第五章・記憶
ガーランドさんの書庫の中で、あたしは立ち尽くす。目の前には、薄く光る、宝玉のような青い珠。あれが、あたしの記憶。探し求めていた、あたしの二十年。あれに触れれば、記憶が戻るんだ。
でも、なかなか手が出ない。
あの中には、世界を滅ぼしかねない何かがある。そう考えると、やっぱり、ためらってしまう。
…………。
何言ってんの、あたし!
ガーランドさんの家から旅立った時、言ったじゃないの。例え世界の破滅が待っていたとしても、アレスタと一緒なら乗り越えられるって。
振り返った。そこには、アレスタがいる。
アレスタ。あなたがいてくれれば、きっと大丈夫だよね?
……よし。
あたしは手を出し、そっと、記憶をつかんだ。
薄い光が、目を開けていられないほどのまぶしい光に変わった。目を閉じた瞬間、その光が、あたしの中に流れ込んでくる。あたしの記憶が、あたしの中に流れ込んでくる。
記憶が、よみがえる。
あたしの意識は、八年前に飛んだ。全てが始まった、八年前に――。
うー。緊張する。
扉の前であたし、思わず立ちすくむ。この向こうには、父さんの部下がたくさん待ってるんだ。今からあたし、その人たちの前で挨拶をしなきゃいけない。ま、別に大したことじゃないんだけどさ。もし失敗したら、父さんに恥をかかせちゃうんじゃないかって思うと、やっぱり緊張するよ。父さんにも、部下に対して威厳とか貫禄とかあるんだろうし。
「まあそう硬くなるな。ただ挨拶するだけだ」
「うん、判ってるけど……」
でも、緊張するものはするの。そんなあたしの小さな気持ちを無視し、父さんは扉を開けた。あーん、まだ心の準備ができてないのに……。
部屋の真ん中に長いテーブルが置いてあり、その両サイドに二十人ほどの人が座っていた。父さんが入ると、全員一斉に立ち上がり、ビシッ、って音が聞こえてきそうな感じで敬礼をした。父さんも敬礼を返す。すると、全員席に着いた。すごい。まさに、一糸乱れぬ動き。やっぱり規律に厳しいんだろうな。あたし、ますます緊張する。
「会議の前に紹介しておく。ミカ・バルキリアル。私の娘だが、今日からこの騎士団で働いてもらうことになった。みんな、よろしく頼む」
父さんがそう言うと、みんなの視線が一斉にあたしに向けられた。
「あ……あの……ミ……ミカ……バルキリアルです! え……と、騎士団のこととか、よくわかんないですけど……いえ……判りませんが……その……ご飯の支度とか、お洗濯とか、いろいろがんばりますので、よろしくお願いしますです!」
頭を下げる。あちゃー、なんか変なこと言っちゃったよ。怒られちゃうかな?
……と、思ったら。次の瞬間、部屋中笑い声に包まれた。
「まあ、そんなに緊張しなくて大丈夫だよ」
「すごくかわいい娘さんじゃないですか。本当に隊長の娘さんなんですか?」
「これからよろしく頼むよ、ミカ」
そして、笑い声は拍手に変わる。
……あれ? なんか、思ってたより和やかな雰囲気。騎士団だから、もっとピリピリしてるかと思ってたんだけど、みんな、いい人そう。よかった。あたし、ようやく肩の力が抜ける。これなら、うまくやっていけそうだな。
みんな立ち上がり、そして、言った。
「ようこそ! アルディア騎士団・第十五隊へ!」
…………。
そうだ。あたしはアルディア騎士団・第十五隊隊長・ルブド・バルキリアルの娘、ミカ・バルキリアル。
今から八年前、あたしが十二歳の時、父の部隊に入隊。と言っても、騎士とかではなく、騎士団の従者。みんなの食事の準備をしたり、洗濯や掃除、武具の手入れ、その他、いろんな雑用が仕事だった。
「おーい、ミカ! 戻ったぞ!」
「あー腹減った! 飯は何だ?」
