1 婚約前破棄その一
「いつか世界が一つとなった時、再び皆で旅をするといい。
世界は広い。世界は知らないこと、不思議なことで一杯だ。
仲間となら、自分では気付かなかった美しいもの、素晴らしいものがたくさん見つけられるだろう」
主が最後にこうおっしゃった……
・・・・・・・・・・
自分達の住んでいる大陸の成り立ちを説明し終えると、エキナセア=ブルブレアは、二人の生徒達に、
「ここまでで何か質問はありますか?」
と尋ねた。
すると、七歳の姉キアラ=エマ=ベネフィットが手を挙げた。
「授業中以外でも、何故私達はエキナセア姉様を先生と呼ばなければいけなのですか?」
ウンウンと、隣りの一つ下の弟、チャールズ=オスカ=ベネフィットも頷きながら同調した。
授業とは全く関係ない質問にエキナセアは眉間にシワを寄せ、丸い黒縁眼鏡を左の人差し指で押し上げながら言った。
「それは始めに説明しましたよね。普段から呼び慣れていないと、咄嗟だと本当の名前を呼んでしまうと。
私がエキナセアだと他人にばれると困ると言うことは、貴方達にも分かってるでしょう。それとも、私がフィリアへ戻ってしまった方が良いのですか?」
すると姉弟は激しく頭を振りながら嫌嫌をした。
「姉様がフィリアへ帰られるなら、私達も帰る!」
「それが出来ないのは、貴方達が一番分かってるでしょう。初等学院に入学されたのですから。
だからこそ、私の正体が家族以外の人にばれてはいけなのです」
「でも、やっぱりおかしいわ。だって、エキナセナ姉様はこのベネフィット公爵家の娘なのに、それを隠さなきゃいかないなんて」
「そうだ、そうだ」
この幼い姉弟は、ユニフォーミティ王国の筆頭公爵、ベネフィット家の長男であるグリークの子供達である。
そしてエキナセアは、グリークとは一回り年の離れた妹、つまりは彼らの叔母であった。年は八つしか離れていなかったので、寧ろこちらの方が兄弟のようなものであったが。
実際の所、二人は祖母である公爵夫人の実家である辺境伯フィリア家に、事ある毎に預けられて、忙しい両親には育児放棄されているのも同然だった。
そして、そこで彼らの世話をしていたのが、やはり両親から見捨てられて叔父夫婦の所に身を寄せていたエキナセアだったのだ。
もっとも、田舎送りになった理由は、二人とは全く違って不名誉な理由だったのだが。
「自分でこう言うのもはばかられますが、私の存在は、ベネフィット家ではいない者として扱われてます。
でも私はどうしても学問を学びたかった。だから名を変え、この家の侍女兼貴方達の家庭教師として働きながら大学へ通わせてもらっているのです。ですから、是非ともお二人には協力して頂きたいのです。」
エキナセアは先月から、本名のエキナセア=ブルブレア=ベネフィットから、ブルブレア=レベッカと名を変え、ベネフィット家に住み込んでいる。
それゆえに、彼女はベネフィット家のお仕着せである、濃紺の裾の長いワンピースを着て、髪の毛をすっぽり覆う、大きめなボンネットをかぶっている。
そして、念には念を入れて、これまた大きな黒縁眼鏡をかけていた。
このお仕着せの衣装は、使用人の個性を捨てさせるのが目的なのでは無いか、と疑いたくなる程、身に着けると誰が誰なのか区別がつかなくなった。
しかし、これはエキナセアとしては好都合だった。
もっとも、エキナセアが都にある屋敷を離れてから、もう五年も経っているので、使用人達、特に女性の使用人や侍女達はほとんど見知らぬ者ばかりだったが。
「だから、それが変。姉さまは何にも悪くないじゃない。姉さまが王子様に婚約破棄されたのは、姉さまが婚約パーティでお倒れになったせいでしょう。
病気だったのだから仕方ないではないですか。それなのに、それだけで婚約破棄だなんて、王子様ってお心が狭い。それに全く悪くない姉さまを厄介者にしたこの家の人達もみんな酷い!」
キアラ=エマは目に涙を浮かべながら言った。
「そうだ、そうだ、酷いぞ!」
まだよく理解していないだろうチャールズ=オスカも、右手を天に突き出して声を張り上げた。
誰がまだこんな幼い子供達に余計な事を教えたのだ。エキナセアは頭を抱えた。
この話は王家に関わる事柄なので、他言無用の話題だ。家族間ですら口にしてはいけないタブーなはずなのに。しかも、微妙に間違った情報である。
「一体誰からそんなデタラメな話を聞いたのですか?」
「えっ、嘘なんですか、婚約破棄されたというのは」
「違います。婚約発表をする前に私が倒れたので、婚約は成立していません。故に破棄される必要もありませんでした」
「・・・・・」
結局同じ事でしょう。と、キアラはジト目でエキナセアを見た。エキナセアは子供相手に居たたまれなかったが、必死に顔を取り繕いながら言った。
「あの婚約話は大人達が勝手に決め、勝手に取り止めた事なので、私同様に、まだ十歳だったリュカ殿下には全く責任はありません。
いいえ、私が病弱で、色々と問題があるという事実を隠していたのですから、非はベネフィット家にあります。責められるべきはこちらなのですから、王家を非難するなんて絶対にしてはいけませんよ。わかりましたね」
エキナセアは念を押すように二人の目を見ながら、ゆっくり、諭すように言った。
あの当時、隠し事が王家にばれていたらどんな処分が下されていたのか計り知れないのだ。
まあ、今のエキナセアとしては、このベネフィット家がどうなろうと知った事ではないのが本音だ。
しかし、かわいい姪や甥、育ててくれた母方の祖母や叔父叔母夫妻にまで迷惑をかけるのは、何が何でも避けたいのだ。
「解りました。でも、このうちの人達は酷いわ」
俯きながら呟いたキアラの頭を優しく撫でながら、エキナセアは微笑んだ。
「ありがとう、キアラ。でも、寧ろ私はフィリアで過ごせたのだから幸せだったと思うのよ。貴方達もそうではなくて?」
すると、二人も顔を上げて頷いた。
「人には愛が必要だけれど、それは必ずしも親からでは無くてもいいと思うのよ。私は貴方達を心から愛しています。貴方達も私を愛してくれているでしょう。それで十分です」
エキナセアは本心からそう呟いた。