134話【十兵衛】長い長い、夜の果て
※十兵衛視点です。
※残酷、流血描写あります。
帰蝶と秀吉に提案したのは、「自分が黒猫の動きを止めるから、二人がかりで攻撃をしてほしい」といった、策とも呼べないお粗末なものだった。
帰蝶は焦った表情で了承し、秀吉は、おそらく何かに勘付いて固めた顔で頷いた。
黒猫の動きは、夜でも月明りのおかげで見えなくはないが、追いつくことができない。動きを止めるといっても、簡単にできることではなかった。
ならば、無茶をするしかない。
帰蝶と猫の間に滑り込んで、一撃、二撃を刀で捌く。行儀が悪いと、かつて作法を教えてくれた乳母が見たら卒倒するだろう角度で蹴りを出す。このくらいはすべて避けるだろうと予想した通りに避けられて、その後来るであろう腕を狙うために、刀を投げ捨てた。
女性のような細い腕のどこにここまでの力があるのかわからないが、黒猫は両手で掴まないと、止められない。
大きな、それこそ猫のようにぎょろぎょろと動く目を見ていれば、どこを狙っているかはわかった。
繰り出された腕には、短い刃が握られている。
その動きのまま、誘うようにして、その刃を自身の腹に入れた。
急所から逸らせるつもりだったが、腹にずぐりと肉を掻き混ぜられる嫌な感触がある。それでも、ここまで誘い込めたのならば離す理由はない。
狩りをするとき、素早い動きの動物を捕まえられる機があるとしたら、その動物が狩りをする瞬間だ。獲物をとらえたと確信した瞬間は、どうしても油断が生まれる。
さらに牙が獲物の肉に食い込んだ状態ならば、動きを容易に止めることもでき、反撃もされない。
帰蝶や秀吉にこれ以上傷を負わせずに済ませるには、これしかなかった。
あの二人は、これ以上毒を食らっては、山を下りれない。
朝までに下山できなければ、朝倉に見つかって終わる。それだけは、させない。
「やっと、捕まえた」
「おまえ……っくそ、死ぬ気のやつかよ……はなせ!はなせよ!!」
死ぬつもりはなかったけれど、この命は彼女のものだから、彼女が生きるために使えるのなら、それで構わない。
僕にしては珍しいと、皆は驚くかもしれないけれど、このあとの策は、なかった。だから、この腕を離さない。
彼女なら、なにかをしてくれる。
彼女はいつも、誰も考えない答えをくれる。
だから彼女が答えを出すまで、僕は足止めをするだけだ。
四肢に力を入れると、刺さったままの刃を伝って血が足元まで流れる。気持ち悪い感触に、噛みしめた歯の奥でまで血の味がしてきた。
ぐ、と飲み込んで堪えれば、あの凛とした声が聞こえて来る。
ほら、と見上げれば、全身が震えるほどうつくしい蝶が立っていた。
少女の身体に、大人の女がいるようだと、誰かが言った。
僕を生かし、そして殺す者だと、かつての重臣は教えてくれた。
射殺す瞳を向けた彼女は、月光の中でそれでも日と同じ色を携えていた。
彼女は星だと言った者がいた。
彼女を夜空と例えた者もいた。
それはどちらも、違うと思う。
猫は怯えたような目をして、震えていた。刺さったままの刃が、内側で震えを伝えてくる。
思わず、笑みがこぼれたので、口端を歪めて言ってやった。
「諦めろ、あの方に魅入られたら、終わりだ」
弾かれたように僕と、帰蝶を交互に見て、黒猫はがくりと膝を折る。共に体内から刃も抜け落ちた。
その後も帰蝶に畳みかけられて、猫はただ暗闇の中で迷うように鳴いていた。
この者は駄目だ。殺意はまだあるが、戦意をそがれてしまった。
帰蝶は猫を見下ろして、それはうつくしく、冷たい笑みで語りかけた。やさしく残酷なお伽噺でも聞かせるように。
「なんで、あいつが……、あいつと、おなじ、……」
辺りが暗闇に染まった瞬間、吐息を口内で混ぜるようにして呟き、そして、猫は逃げだした。
一緒に全身の力が抜かれたように、膝が落ちる。足元の草と地は、自分の血で驚くほど濡れていた。
秀吉が、自らの怪我も顧みず、手当に向かってきてくれたが、これはもう駄目だろうなと自覚した。
見上げた空には、先程まで背筋の冷えるような女だった人ではなくて、まるで親を失った少女のような顔の子どもがいた。
やはり、星でも月でもなくて、彼女は光なのだ。
眩しいそれに目を細めて、近づいた細い背を抱いた。
幼い頃からずっとずっと欲しかったものを、この果てまで来てようやく手に入れられた気がする。
瞼の奥が、チリリと熱く、痛んだ。