7. 平和な日常は簡単に崩れ去る
停めてあった馬車に飛び乗り、御者に急ぎラボに戻るように伝えた。ここからラボまで普通なら15分はかかるのだが、御者の腕が良いのか、12分程度で到着した。敷地に入ると、「あれを…」とネイトが窓の外を指差した。ラボの入り口の壁が破壊され、外に光が漏れていた。よく見ると、地面に崩れた壁が飛び散っているので、内部からの爆発のようだ。
(パラゴ、逐一、情報を流せ)と命じると、風景にかぶさるようにして『壁への圧力、外壁最大耐久度の160%』と表示された。ラボの壁は実験中の事故を想定して、ただの石よりも強い素材にしていた。その壁が壊れるとはかなりの爆発だ。
被害状況を問いかけようとした時、ラボの壁に岩を打ち付けるよう鈍い音が聞こえ、ラボの壁の一部が外に倒れた。そして、中から人が現れ、(あの生命体は人間族の女性です。しかし、マナを感知できません。状況から、壁を破壊したのはあの生命体です)とパラゴが言った。
(襲撃者はあいつ一人か? 被害状況は?)と訊くと、(襲撃者は一人と推察されます。しかし、他にもマナのない人間族がいると感知できていない可能性があります。建物内のラボの研究員はみな無事です)と言う。マナのない人間なんているのかよ。
馬車が停まり、俺とネイトはすぐに外に出た。目の前には、俺たちと同じぐらいの年齢で、研究室にあった白衣を羽織っただけの女が立っている。こんな時に不謹慎だが、目を奪われるほどプロポーションが良かった。女に被さるようにパラゴのメッセージが並んだ。
『人型生物…人間族…性別女性…年齢不詳…データベースに記録なし』
パラゴが言う「データベース」とは俺の記憶のことだろう。素手で壁をぶち抜く女友達がいたら、忘れるはずはない。パラゴのメッセージを読むために女を見ていたのを、ネイトが勘違いし、「ジロジロ見過ぎでは?」と引きつった笑みを浮かべた。「いや、そう言うのじゃないって…」と答えると、「私以外とデートのお約束でもあったのですか?」と冗談めかして言った。「まさか」と言うと、「それでは間違いなく、不審者ですね」と、ハイヒールを脱ぎ捨て、女に駆けていった。
接近するネイトに気づいた女は、おもむろに殴りかかり、そこにパラゴの『【身体強化】魔法なし…薬物徴候なし…魔道具の装備なし…』という表示がかぶった。女の大ぶりなパンチを、ネイトは身体を捻って避けると、逆手に持ったダガーで、女の右脇腹を斬った。白衣が赤く染まった。そして、女の後ろに回り、容赦なく、左手のダガーを女の背中に突き立てた。人間とは思っていないようだ。ダガーを引き抜いた背中から、鮮血が散った。
『鉄を基盤とした血液…傷回復…ダメージ 0』
嘘だろ? 【回復】魔法か、と思った瞬間、女がネイトの方に振り返った。「離れろ!」と、叫んだのと、女が豪快な蹴りを放つのとがほぼ同時だった。ネイトは人外の反応を見せ、両腕で蹴りをブロックしたが、跳ね飛ばされて地面に転がった。【身体強化】の魔法を発動していた俺は、瞬発力が強化されていたので、すぐにネイトのところに移動した。苦痛の表情を浮かべるネイトの上に、『両側尺骨に亀裂骨折』と表示された。蹴りを受けただけで、両方の前腕の骨にひびが入ったのか。ネックレスの魔石がなければ、死んでいたかも知れない。
手印を組んで【回復】魔法を発動し、骨折の治療をしてやると、ネイトは痛みとショックで青い顔をしながら「ありがとうございます」と言った。ダガーでの戦闘は、極端な接近戦になるので、力の強い敵の、ただの一撃でやられるリスクがある。ネイトを立ち上がらせ、「俺があの女を引きつけるから、ネイトはラボ内にいる研究員を避難させてくれ」と言うと、「御意」と言ってラボに走っていった。
女は俺を凝視していた。背丈は俺と同じぐらいで、手足が長く、すらっとしているのに、胸は大きく、腰はくびれ、モデルのような体型だ。左右対称の整った顔立ちは美しかったが、黒く長い髪はばらけ、正気とは思えない目つきだった。
(宿主様、生命体は自己修復能力があります。すべての生物学的パラメータは人間族と同じです)と、パラゴがわけのわからないことを言う。(つまり、個性って言いたいのかよ?)と茶化すと、答えはなかった。
女の横に『戦闘レベル86、魔法レベル0』と表示された。レベルというのは、パラゴが評価した数字だが、パラゴが俺に寄生して以来、自分より戦闘レベルが高い奴に会うのは初めてだ。ちなみに、俺の戦闘レベルは83、魔法レベルは82だそうだ。戦闘レベルだけを見れば勝ち目がないが、こっちは魔法も使える。
「なにが目的だ!」と女に呼びかけたが、「うー!」と唸り、怒った顔で俺を睨みつけている。「俺の言葉がわかるか? どこから来た?」と言っても、返答はなく、代わりに両手を挙げて、掴みかかってきた。身体を捌いて女の手を躱し、肩から女の体に体当たりした。それなりに力を入れていたのだが、女は倒れず、パラゴが『ダメージ 0』と表示した。その場にしゃがんで女の足を払うと、女の両足が宙に浮き、ドスンと尻餅をついた。それでも『ダメージ 0』だった。
女はすぐに立ち上がり、右フックを放ったので、咄嗟に右腕でブロックすると、予想外の威力に、ネイトと同じように横に吹っ飛ばされて地面に転がった。(右橈骨を粉砕骨折しました)とパラゴが警告したが、猛烈な痛みで骨折しているのはわかっていた。
(今の攻撃はスーツの最大耐久強度の280%です)と伝えてきた。鉄製の装甲程度の強度があるのに、このパワーの前には普通のスーツと変わらないのか。素早く下がって距離を取り、左手で手印を組んで【回復】魔法で骨折を治した。女から目を離さずに、(パラゴ、こいつは魔物か?)と訊くと、(得られる生物学的情報は人間族の女性と合致しますが、筋収縮のスピード、パワー、耐久性など身体機能パラメータが人間族のレベルをはるかに超えています)とおかしなことを言う。「おい! お前は何者だ?」と叫んだが、言葉が通じてないのか、答えたくないのか、返事はなかった。
女がこちらに突進し、跳び蹴りをしてきた。しかし、動作が大きかったので余裕をもって躱し、着地した女の背中を掌底で突いた。手の平にマナを巡らせていたので、女はもんどり打って倒れた。身体にマナを巡らせ、爆発的なパワーを引き出す硬気功と言う技だ。普通なら肋骨の数本は折れているはずなのだが、『ダメージ0』と表示され、女はすぐに立ち上がった。
(パラゴ、こいつを放っておいたら、スタミナ切れになるのか?)と訊くと、(疲労は見られません。この破壊衝動が続けばラボは1日以内に壊滅します。そして、5日でこの街の主要な建物は壊滅します)と言う。そんなに強いのかよ…。この場から逃げ出したくなった。