143話 ピクニックへ行きまして3(これは誰かの昔話で)
父と会えるよう取り付けるのは、苦労した。
長良川での戦以降死んだことになっている父とは、もう二度と会わないつもりだったし、会ってはいけなかった。兄達も同じ心づもりだったのだろう、誰も父の居場所を知らなかった。
それでも私は、どうしても聞いておきたいことがあったのだ。
私が明智光秀になるために。
「はっ、すみません、父に似ていたので」
「かまいませんよ。儂も、娘に似ていたので、思わず呼んでしまいましたわ」
ほっほっほ、と和尚様がしそうなおじいちゃん笑いで、父は口元の薄い髭を揺らす。怖めの顔は相変わらずだが、全体的にすっかりおじいちゃんだ。仏門に入って丸めたのか単に禿げたのか、つるりとした頭の下の顔には、いたるところに深い皺が刻まれている。怪談に出てくる廃寺にいる和尚みたい。
互いに面倒なことにならないよう、私達は今は偶然会った知らない者同士だという設定で話さなければならないのを思い出して、慌てて居なおした。
「失礼。……ええと、娘さんはお元気ですか?」
「ええ。昔から、突拍子もないことをして儂らを驚かせる子でしたが、最近は男になる等と言い出して。本当に、突拍子もない娘です」
「そう、ですか……どうして、娘さんは男のふりをすることにしたんでしょう」
「どうやら、兄弟が死んだので、その代わりをすると言うのです」
老人は、チラリと私を見て、目だけを細めた。私と同じ、切れ長の目。それはやはり、あの子と似ていた。
「昔話をしましょうか。ある、しがない油売りの男の話です」
これは誰かの昔話で、父の話ではないことを、はじめに断っておく。
油売りをしていた男はある日、商売の途中で美しい娘と会った。まだ顔に幼さの残る娘は、実はこれからある武家にお嫁に行くのだと誇らしげに話す。まさか本当にお姫様だとは思わず冗談と取った男は、それに軽口で返した。けれど幼さの中に気品を漂わせる娘に、男は少しだけ想うところがあった。
それからしばらくののち、男は娘と再開した。不思議な縁だと思った。娘は本当に、武家の正室になっていた。そして、女の方から、新たに別の縁を結んでほしいと頼まれた。
輿入れして何年も経つのに、子が成せないと。このままでは、弟夫婦に城を取って代わられると。
同情だったのか、密かな想いを思い出してしまったのか、男は女を抱いた。
まさか一度で子ができるとは思わなかった。
季節が巡って、そんな出来事をすっかり忘れてしまった頃に、雪の中で戸を叩く者がいた。
それは女の乳母だった。乳母は、その胸に生まれたばかりの女の赤子を抱えていた。話を聞くに、あの日授かってしまったのは男女の双子で、男の方は世継ぎとして残したいから、女の方を処分してほしいという。
なんとも、身勝手なことだと思った。面倒事になる前に、言われたとおりに密かに処分しようとした。
だが、出来なかった。
「どうして?」
責めるように聞いてしまって、軽く唇を噛んで止める。
それでも老人は、私を見て笑った。目と口元に、皺がぎゅっと寄る。
「眠る赤子の顔が、あまりに自分に似ていたので……」
頬にまですべて、隠せない皺がいくつも浮かぶその顔は、父親の顔だった。もともと武士っぽい人ではなかったけれど、もう、かつて美濃を納めていた武将だと言われても、誰も信じないだろう。
「私は、兄弟を殺してしまったのですね……」
隣で静かに聞いていた日奈が、私の服の裾を握る。彼女の意図はわからないけれど、ただ喉の奥が引きつるように渇いた。
「あなたの兄か弟は、そうは思っていないでしょう。あの子は、自分の半身を護ることを父親に誓った。だから儂も、あの子に託した。あの子はずっと、自分自身を誇れなかったのだ。誇れるものを探していた。それが、小蝶だった。片割れを愛することで、自分を愛せたのだ。小蝶を護ることができたのなら、それがあやつの本懐だ」
「……そう、だけど」
「お前に出来ることは、もうそれが出来ないあの子にかわって、自分を護りきること。それがあの子が成したかったことなのだから」
日奈の細い指を、握り返す。
今までも、思うところはあった。帰蝶姫が「懸想するな」と言ったのはこのことだったのだ。
母も、一部の斎藤の重臣達も、兄も、私達二人が並んでいると時折怪訝な顔をした。
私達は心のどこかで、互いに「絶対に結ばれない」と気づいていた。
「けれど、捨てられるはずだった娘を庶子ではなく嫡子として育てるなんて、よく母が承知しましたね」
「……実は、あやつから言ってきたのだ。これ以上子は望めない。だが、正室から産まれた姫は、今後必要となるだろうから、取っておいた方が良い、と。数日前に女児を死産したのも、理由のひとつだったろうな……」
「母上は、わきまえた方でしたからね……」
だんだん自分たちも、どちらの設定で話しているのかわからなくなってきた。
父と娘。父と息子。
何も知らない老人と少年。
泣きそうに冷たくなってくる鼻を抑えるために、私は聞きたかったたくさんのこと、どうでもいい話、ぜんぶ振った。
「その、油売りが出会ったお姫様は、どんな人だったのですか?」
「あなたに良く似ていましたな。初めて会った日に、突拍子もないことを言われました。“そちは油売りをやめて、武士になった方が大成するぞ”と。あの方の声があったから、男は武士になったのですよ」
この回答には少し、恋慕のようなものが見えた。父のはじめて見る顔だった。母上が亡くなっていて、この顔を見ることは一生ないのだと思うと、その事実には安心した。
いくつか問いを返すうち、最後に父は懺悔のように、ぽつりと語る。
「本当は、彦太郎が来た時に、追い出そうと思ったのだ。だが、手を繋ぎ笑いあうお前達を見て、気が変わった」
「どうして?」
それは、誰かに謝っているような、でも本当は、それを誇っているような声。
「お前達は、引き離すべきものではないと。お前達は、もともとひとつなのだから」
十兵衛の声を、耳の中で思い出す。
人は会わなくなると顔よりも声を先に忘れてしまうらしい。
顔と存在は、これから私が光秀としてやっていくので、その間は忘れられることはないだろう。でも、声までは無理だ。
私は、この声もいずれ思い出せなくなるのだろうか。
ずっと一緒にいると、言ってくれたのに。
「遅れて申し訳ございません。まあ、彦太郎様かと思いましたら、小蝶様。ご立派になられて」
弾かれたように声の方へ向くと、そこには母くらいの年齢の女性がいた。
皺のある口もとは、泣きたくなるほど綺麗な笑みを携えている。懐かしい、鈴のような声。年齢を重ねて低くなっていたが、その耳に心地よい響きは変わらない。
「すずかぁ」
鈴加は別れた時の淑やかさは変わらず、けれど随分と歳を取っていた。父と鈴加は、物語から外れたせいでモブ認定されてしまったのだろうか。いつまでも子供のような私とは違い、二人はきちんと進んでいる。
その、母のような包容力のある懐に飛び込み、私は泣いた。
日奈が見ているとか、この格好では外聞が、とか、もう考えれられなかった。
次話は明日更新予定です。