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82話【日奈】あの子を助けて

※日奈視点です。

 ばさりと散った長い髪。

 雨を吸って色の濃くなったそれは、重く、日奈の首上に落ちてくる。


 戦国時代、それよりも前からずっと「女は髪を大事にするもの」という思想があった。

 こんなにも後先考えずに、乱雑に自らの髪を切る女がいると、そんな決意がこの小娘にあると思わなかったのだろう。

 一瞬の油断の間に、掴まれた髪だけを男の手の中に残して、日奈は地面を思い切り蹴っていた。


 来い、と差し出された手に向かって。


「信長……!」

「あはは、泥んこだなヒナ!」


 濡れたままでも、飛び込んだ腕の中があたたかかった。

 ここにいたい。ずっといたい。そう思えるくらいに。


 日奈(ひとじち)がいないのなら、あとは好きにできる。

 日奈が数歩走ったところで、後ろにいた織田兵達が、髪を持ったまま唖然とする男を槍と矢で貫いた。


 遠くから、今川義元を討ち取ったとの声が、弱くなってきた雨を遮る。


「よし、帰るか」

「信長!それより、帰蝶が、帰蝶が死んじゃう……!」









 青く、カサついた唇。

 真っ白を越して蒼かった顔色は少しだけ色を戻してはいるが、唇は普段の艶のあるものとは程遠い。

 両手と腹部には痛々しく包帯が巻かれている。

 清州城の自室で横たわった体は、息をしているのかあやしい程に細く頼りなげに見えた。


 幸い、腹部の傷は出血の割に浅かったそうだ。

 日奈には見えなかったが、帰蝶はあの時、日奈を庇いながらも相手に一矢報いようと体を捻って攻撃していた。

 手を怪我していたため相手の刃が受けきれずに来てしまったが、攻撃に転じていたためこの程度で済んだのだ。


 それでも、日奈のせいで怪我をしたことに変わりはない。

 間に合った光秀と夕凪がきちんと処置をしていなければ、あの場で死んでいた。


「ごめんね……ごめんなさい……ゆるして……」


 ゆるして。ごめんなさい。死なないで。


 日奈は侍女たちが止めるのも聞かず、夜通し眠る帰蝶の横で謝り続けた。


 そうして謝り続けた深夜。

 側仕えしていた少女達も休む為、全員控えの間へ移動したあとに、帰蝶がむくりと起き上がった。


 傷の痛みを忘れているのか、うつろな表情。

 視線は、日奈を見ていない。


「帰蝶!気がついた!?傷があるから、まだ起きちゃ……」

「あのね、困るのよ」

「……え?」


 日奈の声にようやく反応して、整ったかんばせがこちらを向く。

 ゆっくりと晒された、人形のように冷たい瞳。

 初めて彼女を見た時に、平面のゲーム画面ではなく立体は、本物はこんなにも美しく、背筋が冷えるものなのかと驚いた、あのつくりものめいた顔だ。


「帰蝶、だよね……?」


 帰蝶の瞳が夜空に似ていると思ったが、今の彼女に星はない。

 あるのは真っ暗な、新月の空だ。


 切れ長の目は(とばり)の中で刺すようにこちらを向く。

 怯える日奈の手を握ってくれるあたたかさは、そこにない。「大丈夫」と笑ってくれる“彼女”ではない。

 あの子はいつも、こんなに澄ました顔はしない。

 日奈に向けるのは、いつだって馬鹿みたいに大口を開けて、快活に笑う顔だった。


「もう一度言うわ。この体はね、わたくしがこの子に貸してるだけのものなの。だから、勝手に傷つけられるては困るのよ」

「その口調……ゲームの、帰蝶姫?」

「その言い方は無粋で嫌いだわ。人のことを架空の生き物(ヴァーチャル)みたいに。まあ、貴女(あなた)はよくやってる方だから、今回だけは見逃してあげる」


 ごく、と唾を飲み込み、一緒に帰蝶姫の言葉も飲み込む。

 とても大事なことを言われている気がする。


「貸してるって、どういうこと……?帰蝶は、こっちの帰蝶はどこに行ったの?」

「眠っているだけよ。気を失っている時にしか出られないなんて、初めてだわ。この子、案外意志が強いのよね。何度呼びかけても答えないし。人の話を聞かないって言った方がいいかしら」


 帰蝶姫は綺麗に姿勢を正して座ったまま、痛いはずの傷口を押さえようともしない。

 ただ「あーあ」と見下すような表情で、自分の傷ついた両手を見下ろしていた。 


「あなたの……せいで、全部」

「ああ、貴女は知っているのだったわね。別に誰に告げたっていいわよ。今までだって、誰一人信じる者はいなかったわ。それにこの世界はもう、あなたの知る世界と同じじゃない」

「全部、あなたのせいじゃない!架空の生き物みたいに思ってるのは、あなたの方じでしょ!体をあの子に返してよ!」


 日奈の知っているあの子は、皆に慕われ、必要とされていた。


 侍女の少女たちは傷だらけで帰って来た主を見て泣き、それでも気丈に世話を続けて側を離れなかった。

 夕凪と光秀はずっと、主を護れなかった自責から舌を噛み切りそうな顔をしていた。

 他の攻略対象者もそうでない武将も名前を聞いたことのない下男下女でさえ、全員があの子を心配していた。


 この世界に必要とされているのは、日奈でも帰蝶姫でもない、あの子だ。


「そのままお返しするわ。架空だ(バーチャル)と思って、わたくしの体(この子)や、他の者を殺そうとしていたくせに」


 ナイフのような言葉に、日奈も黙る。

 言い返せなくなった少女を見て、帰蝶姫はふふ、と唇をゆがめて笑った。

 まるで大人の女が幼女を言いくるめているだけのようだった。力の差が目に見えている。


「ああ、泣かないで頂戴。これでも、貴女達には期待しているのよ。しばらく手出しはしないわ……どっちみち、この子には伝えられないしね。だから貴女から伝えておきなさい。あまり傷をつけないように。この体はいずれ、わたくしに返してもらうのだから」


 帰蝶姫は一方的に告げ、その体を休めるように横たえた。

 整った長いまつ毛をおろし、閉じた瞼のかわりに唇をひらく。


 その声音は、囁き、歌うように。

 祈るように。


「これで、ようやく救われるわ……」

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