131話 金ヶ崎の退き口にて4
※流血表現があります。
首に噛みつかれたような感触に、ぞっ、と背筋が粟立つ。
怖くなって私は自分で、がくんと膝を折った。
突然支えのなくなった体はするりと黒腕から抜け落ちて、斜面を転がる。
その先に秀吉くんがいて、草だらけの私の身体を支えてくれた。
「秀吉くん!ケガ大丈夫なの!?」
「いいから、姫さん、暴れないでくださいっスよ!?」
暴れるな、と言われたのでそのとおりに大人しくすると、切られた首に吸い付かれた。
片腕で処理をしたのだろう、目の前にある肩は雑に巻いた布を血に染めている。腕を伸ばしてとキツく縛り直すと、秀吉くんは少しだけ呻いて、すぐに離れた。短い音を立てて、口に含んだ私の血を地面に吐き出す。
「また毒?」
「はい。でもその解毒薬は無駄っス。塗られてる毒が今までのと違うんス。でも気休めにはなると思うんで、一応塗っといてください」
急いで取り出した薬壺は、自分には要らないから、と手で押し返された。秀吉くんの息が不自然にあがっている。あまりよくない状態に見える。
見れば、黒猫は十兵衛を押しながらものすごい速さでクナイだか短刀だかを振り回していた。なにしろ、夜になってしまったこともあって余計に見えないのだ。
「ヒヒヒヒッ!今ごろ気付いたか!?おれがなにもしないで休んでたかと思ったかよ!?もう解毒薬なんか持ってねえからな!じわじわ苦しめ!そんで苦しんで苦しんで苦しんだあとに、殺してやる!!」
「っ、逃げます!」
彼の大好きなおしゃべりで緩んだ合間に、十兵衛は煙玉を放ってこちらへ走った。張った布の切れる音がして、場に白煙が広がった。
暗闇の森で煙玉は意味がないけれど、一応、目と鼻が良すぎる黒猫の足止めは出来たようだった。
「走れますか?」
「私は大丈夫だから、秀吉くんに手を貸してあげて!」
「なんなんスかあいつ、強すぎでしょ……」
自分たちも煙に飲まれながら、急いで下を目指す。空も方角も見えないけど、降りてるか登ってるかくらいはわかる。少しでも、一歩でもはやく下山しないと。このままじゃ、雷鳴を倒す以前に毒が回って下山する体力がなくなる。
私達が最後尾だから、援軍は待っても来ない。時間が経つだけ不利になる。
「ぜってー逃がさねーからな!帰蝶、おまえがこっちに来るならほかのやつら見逃してやる!朝倉は勝ち決定だし、これで二つはまもれるな!」
ヒヒヒヒ、と、続けて甲高い掠れた声が、煙を突き抜けて聞こえてくる。
彼が今まで遵守していた「なるべく殺しはしない」の命令を諦めたのは、もう声からも充満する殺気からも、わかっていた。
いつのまにか私のことを「変な女その二」から名前呼びになっているのも。
彼は本気なのだろう。
ならば、私に出来ることは、
「よし、私、あの子のところへ行くわ。抵抗しなければ殺されないと思うし、私なら隙をついて逃げられるかも」
「駄目です」
「そうっス。姫さんはわかってないんス。今の織田軍で、あんたはものすごい重要な存在です。信長様が殿に置いたのは、女だから人質にして逃げたかったからじゃないんスよ!」
「でも、このままじゃ全員殺されちゃうでしょ!勝てる?全員ケガしてるのに……言っとくけど、私、あの動き見えなかったからね!?」
威張って言えることではないけれど、私のちょっと涙が混じりかけた声を聞いて、二人は笑った。笑うとこじゃないでしょ。
「私が怪我をしていること、気付いてたのですか……」
「当たり前でしょ。私、そんな重くないのに、抱えた時ウッてなってたじゃない」
おそらく、義秋と戦った時だろう。彼、結構強かったし。
十兵衛はやっぱり薄く笑ったまま、息を吐く。怪我してるくせにそう見せないのはたしかに上手だったけど、秀吉くんに肩を貸しているせいか、さっきの戦闘のせいか、少し苦しそうな呼吸になっていた。
「そうですね、あの様子では、帰蝶様を捕まえるか殺すまで追ってくるでしょうし……」
そう言った後ろで、煙は無慈悲に晴れていく。
月がなかったらよかったのに。
私たちの姿は、雲や煙がなければあの猫には丸見えだ。
「だから少し、無茶をします」
「それって、大丈夫な無茶?」
「さあ。でも、貴女を失うくらいなら、した方がいい無茶です」
月光のような笑みだった。
なら、大丈夫かもしれないと思った。
「わかった。やろう」
この二人、十兵衛と秀吉くんは大丈夫だ。
日奈は別れ際に、「金ヶ崎の戦い」は誰かが死ぬようなイベントだとは言わなかった。急いでいたにしても、そんな大事なことを言い忘れる子じゃない。
告げたのは、信長の退路と殿を誰にするか。これはきっと、ゲームでも史実でも同じなのだ。
ここで私達三人は死なない。
もし危なくなるとしても、それはイレギュラー要素の私だけ。
この二人は攻略対象だ。
そしてたぶん、あの黒猫も。ヒロイン攫う敵キャラってありがちだもん。
だから、ここではおそらく、殺せない。どうやっても。
負けイベってこれのことだったのだ。
「秀吉殿も、いいですか?」
私と十兵衛にまっすぐ見られて、秀吉くんはあーあ、と小さく言葉を空に投げた。
彼が今一番重症だ。毒も回っていてかなり辛いはず。彼だけ逃がすのも手だ。嫌だと言われたら、そうするつもりだったけど。
「いいよ。やろう」
「ありがとう」
この二人が敬語じゃないの、なんかいいな。