廊下でみんなの声がした。どうやら演習は終わったみたいね。うん、タイミングバッチリ。もうすぐご飯も出来上がる。
「あ、お帰りなさい。今日はみんなの大好物、特製シチューよ。みんなお腹をすかせてると思ったから、いっぱい作ったの。いくらでもおかわりできるからね。もうすぐできるから、待ってて」
「お? 助かるぜ。ところでミカ、屋上に洗濯物が干しっぱなしになってるんだが……」
「大変! すっかり忘れてた! どうしよう? 今、手、放せないよ」
「ああ、いい。オレ達がやっておくよ。シチュー、焦げたりしたら大変だからな。おいみんな! 食事の前に洗濯物を取り込むぞ!」
みんな疲れきってるけど、文句を言いながらも屋上に上がっていた。
「あれ? 父さんは?」
あたし、父さんがいないことに気がつき、聞いた。
「ああ、隊長は会議に行ってる。少し遅れると思う」
「そっか。じゃ、父さんの分、残しとかないとね」
あたしはシチューが焦げ付かないよう、丁寧にかき混ぜる。父さんもあたしのシチュー、大好物だから、喜んでくれるといいな。うん。
やがて、みんなは洗濯物を持って下りて来た。各自、思い思いの持ち方で。もちろんたたまれてなんかいない。あーあ、ぐちゃぐちゃだ。自分達の物なんだから、きちんとたためばいいのに。もう。あとでシワ伸ばさなくちゃ。これ、かえって仕事増えたんじゃない? しょうがないな。
その頃、国はまだ平和だった。城や街の警備、そして、週に一度の演習が、騎士団の主な仕事。仕事中は厳しいみんなも、仕事が終わると別人のように優しくなる。あたしの母は幼い頃病気で亡くなった。長い間父と二人暮しだったが、それが、一気に二十人の大家族になったよう。大変だったけど、みんな優しく接してくれて、本当の家族のようだった。
でも、その日、父の出席した会議から、少しずつ、何かが変わり始めた。
「戦争? このアルディアが?」
父さんとあたしの部屋。あたしは聞きなれない言葉に、思わず声を上げる。騎士団に属していながら「戦争」って聞いてビックリするのもどうかとは思うけど。
「ああ、今日の会議で決まった」父さんは重苦しい表情で語った。「半年後をめどに、近隣諸国への侵攻を開始するらしい」
「な……なんで、そんな事に」
半分たたみ終えた洗濯物のことなんか忘れて、あたしは父さんに詰め寄る。せっかく積んだ洗濯物が崩れてしまったけど、今はどうでもいい。
戦争。そんなものが始まるなんて、思ってもみなかった。しかも、このアルディアから始めるなんて……。アルディアの騎士団は、国を護るために存在するのだと思っていた。専守防衛。だから、他国が侵攻してこない限り、戦争なんて始まらないはず。アルディアは、他国との関係はうまくいっている。戦争なんて、起こるはずはなかったのに。
「これは陛下の意思だ」
「陛下の?」
あの優しそうな陛下が? まさか?
アルディア王・ヘインズ九世。先代の王が病気で早くに亡くなられたため、三十五歳の若さで即位された。温厚な性格で、どちらかと言えば剣よりも本を好み、格技場よりも書斎にいる時間の方が多い、そんな人だったはず。
「三ヶ月ほど前から、突然、王は変わられたのだ。剣技の訓練や戦術の勉強をするようになり、最近では自ら進んで演習にも参加し、指示を出すようになっている」
……そういう噂は聞いたことがある。でもまさか、本当だったなんて。
「これから半年間は軍備の強化に努める。忙しくなるが、よろしく頼むぞ」
「そんな……戦争なんて……何とかならないの?」
「陛下の意思であり、閣議での決定だ。どうにもならんさ。それにな、父さんは、悪くないと思っている」
父さんの予想外の言葉。なんで? 戦争だよ? 死ぬかもしれないんだよ?
