139話 君を生かすためにできることすべて1
大事な話をするときに妻を連れてくるところ、とでも決めているのだろうか。
互いに無言のまま着いたのは、いつか、離縁を切り出されたデートコースの最終地点だった。
那古野城から少し下りて森を抜ける。城下町が一望できる絶景地……というほどではないのだけど、落ちたらちょっと痛そうな崖の上には他に高い木がなく、空がとても広く見える。
後に聞いた話では、幼少期に、彼はよく城を抜け出してここで遊んでいたそうだ。弟や乳兄弟にも嫌われていたから、一人で。遊び相手もなく、何をして遊んでいたのだろう。
気を遣ったのか単純に置いて行かれてしまっただけか、日奈は後ろへついて来なかった。信長は基本、女の子の歩幅を気にしない。女の子以外の歩幅も気にしない、と、秀吉くんも文句を言ってたっけ。
とぼとぼと後ろを歩いていると、開けたところで草の上に腰を下ろしたので、私も横へ続いて腰かける。
気持ちのいい場所だし、ここなら汚れないから、最期の地をここに決めるのもいいかもしれない。
たとえば「命を大事にしろ」とか、「そんなことしてもあの人は喜ばないとか」、言われるだろうセリフはもう、私の中でいくつも考えついている。
そんな言葉、誰に言われてももう響かないだろうな。
決めたのだ。私があの子のためにできることをやる。
だってあの子は、私のせいで死んでしまったのだから。
「ねえ信長様、さっきの私の話、わかった?」
「いや、わかんねぇよ。お前達の話はいっつもわかんねぇだろ」
こちらを向かずに、信長は手元の草をぶちりと千切って風に乗せた。
怒ってはなさそうだけど、何を思っているのか、相変わらず奥がよく見えない人だ。
日奈と話をする前に、きちんと報告と部下を失った謝罪はしたのだけど、その時も彼は表情ひとつ変えなかった。
彼は、十兵衛のことを聞いてどう思ったのだろうか。
私への怒りを覚えただろうか。ただ悲しんだだろうか。
「ジイには何度も言われたけどな。理解されないのは孤独なものだ。理解者を得たいなら、俺が周りを理解しろ。ってさ。俺は別に、理解者なんていらなかったんだけどな。だって俺には、お前達がいたし」
私が反応に困ると、彼は一呼吸置いて続ける。
「お前と、ミツがいればよかった。俺はさ、あいつのことが好きだったんだよ」
信長はそれを、淡々と言う。
私を責めるわけでもなく、ただ事実を述べているだけという声色で。
彼が十兵衛を好いていたのは知ってる。
いつだって、信長の隣には涼し気な顔をした彼がいた。言葉にしなくても態度は変わらなくても、喧嘩ばかりしてても。認めあい、互いを大切に思いあっているのだろうと私にはわかっていた。十兵衛は男に対してはあまり素直じゃないから、信長のことを褒めたりはしなかったけど。
「俺に本気で牙をむいたのは、お前と、ミツだけだった。他のヤツらは多少手加減したり、気後れしたりするもんだけど、お前達にはそれがなかった。お前達になら、出来ると思ったんだ」
「何を?」
私の問いに対しての答えはなく、かわりに、ぐい、と背を引き寄せられた。私の上半身は転ぶように前のめりになり、信長の胸にぼふりと落ちる。
背に回された腕に、安心するぬくもりを感じて、ゾ、と震えた。
慰めようとしているのだ。彼は、いつもならこんな風に長く話さない。妻を抱きしめたりしない。
彼なりに、私に前を向かせようとしているのだ。
そんなの、嫌だ!私はそんなの求めてない!
べり、とはがれる音がする勢いで体を離す。それでもやはり、目の前の彼は怒ってはいなかった。ただ無の色を宿した瞳が、景色も映さず私だけを見ている。
「言っとくけど、お前を慰めようとか前を向かせようとか、思ってないからな。俺は知りたいんだよ」
「な、何を……?」
「お前、あいつが死んでから泣いてないだろ」
言われて、泣くもなにも、自分の顔の筋肉が信じられないほど強張っていることに気づいた。ぺた、と頬を触る。固い。
みんなに迷惑かけないよう笑って対応していたつもりだったけど、私、こんな固い顔してたの?
帰蝶姫の前では泣いた覚えがある。目が覚めてからは、どうだったろう。覚えていない。急いで引継ぎをしなきゃと思ったし、戦の処理で忙しかったから。
「さっき見たら他のヤツら大変そうだったぞ。イヌのヤツは報を受けた途端泣きまくるし、ヒナも俺の顔見て泣くし、サルのやつもうるせぇし。お前の忍びもでかい声で泣くし。なのにお前は、なんでそんな面白くない顔してるんだよ。お前のせいで死んだのに。ジイの時は泣いてたじゃないか。どうして泣かないんだ?泣いて謝って、寺にでも入るって言うのが普通だろ?なんでそうしないんだ?なんであいつがいなかったみたいに扱うんだ?」
なんでなんでと詰め寄られるのは、少々怖い。
この顔のいい男子に見つめられ目力のある視線に射抜かれたまま言葉で刺されたら、耐性のない人ならその場で死んでいる。
というか、こんなに一気にたくさん喋る信長、本当に初めて見た。いつも、聞いたって説明をしないのだ。自分だけがわかっていればいいと思って進むタイプだから。それが、変わった?それとも、私にだけ?
この燃えるような視線に慣れたはずの私も、さすがにのどが渇いてカラカラと音を立ててきた。
「それは……、私が、あの子の生になるからよ」
「なんだそれ。お前が死んだらあいつが戻ってくるのか?」
「そうよ。信長様にはわからないでしょうけど、この世界はそういうものなの!私がここで出来ることはもう何もないの!最初から、何もしない方がよかったのよ。流行りの“何もしない”をしていれば、スローライフでもしていれば、こんなことにはならなかった。私が余計なことをしたせいで、十兵衛は……」
信長がもう一度、黙ったままぐるりと腕を背に回す。暴れて逃れようとする攻防はあまり意味がなく、面倒になって諦めると、捕えた獣にするみたいにホールドされた。
生きているものは怖いくらい、あたたかいのだ。
背負った背のぬくもり。
少しずつ、消えていった。
流れる血が私の着物にも染み込んで、熱のある、生きた人間のものだったそれが、どんどんただの水のように冷たいものになっていった。
本当はあの時わかっていたのだ。もう戻らないことを。
「なんだ、やっぱ泣くんじゃねえか。そうだよ、その方がスッキリするだろ」
「スッキリしたらだめなんだって~~」
「なんで」
「だって、わたし、死んでおわびをぉ……」
「ミツと同じこと言ってるな」
喉から音を立てて笑われて、私はぼたぼた出る涙を信長の着物の袷のところで勝手に拭いた。あと鼻水もちょっとつけた。
慰めはいらないと示したはずなのに、慰めなんて与えないと言ったはずなのに、この人は勝手だ。
「よし、蝶」
今度はなにを思いついたのか、信長は予備動作なしに立ち上がり、私を見下ろす。残された私は体の支えと涙拭きが突然なくなって地面に手をつくしかなかった。
彼は王だった。
私は、いつも傅くだけの存在。
「お前、明智光秀になれ」
「………………へ?」