72話 稲生の戦いにて3(私を見て!)
「……本当は、あなたをぶん殴って撤退させようと思ってきたのだけど」
仕切り直しのため、コホンと咳払いをしてからゆっくり、ユキくんの前にしゃがむ。
袴に土がつくけど、どうせ戦場に出たら汚れるんだもん、気にしない。
そうして目線をあわせてもなお、ユキくんはびっくりして固まったままだ。
「もう殴る気はないわ。あなたのことを、知りたいと思う」
外ではまだ戦いが続いていて、私は丸腰で防具もつけていなくて、後ろには敵兵がいる状況で、なにを悠長な、と色んな人に怒られそう。
でも今回は、私は重要な役回りではないのだ。
私がここにいるのは、信長様や十兵衛が立てた作戦でもなんでもなくて、私が話をしたいから飛び出してきただけ。
信長軍の立てた作戦は、鬼柴田が出てきたら信長様が相手をする、というところまでだ。私が飛び出してここまで来たのは、私が女で戦力外だからできる。ただの勝手。
十兵衛と信長が好意で協力してくれたってだけ。
だから、「信行を懐柔しろ」だとか「撤退命令を出させろ」なんて、大事なミッションはない。
私は私のやりたいことをやる。それが私らしさだ。
「ユキくんは、信長様を排除して、尾張を統一したいの?」
「……あなたには、関係ない」
まだ少年らしさの残る顔は、反抗期の子供のようにむくれていた。
以前はきちんと、意地悪くとも礼のある言葉で話してくれたのに。私が無礼にも戦場で突っ込んできたせいか、10代の少年みたいな喋り方だ。
ずっとあった固そうなイメージが、少しだけ和らぐ。
「あるわよ。信長様は私の夫だもの。それであなたは、私の義弟だもの」
ユキくんの細い目が、少しだけ揺れた。
柔そうな髪に土埃がついていたので、手を伸ばして軽く払ってやる。抵抗はされなかったけれど、やめろと睨まれた。
普通なら被っていそうな兜をしていないのは、乙女ゲーム仕様だからだろうか。そういえば、信長や十兵衛もあまりつけていなかった。それでも死なないんだから、攻略キャラはいいわよね。
間近で見ても、彼はやはり兄とはあまり似ていない。
橙色の髪は兄と比べると色素が薄く、儚げな印象。
顔立ちは、派手で華のある兄よりもお父様よりも、桜に攫われそうな雰囲気をもつお母様に、よく似ている。
「どうせ、お前も兄上か周りの連中に言われて来たんだろう。その美貌で迫れば、真面目を絵に描いたような義弟なら懐柔できるとでも思ったか?それとも、妻を差し出すから兵を退けさせろと、そんなところか?」
「はあ?そんなわけないでしょう?信長様はそんな、妻に色仕掛けを命じるようなアホじゃないわよ。周りのみんなもね!」
冗談だろうが、ちょっと腹が立ったので眉をあげて抗議する。
ユキくんは自分で言ったくせに、私の反論にすぐにバツの悪そうな顔をして地面を見つめた。
乾いた土が握りこまれる。爪の中に入って痛そう。
「わかってるさ、……兄上は、人徳があるからな」
「え?」
「そうだ……いつだってそうなんだ。結局、僕がどれだけ頑張っても、何をやっても、皆、見ているのは兄上のことだけだ」
「みんなって、誰?それ、誰が言ってるの?」
驚いて、聞き返してしまった。
だって、信長様が、きちんと家族や家臣達から評価されていたことなんて、一度もない。
私が嫁いだばかりの頃なんて「あんなうつけにかわいそうに」と、まさかの那古野城内の人から言われた。
今は、新しく雇った若い人たちは、面白いことをする私や信長を慕ってついてきてくれる人が多いけど、それ以前からの家老達はいまだに白い目で見てユキくんと比べて馬鹿にするのだ。
評価が、二人の間で別々なのだろうか。
「誰がって……あんたもそうだろう。母上も、勝家も、他の家臣も。僕がどれだけ兄上よりうまくやっても、褒めてなどくれなかった。兄上の下につくのが嫌だから、御しやすい僕を立てようとしているだけだ。誰も、僕を認めてなんていない。見てなんていない。見ているのは兄上だけだ」
生まれた時から“兄”がすぐ上にいて、どれだけ“弟”が勉強ができても、刀や槍を上手く扱えても、家督を継ぐのは兄と決まっていた。
ただ比べられるだけだった。
なにをどれだけ上手くやっても、誰も褒めてくれない。
100点をとっても。1位をとっても。
もっとできる子はいるんだから、そんなことで自慢するなと言われた。
クラスの中でどれだけ速く走れても。
女の子だから運動はできなくていいと言われた。それから、運動は嫌いになった。
私は、前世で一人っ子だったけど、他の子と比べられて認めてもらえないことは、多かった。
お母さんにもっと、褒めてほしかった。
お父さんにもっと、私のことを見てほしかった。
古い傷口をえぐられる感覚をかき消すように、気がつけば私は、思いきりユキくんの肩を掴んでいた。
