109話【日奈】帰蝶のいない岐阜城にて1
※日奈視点です。
城主のいない城は、平和だ。
日奈は本来岐阜城主が使用するために置かれた脇息にもたれながら、せかせかと執務をこなす秀吉を眺めていた。
本当によく働く。
帰蝶は「ピグミーマーモセット(世界最小の猿)みたい」と愛でていた。
たしかに、史実で言われているような日本猿、というよりは昔の名作アニメに出てくる主人公の旅のお伴にいそうな猿だ。
大事な時にいい仕事をするパートナーアニマル。その愛らしさで物語にスパイスを加える。
本来の彼は「全力でやるなんて面倒。適当適度にやっとけばいいっしょ」というスタンスの仕事ぶりだったと思うが、今では帰蝶を支えたいという一心で励んでいるようだ。
帰蝶は自分より強くて高身長な男性が好みなようなので、この小柄な少年が彼女の攻略相手になれるのかは……今のところはちょっと難しそうだけれど。
「夕凪~お茶にしようよ」
秀吉を見ているだけでは退屈してしまったので、天井裏にいるであろうくのいちに声をかける。
音もなく「そこが開くの?」と言う場所が開いて、これまた小動物のような少女が包みを持って飛び出て来た。
「あい!見てくださいヒナさん、姫さまが作ってくださったくきぃがあるです!」
「クッキーね。ありがたくいただこう」
「ありがたいです!」
帰蝶付きの忍者・夕凪とは、だいぶ打ち解けた仲になれた。
当初出会った頃は敵意の色しかなかった瞳も、帰蝶が日奈を“友達”と言うようになってから変わっていった。
今ではこうして、間をもつ帰蝶が不在でも二人でお茶を楽しむことができる。
執務をこなしている秀吉や他の者たちに悪いので、彼らに一言かけてから帰蝶の居室へ移動することにした。
今、日奈は対外的には“岐阜城主・帰蝶の影武者”だ。
おさまったばかりの城主が早速不在がちでは外聞が悪い。座っているだけでいいから、と半兵衛や秀吉に頼まれた。帰蝶はそんなことは何も知らずに出かけていった。
ならば、日奈は留守番を完璧にこなそう。
これで帰蝶が悪く言われないようになるのなら、日奈としてはお安い御用だ。帰蝶の部屋で彼女の着物をまとって寝起きするだけで、彼女の顔を立てられるのなら。
縁側に座り、緑茶とともに帰蝶が作り置いてくれたというクッキーをいただくことにした。
お手製の柿ジャムやみかんジャムを真ん中に乗せて焼いたジャムクッキーは、意外にも濃く淹れられた緑茶と合った。
「帰蝶はすごいよね。なにもなくてもこんなお菓子が作れるんだもん」
「あい、姫様はすごいのです。夕凪は一生、姫様のおそばに仕えるしょぞんです」
「夕凪は偉いなあ」
「ぁあい!」
光秀と違って、この子は帰蝶を褒める相手には敵意を見せなくなるらしい。日奈の隣に腰掛け、にこにことクッキーを頬袋に詰めている。
「帰蝶、光秀様とうまくやってるかなあ」
「十兵衛様なら、姫様を危ない目にはあわせませんです」
「夕凪はおこちゃまだなあ。彼が一番危ないんだよ」
「?」
リスのようにクッキーを頬にため込んだ夕凪は、一度小首を傾げたあと、日奈の言葉の意味にさすがに気づいたようだ。
ごくんと口の中の分を飲み込んでから答える。
「大丈夫ですよ。あのお二人は、ご兄弟みたいですから」
「それって本人達が言ってるだけでしょ?妹みたい、弟みたいって。幼馴染ものの少女漫画にありがちなやつだよ。鈍感なのか認めたくないだけなのか……」
「そうです。あのお二人は、そっくりなのです」
「そうだけどー」
「兄弟というものは、とくべつなのですよ」
日奈よりも多くの時間を共にした彼女の方が、二人のことはわかっている、と言いたげな表情だ。
夕凪はわずかに声のトーンを落として続ける。
「夕凪にも、兄がおりました。今はいなくなってしまいましたが」
初耳だ。そんな設定はなかったはずだが。
驚いて、彼女のいつもより少し切なげな横顔に見入ってしまう。
話によれば、彼女は帰蝶が作った孤児院に入るまでは、兄と物乞いや物盗りなどをして生活をしていたらしい。両親は物心ついた時にはすでにおらず、夕凪のそばにいたのは兄だけだった。けれどもその兄とも、美濃で何度かあった戦に巻き込まれ、生き別れになった。
「そうだったんだ……あなたも苦労してるんだね」
「あい。ここにいる方々は、みなさんそれなりにそれなりなのですよ」
ゲームをやりこんだのに、知らなかった。コミカライズも、開発担当の設定ブログも全部読み込んだのに。
なんとなく答えに困って、夕凪が広げてくれた包みの中から、球形に形成されたクッキーをつまむ。
砂糖がまぶされたそれは、気を抜いた隙に乾いた日奈の指から滑って膝へ。
膝の布をバウンドしてころころと庭木へ向かっていってしまった。
立ち上がり、追いかける。
三秒ルールで食べる気は起きないが、放置して蟻や他の虫が寄ってきたら大変だ。帰蝶は怒らないだろうけれど、侍女の皆に怒られてしまう。帰蝶ではないが、あの侍女頭は怖い。
「帰蝶様!いけませんです!さがって!!」
クッキーを拾うべく日奈が膝を折った瞬間、夕凪の尖った声が耳に響いた。
初めての声に驚いて立ち上がった時には、夕凪は縁側にはいなかった。
縁側から続く帰蝶の居室の庭は、彼女の剣の稽古や筋トレがしたいからとの要望でかなり広く取られている。
日本庭園にあるような余計な装飾、庭木、庭石も最低限しか置かれていない。
本来、姫や要人のプライベートルームの前は、こんなに開けていてはいけないのだ。
賊の侵入をしやすくしてしまう。
護衛や侍女を何人も忍ばせていた、自身も手練れである帰蝶だから今まで問題はなかったというだけのこと。
今ここにいるのは、影武者として飾られただけの、ただの娘。
「えっえっ!?」
いつからいたのだろう、黒い影にしか見えない塊が、猛スピードで日奈の周りを動いている。
夕凪の素早いクナイをすべて避け、日奈が何が起こっているのか理解もできぬうちに、影は足音もなく日奈に近づく。
拾ったクッキーを手から離す間もないまま、影はその鋭く光る刃を細い首へ押し当てた。