43.不快な気配
一瞬で全身総毛立った。
眩暈を覚え、吐き気を催すほどの不快な気配が唐突に現れ、この場を支配した。
怯えから硬直してしまった首を、錆びついたネジを回すように力任せに動かし周囲に目を向けた。
目に映るものは、見慣れた景色のみ。
特別変わった何かは確認できない。
しかし、不快な気配は感じられる。
辺り一帯の暗闇が負の感情に凝り固まり、憎悪の念を持って今にも僕の体を呑み込んでしまいそうな感覚。
出所のまったくわからない気配は、前後上下左右すべての方向から圧力をかけてきており、空気が魔物ではないかとさえ疑ってしまう。
そう考えると息をすることも苦しくなるほど巨大でおぞましいものだった。
不快な気配を感じたのはみんなも同様で、リィザはレイピアを抜き、ミラは大剣を肩に担ぎ、ククは短冊のような紙を手に持ち、レアは傘を開き、全員が辺りを警戒していた。
クロアはまだ四つん這いのままだが、顔を上げ、瞳が零れそうなほど大きく目を見開き、驚愕の表情で固まっていた。僕同様、恐怖で体が動かせないのかもしれない。
そんなクロアの様子を見ながら、一つ考える。
「(……さっきのって何だ?)」
この正体の見えない気配を感じる直前、クロアの頭の上で何かが強く光ったように見えた。今その光は見えない。
消えてしまったのか、僕の気のせいだったのか。
みんながそのことを気にしているそぶりはない。となると、
「(気のせいか……)」
ってなるわけだけど、僕とクロアの距離は大股で三歩分。これだけ近くにいて有りもしないものを見るとは……いや、今はそれどころじゃないな。
「クロア!」
リィザが顎から大粒の汗を滴らせながら、リーダーの名前を叫んだ。
この状況は異世界人のリィザにとっても、瞬時に汗をかき、拭う余裕もないほど危険なのだということが窺える。
「……」
呼ばれたクロアはただただ茫然としており、リィザのことを見もしない。
「くっ……ミラ!」
今は頼れないと判断したのかリィザはクロアをそのままにして、今度はミラへ視線を移した。
「何だ!」
怒鳴るように返事をするミラ。
ミラも外気にさらした褐色の肌を汗で濡らしていた。
「何かわかるか!?」
「ここら一帯がヤバイってことくらいしかわかんねぇよ!」
僕を軽々と投げ飛ばすようなミラにとっても危ない気配か。
「ああ、確かに……ククはどうだ!?」
「アタシもわかんないわよ! 周りに変な奴はいないし音も匂いも異常なものはないわ!」
ククは、何かを威嚇する獣のように歯を剥いているが、気配の正体がつかめているわけではないらしい。
「そうなのか……レア! この気配が何かわかるか!?」
「……」
「レア! 何かわかるのか!?」
「……え? あ、ああ、すみません。気配が濃すぎてそれ以上の何かを感じることができません」
表情はわからないが、すぐに言葉が出ないことから、レアも緊張していることが伝わってくる。
「くそっ」
見えてこない状況に苛立つリィザが最後に僕を見た。
しかし、僕はどこにでもいる一般人。
聞かれるまでもなく答えは最初から決まっている。
「バハムート!」
「はい!」
「ちょっとその辺一周してこい」
「わかりま…………え?」
え?
「どうした? 早く行け」
「……今、その辺一周してこいって聞こえたんだけど」
「そう言ったからな」
「……そっスか」
「ほら、急いで」
「……えーと……それって危なくないの?」
「危ない」
「……へー」
……あ、そうか。そういうことか
「あの、僕って死んだらどうなるの?」
今更ながらに思い出した。
ここは異世界。生き返る魔法とかがあるんじゃないだろうか。
それに召喚獣って、たとえ敵にやられたとしても次喚ぶときには復活しているイメージがある。
僕って死んでもまた生き返るんじゃないだろうか。
「何も心配はいらん」
「あ、じゃあやっぱり」
「お前を失った悲しみ、私なら乗り越えられる」
「……いや、あなたがどうなるかでなく……生き返る魔法とかないの?」
「うん、ない」
「……僕って死んだら、次喚ばれるとき復活するの?」
「死体が喚ばれるだけだろうな」
「……あっそ」
「さぁ早く。あと、敬語使え」
「……」
「ぼけっとするな。急げ」
「……ヤダ」
「敬語」
「ヤです」
「なぜだ?」
「死にたくない」
「敬」
「死にたくないからであります」
「お前が命令を拒否したせいで、主人が危険な目にあってもかまわないというのか?」
「かまいません」
「……殴っていいか?」
「やり返しますよ?」
「……」
「……」
リィザと僕が向かい合ってお互いをニラみ、いざ不毛なる戦いへと発展しそうになったその時、
「……む?」
「……え?」
現れた時と同様に、この場に立ち込めていた不快な気配が、最初から何もなかったかのように忽然と消えてしまった。
僕もリィザも、女の子三人も周囲へ首を巡らせるが、やはり何かを見ることも感じることもできず、ただ静寂だけがハーラスの廃村に満ちていた。
「……何だったんスか、今の」
目の前のリィザに聞いた。
「……何だと思う?」
逆に聞かれた。
「わかんないから聞いてんスけど……」
「あんな負の感情の塊のような気配に会ったのは初めてだ。正体はわからない。だが……」
リィザがもう一度辺りを見回した。
「突然現れ突然消えたということを考えると、超大型の魔物がそばを通っただけだろうな」
「超大型の?」
「ああ。私は初めて体験したが、時折こういったことがあるのは知っている」
「へぇ……」
あんなとてつもなく危ない気配を持った魔物もいるんだな。
「だろうな」
ミラがリィザの言葉に同意した。
「アタシは何度か体験してるけど、今のやつは空を何かが通ったってとこだろうな」
空……。
見上げるが、あるのは雲と星とお月さま。
変なものは見えない。
「アタシは、地面の下だと思う」
「森の中に空間転移してきてすぐにまた転移したのでは?」
ククとレアも想像を働かせるが、何分こちらの世界のことなので、聞いてもまったくピンとこない。空間転移なんて可能なの?
「あ、そうだ」
魔物に詳しいらしい、自称魔物博士のクロアがいるじゃないか。
そう思い、クロアへ目を向けると、
「……あれ? どこいった?」
倒れていたはずの場所にいなかった。
「フッ、フフッ、ククククク……」
「?」
誰かの笑い声が聞こえそちらを見てみれば、倒れていたところから少し離れたリィザの斜め後方で、クロアが立った状態で俯き笑っていた。
「ク、クロア……?」
それに気づいたリィザがそっと声をかけると、クロアは不意に顔を上向け、
「クハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ! アーーーハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッ!」
裂けそうなほど大口を開けて笑い始めた。
クロアの笑い声が、村に、森に、夜空にまで響き渡った。




