136話 「おかえり」と「ただいま」をして
※前半は雷鳴視点、後半は帰蝶視点です。
月明りから逃げるようにして、少年は走った。
うつくしい女。この世のものとは思えない、薄ら寒くなる美貌の女。
夜空の色を映した蔑むあの目、同じだった。
なにも出来ないのかと、簡単な命令すら完遂できないのかと、落胆する目。
逃げ戻ったと笑われるのはもう、慣れた。ただ死にたくなかった。まだあいつに会えていない。
幸い、あの目の女に負わされた腹の傷は浅かった。毒の方は、たしかに解毒薬はなかったが、なぜかあの女から離れた途端、体が楽になった。その理由は、雷鳴には終ぞわからなかった。
『ぺらぺら余計なことばっか喋ってねえで、もっと考えて使え。自分の命を、だ』
雷鳴には、両親も友人も師もいなかった。
衣食住を与えたのも、名を与えたのも、武を教えたのも、あの男だった。
彼は雷鳴にとって主であり、師であり、親であり、友だった。
朝倉へ戻るのは気が引けて、そのまま傷の処置をしてから、まっすぐに主の元へ戻った。罰してもらおうと思ったのだ。
「死ね」でも「出ていけ」でもなんでもいい。次の命が欲しかった。
「お、おれ、負けた……」
「あ?負けちまったのかよ。仕様がねぇ奴だな」
報告のため部屋へ入ると、顕如は静かに書をしたためていた。さらさらと動く手を止めないまま、雷鳴に一瞥すらなかった。想像していた、雷鳴が失敗した時には必ずある叱責も罵倒はなく、拍子抜けしてしまう。
巫女に逃げられたことも、朝倉が勝ったことも、すでに耳に入っていたのだろう。雷鳴の報告する戦況や結果になど、まったく興味を持っていないようだった。
続く言葉を待つが何も得られないので、雷鳴は自ら続ける。
「変な女にも逃げられたし、殺しもしちまった……」
「帰蝶をか?」
「……しらねえやつ。十兵衛とか呼ばれてた」
殺しの部分で引っかかったのか、顕如は動かしていた筆をぴたりと止めて名を聞いた途端、驚きの混じった顔をあげた。
「明智十兵衛光秀か!」
いつも不機嫌そうに眉根を寄せている、彼の感嘆をはじめて聞いた。
あの男が明智の者だったかは、雷鳴にはわからない。ただ、急所へ深々と刃を突き立てた。雷鳴が逃げた時点でかなりの出血量だったので、生きてはいないだろう。
そう報告すると、顕如はやはり嬉しそうに雷鳴へ向いた。
「なんて顔してんだよ。お前、今まで俺の三つ出した命令を一つくらいしか満足にこなせなかったような奴が、初めて俺の命令以上のことをしたんだぞ。誇っていい」
ぽす、と、頭の天辺を押されて、正座をしていた雷鳴は慌てて顔を上げる。
頭の上には、大きな手のひらが置かれている。
その上で顕如が誇らしそうに、笑っていた。
「……う、うわあああああああん!」
ぼろぼろ溢れる涙をそのままに、喉奥から出る声も勢いのまま吐き出した。大声を出すと腹の傷が刺すように痛んだが、止められなかった。
顕如はうるさいと言わんばかりに片耳を指で塞ぐ。
「お前、本っ当、雷様みてぇにうるせえな。これだから、下につけるなら声を持たねえ奴の方がいいって言ってるんだよ」
「つぎは、次はぜったい勝つ!帰蝶のやつ、ちゃんと殺す……!」
「期待してるぞ」
まあ、次に会う時は、お前の知ってる帰蝶はいないかもしれねぇけどな。
顕如の言葉は、雷鳴には相変わらず難しく、理解できなかった。
*******
「あ、日奈~ただいま~」
「帰蝶!大丈夫なの!?」
十兵衛を背負って山を下りて、織田の隊と合流して、私達は岐阜城まで帰ってくることができた。
傷の手当てやら残った子達から戦のあとの処理を聞いたり指示したりとバタバタして、休ませてもらおうと自室へ向かう途中の廊下に日奈が立っていた。ついて来ようとした侍女達は全員振り切ったので、廊下には今のところ二人きり。
日奈はとても久しぶりに、あの制服を着ていた。茶色のブレザーは、なんだか見ると懐かしくて落ち着く。
お疲れ様、の意味を込めてふんにゃり笑うと、日奈は逆に顔を強張らせた。
「怪我は私は軽傷だし、秀吉くんは寝かせてきたわ。それより日奈、その制服着てるなんて珍しいわね」
「だって、借りた着物汚れちゃったし、帰蝶もいないのに勝手に新しい着物借りるのも気が引けて、私の服ってこれしかないし……じゃなくて!」
ぶん、と振った顔の、大きな瞳には涙が溜まっていた。
肩をぎゅっと掴まれる。少し傷が引きつれて痛いけれど、そのままにしておく。
「光秀様、嘘だよね?」
日奈もだいたいのことは聞いているのか、周囲の反応から、何があったか察しているらしい。
下山してすぐに十兵衛を見せたお医者様には、首を横に振られた。信長達が戻ってきたら報告するつもりだけれど、まだなるべく多くの人に公言しないようにしてもらっている。
私も信じられないし、間違ってると思う。
「……こんな途中で、死ぬことってあるの?」
「わ、私が知ってる中ではないよ!金ヶ崎の戦いではたしかに負けるけど、明智光秀は死なないし、ゲームでもどんなに友好度が低くても死ぬシナリオはない!死ぬのは最後の、山崎の戦いの時だけだよ……」
そうよね、と、日奈とは反対に呑気な声を出して、私は彼女の細い肩を叩いて進んだ。
ぽんぽん、と、同じリズムで軽く足を出していく。
「帰蝶姫に、会ってくる」
「どうやって?」
山を下りきったころ夜が明けて、お日様はだいぶ高いけれど、方法はこれしか思いつかない。
「寝る!!!」
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