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いったいそれはどんな速度だったのだろう。
私は初めて、加重で息ができないという経験をする羽目になった。
「速、いやいや、速すぎませ、ん……?」
ちらと前田さんの屈強な肩越しに視線をやっとこさ向けて速度計をのぞき見たが、なんと時速200キロをたたき出していた。
そんな速度、車でも経験したことがない。当たり前だ。
壮絶な加速は私に重力を意識させて、空気の壁に押しつけられるような苦しさを感じさせた。
どんな絶叫マシーンよりも恐ろしい、そして息苦しすぎる殺人マシーンに乗ってしまったのだ。
……もう、死にたい……。ブラック企業の残業勤務なんてまだまだ序の口なんだって、絶対に認めたくないけどそう思えてしまうほどの辛さだった。
「我慢してくだせえ。なにせ時の法則をブチ破ろうって言うんで。人がつくった法律を超えずして、何の痛みもなしに超えられるようなモンでもなくて……もう少しですから!」
前田さんも限界のなかで、それでも必死に叫んでくれた。
私は返事ができなかったから、代わりに前田さんのお腹をぎゅっとして応答した。恥ずかしかったけれど、本当にそれしか意志を伝達する方法がなかったのだ。
それからいったいどれほどの時間が経ったのか。
中央局を出発したときはまだ太陽が空にあったのに、すっかり陽も沈んで星もまたたきだしていた。
昼から、夜に。夕方をすっとばして走り抜けた、その先……ついに前田さんは、先を走る一台のバイクをその目で捉えた!
あらゆる車を追い越して、信号をやり過ごして、時空を乗り越えて。
前田さんはついに一台の郵便局のバイクに接近した。
「っっっしゃああああああ!」
壮絶な雄叫びとともに前田さんは最後の加速を敢行。
速度計は200キロから、250、300、350とぐんぐんインフレした数字をたたき出していく。
私も目を動かして、そのバイクをみた。とてつもない高速で疾走するバイクと、前田さんが並ぶ。手を伸ばせば届く距離にまで近づいて、直後、追い抜いた。
併走していた状態から、前田さんは目標のバイクの前に躍り出る。
その瞬間だった。
前田さんは急ブレーキ、バイクの速度を一気に落す。
「へ?」
思わず私は首をかしげてしまった。そんなことをしたら、後ろのバイクと自分たちとが衝突してしまうんじゃ……。
この世界の法則を超えて、時空さえも超えてやっと追いついたというのに。
ついに私たちは、ふたたびこの世界の物理法則に捕らわれてしまった。衝突事故という最悪の形で。
死ぬんじゃないかと思ったけれど、世の中どうにかなるものらしい。
そもそもすべての法則を超越して走っているバイク同士、ぶつかったところでまだまだ物理法則に捕まったりはしなかった、ということなのか。
もう理解できない次元の現実に足を踏み入れてしまったらしかった。
気づけば私は、前田さんと一緒にとある道路の路肩に止まっていて、その後ろには行方不明の配達員が同じようにバイクを停車させていた。
前田さんはバイクから降りて、その配達員に手を振った。
さっきまでうわの空で呆然としていた配達員は、目の前をちらつく前田さんの手をみてようやく正気を取り戻したらしく、しゃべり始めた。
「あの、私はいままでどこを走っていたのでしょうか? とても長い時間、配達していたような」
「驚くなよ? 一週間らしいぜ。平成から令和の間の永遠の時の流れの中を、あんたは走っていたらしい。現実世界じゃあんたは行方不明扱いになっていたんだ」
「行方不明って……私はただ、この手紙を届けようとしてただけなのに」
絶句しながらも行方不明の配達員さんは、そうして一通の手紙をコンテナから取り出してくれた。
前田さんはそれをしかと受け取ると、私にそっと渡してくれた。
「これが探してたお手紙ですかい?」
私はそれを受け取ると、泣いて謝りたくなった。
確かにそこにはあいつの名前と、あいつの住所と……平成31年5月1日というご立派な日付が書かれてあった。
前田さんから話をきいたところ、すべては不運の連鎖によって起こったことだという。
不運その1、あいつが日付を間違えたこと。
不運その2、あいつが日付指定で郵便物を送りやがったこと。
そして不運その3、その郵便物を受け付けしたスタッフも新人さんだったらしく、緊張のあまり日付指定の間違いを指摘することなくそのまま受けてしまい、そして“平成31年5月1日”という存在しないはずの時空座標に向けて、手紙を発送してしまったのだ。
そんなこと、ありうるはずがない。それでも起こってしまったのは、ひとえに不運だったからと言うしかない。
何度も頭を下げる私に、前田さんはそう言って励ましてくれた。
そして郵便局員さんの鑑のような言葉を、言ってくれたのだった。
「これで無事、配達完了ですな。これからもどうぞ、郵便局をご利用くださいませ!」
まったくもって、感謝しかなかった。