「お前には判らんかもしれんが――王たる者、全世界を我が物にしようと思うほどの野心が必要なのだ。確かに今、この国は平和だ。だが、一歩国の外に出れば、平和など無縁の国は多い。小さな戦争は各地で起きている。この国の平和も、百年二百年先は判らん。だがアルディアが世界を統一すれば、その戦争は無くなるかもしれないのだ」
「そ……そんなのただの理想でしょ? 本当に世界を統一できる保証なんて、どこにも無いじゃない!」
「もちろんだ。だがそれが陛下の意思である以上、我々は従わなければならない。まして、王城にこもり、報告だけを受けて自分は何もしないのではない。陛下自ら先頭に立ち、戦場に赴く覚悟なのだ。その想いに答えなければ、アルディア騎士団の名が廃る!」
父さんの決意に満ちた目。あたしに対してすまないと思いつつも、どこか嬉しそうな、そんな目を見ていると、あたしはそれ以上、何も言えなかった。
それから半年間は、本当に忙しい日が続いた。騎士団は、わずかな城の警備を残し、毎日、朝早くから夜遅くまで戦闘訓練。みんなクタクタで帰ってくる。食事の支度、洗濯、掃除、武具の手入れ。あたしの仕事も、日増しに増えていった。忙しいのはかまわない。でも、みんなが戦場に行く日が近づいて来ていると思うと、あたしはやりきれなかった。
半年後、アルディアの世界統一の戦いが始まった。
半年の軍備強化は功を奏し、アルディアは破竹の勢いで他国を侵略、制圧していった。幸い父の部隊はすぐに戦場に派遣されることは無かったけれど、戦火が拡大するにつれ、それも時間の問題だということは、あたしにも判った。
開戦から一年後、その日は来た。
「では、行ってくる。留守は任せたぞ。ミカ」
そう言って、父さんは馬上で優しく微笑んだ。身に着けた鎧、腰に携えた剣、手に持つ槍は、この日のためにあたしが磨き上げた。曇りひとつ無い。もちろん、父さんだけでなく、第十五隊、みんなの分。
「うん……行ってらっしゃい」
あたしは、父さんに心配をかけないよう、とにかく明るく微笑んだ。覚悟はもうできていた、と言えば嘘になる。本音はもちろん、行ってほしくない。でも、それはもうどうにもならない。あたしなんかにどうこうできる問題じゃない。あたしにできることは、笑顔で送り出すことだけ。
「しばらくお前の手料理が食べられないのが残念だ。まあ、それもしばらくの辛抱だな。帰って来た時は、特製シチュー、頼むぞ」
「うん。判った」
こうして父さんと第十五隊のみんなは、あたしを残し、戦場へと旅立っていった。
みんなが旅立った後は、今までの忙しさがウソだったかのように、何もない、退屈な日々が続いた。第十五隊の兵舎に誰もいなくなったんだから当然だ。あたしはとにかく、みんなが帰ってきたとき、気持ちよく迎えられるようにと、兵舎を掃除した。部屋を次々に掃除し、全部終えると、また最初から。それを繰り返す。でも、もともとあたししかいないこの兵舎が、そんなに早く汚れるはずもなく、それでも何度も何度も掃除を繰り返す。それがいかに無意味だったかは、あたし自身にもよく判っていた。でも、何かやってないと、ダメになりそうで恐かった。母が死に、しばらく父との二人暮しの後、ようやく手に入れた、あたしの家族。静かな兵舎で何もしないでいると、それが夢だったんじゃないかって、思えてくるから。
朗報が届いたのは、それからまた一年後。父の部隊は見事に勝利し、ようやく、帰郷が許された。
街門が開くと同時に、通りは、割れんばかりの歓声に包まれた。これから凱旋パレードが始まる。一年の長きに渡る戦闘に勝利した騎士団の帰郷に、国民は歓喜に沸いていた。
最初に門をくぐったのは、もちろんヘインズ陛下。陛下は今回の戦でも前線で指揮を務め、アルディアを勝利へ導いた。軍神ヘインズ。わずか二年でそう呼ばれ、自国では称えられ、他国からは恐れられる存在となった。
陛下の後に騎士団が続く。あたしはその中に、待ち焦がれた姿を見つけ。
「父さん!」
大声で叫んだ。でも、あたしの声は歓声にかき消され、父さんには届かなかった。けれど、父さんは群衆の中にあたしの姿を見つけてくれた。一年前と同じく優しく微笑み、そして、手を振った。父さんの後ろにはみんなもいる。二十人。誰一人欠けていない。よかった! 誰も死ななかったんだ! 本当に、よかった!
あたしは第十五隊が通り過ぎた後、その場を離れた。みんなの無事が判れば、こうしちゃいられない。みんなを迎える準備をしなきゃ。お風呂を沸かして、料理の支度。みんな今夜は飲むだろうから、お酒も準備しなきゃ。メインの料理は、もちろん特製シチュー。さあ、今日からまた忙しくなるぞ!
お城の兵舎に戻ったあたしは、さっそく準備開始。凱旋パレードはまだまだ続くだろう。みんなが帰ってくるには時間があると思うけど、やることもたくさんある。がんばらなくちゃ!
