135話 月と星のない夜を経て
※流血描写があります。
***
むかしむかし、私とあのひとはひとつだった。
ずっと隣にいた。
ずっとそばにいた。
ずっとともにいた。
今でもまだ、目を閉じれば思い出せる。
あのひとは子どものような顔で泣きじゃくって。後悔し続けていたから。だから救ってあげたいと思ったのだ。
これが純粋な願いか、神聖な祈りか、醜悪なただの欲望なのかは、今でもわからない。
それでも、だいじょうぶ、ずっといるから。
だからもう泣かないで。
その手をにぎっていてあげるから。
***
秀吉くんに処置されながら座り込む十兵衛を見て、愕然とした。しばらく声が出なくて、唇から冷たく感じる息を吐き続けてそばに駆け寄る。
十兵衛は傷だらけだった。
腕も、顔も、首も手も胴も、見えるところすべて、斬りつけられた無数の傷。腹部に当てられたばかりの白い布は、当てたそばからみるみる真っ赤になっていった。
膝をつくと、地面がびちゃ、と濡れた音を立てる。これが全部彼の血なのか、怖くなって、顔が見れなかった。
「なんで、なんでこんな無茶したの!!」
こんなに斬られて、周りがすべて染まるほど血を流して。無茶をするとは聞いていたけど、これはしていい無茶ではない。
私も布を当てて傷口を縛るが、押しても縛っても、流れ出るものが止まらない。
「言ったでしょう……貴女を失うくらい、なら、した方が、いい……と」
充満する血のにおい。じいやさんの、笑った顔。
掻き消すために、ぶんと首を振った。泣きそうになったのをごまかすためでもあった。
私なんて要らないんだよ。本当に必要なのは、悪役令嬢じゃなくて、ヒーローなんだから。
どうしよう。どうして私にも誰にも、回復魔法が使えないんだろう。
こういう時どうすればいいの?止血?傷口を縫う?だめだ、どう見ても傷が内臓まで達してる。どうやって治療したらいいか、わからない。
戦場に出る前に、医者や武人の先輩方から一通りの応急処置方法は習ったけれど、どれも斬られたら縛るとか折れたら添え木をするとか、簡単な民間療法みたいなものばかりだった。私が前世で習った処置方法のほうがまだマシで。
私じゃなくて、お医者さんや看護師さんが転生したらよかったのに。
帰蝶姫はどうして、自分に入れる魂を私なんかにしたのだろう。
私はなにもできないのに。
何度も味わった無力感が、絶望の色と混じって舌の上に広がった。苦くてカサついて吐きそうになるそれを、飲み込む。
「秀吉くん、とりあえず応急処置したら十兵衛抱えて走るからついてきて!」
「姫さん、でも」
「私は毒あんまり効いてないから、山下りる体力くらいあるから、だから大丈夫だから、ね?」
はやくお医者さんに見せてあげるから、大丈夫だから、と繰り返す。
十兵衛は大丈夫だから。だって攻略対象だから。明智光秀だよ?きっとパッケージの中央にいるよ。キャラクター紹介だって二番目だよ。髪はサラサラだし、瞳はクール系で綺麗だし、黙っていたら氷みたいに美人なんだから。メインキャラなんだよ。死なないよ。死なないよ!
「だめ、いやだ、いやだよ」
血が止まらない。
どんなにぎゅうぎゅう押さえても、私の指の間から生ぬるいものが流れていってしまう。
俯いていた睫毛の間から、ぽた、と曲げた指の関節に雫が落ちた。一瞬血が流れ落ちたけれど、すぐにまた赤に染まる。
「ひとりに、しないで…………」
零してしまって、つられて出てきた涙を、あたたかい手で、拭われた。
背を引き寄せられて、そのまま腕の中へ包まれる。
背に回される腕は長くて、手のひらはしっかりと大きくて。
父のように兄のように、守ってくれる手だ。
「十兵衛、傷、開くから、動かな……」
「ねえ……、名を、呼んで……」
耳元で少年のような、囁く声が聞こえた。
ひどく掠れたそれに十兵衛、と答えようとして、違うと留まった。これは彼の名ではない。
「彦太」
両手をのばして、彼の後頭部へ回す。しがみつくように、縋りつくように。傷から出る血を止めたくて、抱きしめた。
彦太郎を殺さないで、と、駄々をこねたあのときと同じだった。
私はまた駄々をこねて、ただ泣きわめくことしかできなかった。
なのに彼だけは大人で、なにもかもわかったような、だけど私のことが好きだって、一緒にいたいって顔をして、謝るように続けるのだ。
だから私はあの時、彼を救いたいと思った。ずっと一緒にいたいと、思ったのだ。
「大丈夫だよ、小蝶……いるから、ずっと、ともに……」
神様にゆるしを乞うように、彼は少しだけ体を離して、私の頬に両手を当てて、それから、
「ずっと、一緒……」
私も同じように手を当てた。十兵衛の体は、頬も手も指もあたたかい。流れる血も。
血のにおいのする吐息を飲み込んで、互いの血濡れた手のひらで、私達はただあたためあうように瞳を合わせ続けた。
長い時間に感じたけれど、実際には少しの間。動けなかった私達の間に冷たい風が吹いて、木々の葉が囁きに似た歌を唄う。その向こうで秀吉くんが、咎めるように私を呼んだ。
このとき、私の中でひとつ、答えが出たような気がした。
空にはもう月も星も、見えなくなっていた。