ。それより新作の……」


 バートが何か言いかけたところでカランカラ〜ンとドアベルが鳴る。

「あ、いらっしゃいませ!」

 入って来た男性に向けてバートが笑顔を向ける。

 仕事の邪魔しちゃ悪いわね……。

 適当に焼き菓子の棚から数点見つくろい、メルに目配せをする。

 畏まりましたとばかりにメルがサラサラと書き付けを起こし、店内にいた売り子に渡しに行った。

 …私もお財布が欲しいわ。

 お金を持って自分で払ってみたいのに、買い物はいつもこう。この間ドレスを売った時も、引き取りに来た業者が支払ったお金は何処かに行って、どこかを経てナンシーの元へ渡った。

 旦那様に相談してみようかしら。お財布を下さいって。

 まぁ……言えるわけないわね。


 くだらない事を考えている間にメルの支払いは済んだようで、扉の前で待機している。

「バート、また寄らせてもらうわ」

 軽く会釈をし店を出る。

 お菓子の値段も変わらないし、東部の状況はそんなに悪くないのかもしれない。

 そう思いながら一歩進んだ時だった。カランカランと音がして、先ほどの男性が店から出て来た。

「…おっと失礼、御令嬢、お怪我はございませんか?」

 まぁ!入り口でグズグズしていたのは私の方なのに、なんて紳士的な方……


 ふと顔を上げた時だった。

「…もしかしてアクロイド夫人では?」

 柔らかい声が私に降ってくる。

「ああ…やはりそうだ。帽子の影でお顔が見えなかったので先ほどは挨拶を控えたのですが、やはり御夫人でしたね。お久しぶりです。お変わりないですか?」

 長い黒髪を一つに結った、線の細い男性……

「まぁ…申し訳ございませんこと、どちらかでお会いしました?」

 あいにく線の細い男性には縁が無い。

 ……彼ほど、よ?旦那様も兄様たちも剣を扱う男性の体というだけで……

「おや、残念です。我々にご出資頂く話までして下さったのに」

 悪戯な目をして微笑むこの方……

「お、お姉様?花吹雪歌劇団の……!」


 にっこりと微笑む男性の死角で、メルが頭を抱えていた。

 





「うおー!帰って来た帰って来た!やっぱ王都が最高だな、エドガー!」

「……うるさい。本気でうるさい。うるさいと思い始めて二日経った。……黙れ!」

 

 想定外の早さで一旦軍を引いた東国。短期決戦を望んでいたのはお互い様だったという事だ。

「しっかし俺らを優先的に帰してくれるなんて、総司令官でも脅迫したのか?」

 なぜ帰りの馬車がアホのアンディと一緒なのか、溢れ出る文句で頭が痛い。

「…はぁ………。アンディ、お前が司令官なら我々第一師団に東部でこれ以上何をさせるのだ」

 そう問えばアンディが視線を宙にやり、何かを考えている。

「……農作業?」

「…今までご苦労だったな。なるべく頭を使わない部署に推薦状を出しておく。そうだな…確か軍馬の餌の管理人が足りなかったはずだ」

「え」

「お前はロープワークも帳簿付けも文句無しの腕前だ。…なんと、天職ではないか」

「はー!?」


 東国が軍を引いたのはあくまでも一時停戦に過ぎない。だがあれほど準備に時間をかけたのだ。一時は相当な期間になる。上はそう判断したのだ…と思う。

 アンディにはああ言ったが、実際は私も疑問に思っている。帰還命令があまりにも早い。



「しっかし今回の作戦面白かったな。河の中に簡易防壁を作るなんて、士官学校でも習わなかっただろ?小麦畑に黄色いイカダを隠すとか誰が思い付いたんだ?」

「…さあ」

「イカダの上に土嚢積んでこれまた黄色い布で覆ってさー。刈り取り終わった平野見た時の東国軍の顔!イカダ防壁が河に浮かぶ景色と言ったら……」

「…………ま、まぁ、よかったでは無いか。足止めの役割は十分に果たしたし、我々が全土から集結した甲斐もあったというものだ」

「な!イカダの後ろに数万の軍勢。…相手の司令官腹わた煮えくり返ったんじゃねえの?」

「…私が司令官なら……どこぞの異星人に文句を言うな」

「は?」


 …マクレガーが言っていた第ゼロ防衛ラインとはこの事。

 早く王都に帰りたかった事もあるが、どうせ留められるなら国軍を使って緑色の馬のような実験をしてみたかっただけとは言いづらい。

 だいたいポロッと溢した作戦がその場で採用されるなど普通はありえんだろう。毎度毎度我が軍は大丈夫なのか心配になる。

 …まあ、鎖で繋いだイカダに火まで付けたのはゲイルだがな。



 馬車が王都のメインストリートに差し掛かる。

 通りの左右に軒を連ねる様々な店。最近はほとんど買い物に出ることなど無いが、若い頃は意味も無くウロウロしたものだ。

 …いや、させられたというか……。

 なぜ女の買い物はあんなに長いのか。そして目的地が明確では無いのになぜ歩き出すのか。

 そうそう、ああやって店前で立ち止まっては入るだの入らないだの……

「…は?」

「どした、エドガー」

「と、止めろ!馬車を止めるんだ!!」

「え、は!?」

「…何だアレは!!」

「事件か!?事件なんだな!!」


 事件だと……!?

 そうか、事件か!ならば斬るまで!


 多分今日の私は10代の突撃兵より足が速かった。

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