「戻ったぞおお! ミカあ!」
夜。兵舎にみんなの声が響く。一年ぶりの、みんなの声。
「おっっっかえりいいぃぃ!」
あたしは嬉しさのあまり駆け出した。一年間、本当に静かだったこの兵舎。これからまたしばらく、騒がしくなるんだろうな。エヘ。
あたしは二十人一人一人に抱きついて、無事を喜んだ。そして最後。父さん。
「ミカ、ただいま」
「――お帰りなさい」
……おっと、不覚にも涙が出てしまった。あたしは顔を伏せる。しんみりしてる場合じゃないよね。
「さ、さあ、みんな! お風呂もお酒も準備OKよ! もちろん特製シチューもね!」
あたしがそう言うと、兵舎は歓声に包まれた。
そしてみんな、鎧を脱ぎ捨て、我先にと、食堂へ走る。もう。久しぶりに帰ってみんな汗とほこりまみれなんだから、普通先にお風呂はいるでしょ。しょうがないなあ。
「ミカ。ありがとうな」
父さんが、あたしの肩に手をかけた。
「うん。父さんも、早く食べて」
「ああ、そうしよう」
そして父さんも食堂へ向かった。いろいろ話したいことはあるけど、今夜はいいか。しばらく時間はある。しばらくは……ね。戦争はまだ終わっていない。世界は広いんだ。しばらくすれば、またみんな行っちゃう。でも、今はそれは考えないでおこう。悲しくなるから。
さて! ボーっとなんてしてらんない。仕事はいっぱいあるんだから! まずはみんなの鎧を磨かないと。一年もの間、みんなの身を守ってきたんだから。感謝して、一個一個、丁寧に磨かないとね。もちろん、剣や槍も。明日は洗濯物がたくさんあるんだろうなあ。ああ、みんなすごい大騒ぎ。この分じゃ、食堂の後片付けも大変そうだ。でも、あたしの胸、今、すっごく踊ってる。忙しいのがこんなに嬉しいなんて、戦争が始まる前は思ってもみなかったよ。
よし、やるか!
と、気合を入れたその時。
突然の爆音とともに、兵舎が揺れた。
「何?」
危うく転びそうになったのを、何とか踏ん張る。食堂の騒ぎも一瞬で静かになる。みんな、何事かと、兵舎の外に出た。見ると、昼間みんなが凱旋パレードをした街門の方から、火の手が上がっている。黒煙が、暗い夜空にもはっきりと見えた。
「まただわ……」
あたしはため息とともにつぶやく。
「また?」
「うん。最近多いの。戦争に反対するグループの、こんな、破壊行為が……」
そう。アルディアは今、度重なる勝利に沸きあがっているけど、一方で、戦争に反対する人達も少なくはない。中には、このような行動で訴える人もいるのだ。半年くらい前から、その数が多くなってきている。
カーンカーン。お城の方から、非常事態を告げる鐘の音が聞こえてきた。
「なんだよ。せっかくのパーティーだってのに」
「文句を言うな。みんな、すぐに準備をしろ」
みんな休息を中断させられたことに文句を言いながらも、再び鎧を身に着ける。この鐘が鳴ったときは、いかなる場合でも、配置に付かなければならない。第十五隊は城の南側の警備にあたる。今火の手が上がっている街門とは反対側だ。まあ、多分何も無いだろう。今やアルディア騎士団は世界最強の騎士団だ。大半が戦場に赴いているとは言え、城の護りは完璧。この騒ぎを起こした人も、もうすでに捕まってるんじゃないかな? でも、守備を固めるのはすごく大事。それだけ、アルディア城が難攻不落だということを、見せ付けることができるんだから。
「ミカ。お前は城に避難しておけ」
「うん。そうする」
爆破されたのはそんなに近くじゃないけど、ここよりはお城にいたほうが安全だ。
「念のためにこれを」
そう言ってお父さんは、腰につけていた短剣を取り出した。
「え? こんなのあたし、使えないよ」
「念のためだ。何かの役に立つかもしれん」
刃渡り十センチほどの、細身の短剣だった。軽くて扱いやすい物なのだろうけど、刃物と言えば包丁ハサミ裁縫針くらいしか握ったことがないあたし。今でもたまに指を切ったり刺したりすることがあるくらいなのに、これが役に立つかな?
