50.チャンス
「おはよー、吉砂さん」
「おはよう武刀君。で、廊下の真ん中で何をしているの? もしかして、私の犬になりたいの?」
「……」
犬になりたいの?
犬を飼いたいと思ったことはあるが、犬になりたいと思ったことはない。
「いや、そんなことは」
「あら、違うの? じゃあ……豚?」
「……」
じゃあ……豚?
今日は豚肉食べたいなぁと思ったことはあるが、今日は豚になりたいなぁと思ったことはない。
「いや、それも」
「あら、これも違うの? まさか……いきなり便器?」
「……」
いきなり便器?
田舎のおじいちゃんおばあちゃんに「元気でやるんだよ~」と言われたことはあるが、「便器になるんだよ~」と言われたことはない。
「……あの、吉砂涼子さん」
「フルネームで呼ばないでちょうだい」
吉砂さんは、フルで呼ばれることを嫌がる。
喫茶店ぽく聞こえるから。
「吉砂さん、何の話をしてるの?」
「逆に聞くわ、あなたは何になりたいのかしら?」
「僕は人間のままでいいです」
「だったらどうして這いつくばってるのよ?」
「自分の馬鹿さ加減にへこんでただけです」
「そうだったの。あなた、こちら側に来たいのかと思ったわ」
どっちかはわからないが、そっちには行かない。
「近ごろ武刀君から、女性に痛めつけられている気配を感じていたものだから」
「……」
この人何者?
まさか異世界人?
魔法使い?
「早く立ちなさい。まぎらわしいから」
「あ、うん」
まぎらわしいとか考えるのは吉砂さんだけだと思うが素直に立った。
「……従順で素質あり」
「え?」
「先に行くわ」
気になる一言を残して吉砂さんは歩いていった。
吉砂さん後を追うように廊下を進み、二年一組の教室に到着。
開きっぱなしの後ろ扉から中へ入り、傘立てにビニール傘を入れクラスメイトに挨拶していると、教室の真ん中辺りでクラスメイトと談笑している具零斗と目が合った。
具零斗が真剣な目でコクリと頷いたのでこちらも頷き返した。
わかってるさ。三上先輩については後でたっぷり話し合おう。
外に面した窓際最後尾の席にいるのは小早川さん。
で、お隣が僕の席。
そこに鞄を置いてから机を持ち上げ、机の左前脚をタイル面の左上角に合わせて降ろし、机の四辺がタイルが描くラインと平行になるよう微調整して、
「完璧」
清々しい気分で椅子を引いて腰を下ろした。
「小早川さん」
「……はい」
鞄から教科書を取り出し机に入れていた手を止めて、小早川さんがこちらを向いた。
「おはよう」
「………………おはよう」
ずい分間があったが挨拶を返してくれるお隣さん。
昇降口ですでに会っておはようと言ったが、この席になってからは毎朝席に着いてから挨拶を交わしているので、今日も欠かさずに。
ルーティン的なことをやらずにおくと、僕だけでなく小早川さんも一日中モヤモヤした気分で過ごすことになるだろうから、と考えてのことだ。
この気配りは僕のファインプレイだね。
廊下でのバカっぷりも帳消しになったことだろう。
さぁ、僕も教科書を鞄から取り出して、今日一日の準備をしよう。
「うおっす!」
バンッ
「ぼぇっ」
背中を叩かれた。肺から音が漏れ出たような声が出た。
「ゲホッ、ゲホッ、おえっ。い、いきなり、ゲホッ、な、何すんのさ」
叩いたやつの顔を拝むため顔を横へ向けると、長身短髪で、鋭い目をしたワイルド系のハンサムが、
「悪い悪い、ハハハ」
爽やかに笑いながら立っていた。
大沢誠。
僕の親友で、サクの親友でもある。
僕達三人は小、中、高とずっと一緒だ。
「今日は朝練が早く終わったんで、教室行っても武刀はまだ来てないだろうなぁと思ってたから、ビックリしてついな」
誠は剣道部所属で段持ち。
さらには、家に帰ってからも毎日筋トレをしている変態なので、細身ではあるが制服の下には鍛え抜かれた肉体が隠されている。
力加減には気をつけてもらいたい。
「……フゥ。ビックリしたのはこっちだよ。おはよう、チンマコ」
「昔のあだ名で呼ぶなっての。悪いって言っただろ。小早川もおはよーさん」
「……おはよう」
すでにいつものように文庫本を読み始めていた小早川さんが、顔を上げて誠へ挨拶を返した。
「今日は皆早いな」
サクが僕の席へとやってきた。
「おう、サクも来てたのか」
「おはよう、チンマコ」
「なんでお前まで……。おはよーさん。サクがこんなに早いって珍し……くもないか。お前、いっつもバラバラだもんな。六時に登校なんてこともあったし」
早。
「それ、いつのこと?」
「高一の終わりのほうだったな。武刀がやたらと粘って学校に残ってたけど結局何にも貰えなかったバレンタインデーから五日後くらいにインフルエンザで一週間ほど学校を休んだ時の話だ」
「ああ、あの時の……今のって前半のエピソードいらなくない?」
「その時にサクが超早朝登校したんだよ」
「へぇ……」
確実にバレンタインのくだりいらないと思うんだけどな……。
ちなみに誠は数えきれないほどのチョコを貰ってた。
サクも何個か貰ってた。
そんな二人のチョコを僕は貰ってた。
毎年のことだ。
どうして大多数の人間が悲しい思いをするのに、あのイベントは廃れないんだろう。
「そんな早く学校行って開いてるの?」
「朝練やってる部活の顧問とかいるしな」
「ふぅん。サクは何で早く行ったの?」
「一年間過ごした教室とももうすぐお別れかと思うと、一人静かに教室の空気を味わってみたくなってな……」
サクが腕を組み、その時のことを思い出すように教室を見渡した。
「早く行って何してたの?」
「自分の席に座って、ただ黒板を眺めていた」
何だそりゃ。
「空気を味わってみてどうだった?」
「……いつも皆が授業を受けている、ある意味では神聖ともいえる空間で一人席に座っていると、ある一つの考えが頭に浮かんできたんだ」
「へぇ。どんな?」
「裸になるチャンスだ、と」
「……」
何を言っているのだろう、このピッチリ横分けは。
「裸になっちゃダメだし、チャンスとかそういうことではないと思うんだけど」
「ああ。俺も自分の中にあんな感情があったとは想像もしなかったよ……」
おびえたように体の前で腕をクロスさせ、自身の両の二の腕をつかむサク。
普段は温厚な主人公が傷つけられた仲間を見て激高し、残虐に敵を倒した後、自分の中にあった凶暴性に恐怖しているかのようなセリフだ。
露出行為をしようとしただけだってのに。
「で、脱いだの?」
「まさか」
「だよね」
「上半身は着てたさ」
「何で下半身脱いじゃったの?」
「上か下なら下だと思ったんだ」
「何その二択?」
「下だけなら突然誰かが来てもバレないだろ」
「すぐバレるよ」
「やってみて気づいたよ」
「やんなくても気づこうよ」
「それも悪くないって」
「何に気づいてんだよ」
我が友ながら恐ろしいやつ。
「誠は知ってたんだよね? サクの奇行」
「……ん? いや、俺はただ、朝早くに学校へ行ったって聞いただけだ」
「今だから話せる思い出話ってやつだな。ハハハ」
ピッチリの七・三分けを撫でつけながら笑うピッチリの七・三分け。
永遠に話しちゃいけないと思う。