「なら、私が見る!」
「!?な、にを言って……あんただって、兄上がいなければ僕のことなんて」
「いいから!お母さんとかお兄さんが、じゃなくて、今話してるのは誰!?」
ユキくんの、オレンジみたいに丸くなった瞳が、私を映している。見てくれている。綺麗な色。
「あなたの目の前にいるのは、誰?」
「き、帰蝶……義姉、上……」
「帰蝶でいいわ。誰も見てくれないと言ったけど、それなら私が見る。“信長様の弟”じゃなくて、ちゃんと一人の人間としてあなたを見る。だから、あなたも私をちゃんと見て」
信長の妻じゃなくて、兄の付属物じゃなくて、ちゃんと私自身を見て、話しをして。
ユキくんと、前世の小さい頃の私は似ている。
あの時、誰か一人、「よくできたね」「えらいね」と褒めてくれたら、きっと、もっと救われたと思う。
失敗してもできなくても、見ていてくれる人がいるというのは、嬉しいものだ。
だから、私たちはうまくやれる気がするのだ。
「ユキくんは偉いよ!あんなお兄さん相手に、今までよく頑張ったと思う。私でさえ、最初はあまりのサイコパスぶりに何度殴ろうと思ったのかわからないもん!でも何度殴ろうとしても全部避けられるのが腹立つのよね!」
掴んだままの肩を揺さぶると、ユキくんは少しだけ、つられて笑った。
わかるわかる。
あの強さはもう、笑うしかないよね。
きっと、小さい頃にしたという兄弟ゲンカを思い出しているのだろう。毎回ユキくんは泣かされたと言っていた。
「今後、嫌なことがあったら私に言って。ぱっと解決は……できなくても、愚痴を聞くくらいはできるわ。家も近いんだし、信長様と違って私は出禁じゃないから、いつでもすぐに行けるから!」
ね、と訴えて、立ち上がる。
ついた土も払わずに、手を差し出した。
「友達になりましょう。きっといいコンビになれると思う」
私を、初めて遭遇した珍獣の様子をうかがうように見ていたユキくんだけど、しばらくして腰の土を払いながら、立ち上がった。
手が握られないこと、多いな、私。
それから指示を出して、私がその辺に脱ぎ散らかした防具を、兵に集めさせて渡してくれた。
「帰蝶殿、兄上のもとへお帰りください。兵を退かせますので、それに紛れて」
顔をあげたユキくんはもう、最初に見た泣きそうな顔じゃなかった。
迷子の子供の顔でもなかった。
「ありがとう。じゃあ、次に会ったら敵同士ね」
「最初から、あなたと僕は敵同士ですよ」
まっすぐ私を見据えるのは、覚悟を決めた男の顔って感じ。
友達にはなれなかったけど、戦友くらいにはなれそうだ。
「そうね。信長様のことが嫌いなのは変わらないだろうから、清州城が欲しいなら、いつでも来ればいいわ。でもその前に、私を倒さないと信長様の前には行けないわよ?」
「わかってる。母上や勝家がうるさいだろうけど、正々堂々と取りに行くさ」
防具をつけなおす時間はなさそうなので(決して一人でつけらないわけじゃないからね)、髪だけ紐でくくって上にあげる。よし、これで走って帰れる。
兵が退くのなら、さっさと帰らなければならない。
ユキくんのことはまだ心配だけど、外でまだ戦っている信長とみんなも心配だ。
天幕を出ようとした帰り際、最後にこれだけは言っておかないと、と思い出して、振り返り、見送りをしてくれようとしたユキくんに笑いかけた。
「でも、信長様は天下人になるひとだからね!」
相当頑張らないと、あの魔王は倒せないぞ、という牽制だった。んだけど、ユキくんは私の顔見てぱちぱちと瞬きをする。
髪と同じ色の睫毛は長い。
もしや、このひとも攻略対象者なのかな。
ずっと信長と比べてしまっていたけど、個人として見るようになって気づいた。
とても、整った顔をしている。
あ、瞳の形が、信長に似てるんだ。
「……あんた、いい女だな」
「ファ!??」
瞳の形がわかるくらい近くで言われて、思わず吹き出してしまった。
言った方の本人は、なんの音だよ、と変な顔になっている。
たぶん、私の方が変な顔をしているだろうけど。
「いや、あ、へへ……そんなこと男のひとに言われたの初めてだから、照れちゃった。ごめんね」
いや~、まさか、あの真面目で大人しいユキくんが冗談を言うとは。
でも、仲良くなれたってことかも。たぶん、お褒めの言葉だしね。
さっき私が力強く褒めたことへのお返しだろう。
天幕を出ると、控えていた十兵衛も変な顔をしていた。
うわ、全部聞いてたなこいつ。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
ユキくんはもう少し出ますが、結末は史実と変わってしまうかもしれません。
日奈さんが稲生の戦いについてどう考えていたのかも、次回以降に出していきたいと思います。