ま、いいや。どうせ何もないだろうし。あたしは短剣を受取り、父さんを真似て腰に吊るした。
「では、行ってくる」
「うん、気をつけてね」
そうして、みんな城の南側に走っていった。
みんなを送り出した後、あたしは城に急ぐ。あーあ。せっかく作ったのに、シチュー、冷めちゃうな。まあ、仕方ない。後で温め直そう。きっとその方が、味が深まるからね。
その時のあたしは、その事件は、いつもの小さな事件と同じだと思っていた。すぐに収まり、またみんな、兵舎で大騒ぎできるだろう。そう、信じて疑わなかった。
でも、違った。それは、いつもの反戦グループの無意味な破壊行為なんかじゃなく、この国を滅ぼす悪魔の襲撃、その始まりを告げる、合図だった――。
カツーン、カツーン――。
静かな通路に響くのは、悪魔の足音。あたしは、通路脇にある騎士像の陰に身を隠し、ただ、震えていた。足音はどんどん近くなる。悪魔はすぐそこまで来ていた。もう逃げられない。残された手段は、運良く悪魔に見つからないように、祈るだけ。
――どうして、こんなことになったの?
考えても判らなかった。反戦グループの無意味な破壊行為。いつものことだ。すぐに騒ぎは収まり、今回の騒ぎを企てた者は捕まり、その愚かな行為にふさわしい罰を与えられるだろう。そう思っていた。その罰がどんな物になるか想像し、あたしは、その人達に同情さえしたのだ。
しかし――。
何がどう間違っていたのだろう? 騒ぎは収まるどころか、どんどん、城へ近くなってきた。そしてついに城門が破られ、それは、城へ入ってきた。
信じられないことに――それは、たった一人の男だった。
悪魔――その姿を見た時、あたしはそう思った。全身黒ずくめの装備。それが、赤く染まっている。それは血の色。もちろん、悪魔自身の血ではない。ここに来るまでに、右手の剣で斬った者達の血だ。悪魔を捕らえようと、城内の兵士は次々と向かって行く。しかし、誰もその体に触れることすらできない。次々と、悪魔の剣の前に倒れていく。悪魔の体を染める血が、さらに増えていく。
城への避難。これは、完全に間違いだった。いまや危険は、城の内部にある。でも、一体誰に想像できる? 精鋭アルディア騎士団が、たった一人の男に、城への侵入を許すだなんて。
あたしは、逃げ遅れた。
足音は、ますます近くなる。
襲いかかる恐怖に耐えながら、あたしは、父さんのことを考えた。父さん――みんな。どうなったの? あの悪魔に立ち向かい、殺されてしまったの? そんな!
ううん。大丈夫。みんな、南側の守備に回っている。反対側だ。まだ、無事に違いない。
足音は、すぐそこまで来ていた。
――みんな、父さん、助けて!
目を閉じ、心の中で叫んだ。
ふいに、足音が消える。
あたしは大きく体を震わせる。
何故、足音が消えたの? どこかへ行ってしまったの?
そんなはずはない。
顔をあげたあたしの目に映るのは、冷たく見下ろす、血まみれの悪魔。
恐怖のあまり、言葉も出ない。ただ、震える。
悪魔の剣が動いた。
――父さん! 助けて!
心の奥で叫んだその時、それが天に通じたのか、通路の奥から、いくつもの足音が聞こえてきた。誰か来た! そして。
「ぬおおおぉぉぉ!」
気合とともに、新たな足音の主が、悪魔に剣を振り下ろした。悪魔の剣はそれを受け止めた。しかし体勢を崩し、二、三歩後退する。
「ミカ! 無事か?」
父さんの声。そして、みんなの声! よかった! みんな無事だった! みんな、来てくれた!
「うん! 大丈夫!」
希望を取り戻したあたしは、みんなの手を借り、立ち上がった。
「ここは任せて、お前は逃げ――」
父さんの頭が、地面に転がっていた。
…………。
……は?
意味が判らない。何? これ?
見ると、父さんだけじゃなかった。みんな、同じように、頭が地面に転がってる。
あは? 何の冗談? みんな。頭、落ちてるよ。もう、しょうがないなあ。ハンカチでも落としたみたいに、あたし、声をかけそうになった。頭なんか落としたら、みんな、死んじゃうよ……死んじゃう……。
…………。
みんな、おかしいよ。頭なんか落としたら、死んじゃう。でも……みんな落としてる。……そっか。おかしいのは、あたしの方。頭がくっついてる、あたしの方がおかしいんだ。頭が落ちてるみんなが普通。でも……ってことは、あたし、死んじゃうの? やだよ、そんなの。あたし、死にたくない。あ、でも、みんなが死んで、あたしだけ生き残るよりは、いいかな。ゴメン、みんな。あたし、死ぬね。頭がくっついてるから、死んじゃうの。でも、みんなは頭がくっついてないから、大丈夫。死なない。死なない! 死ぬもんか! 死んでなんかないもん!
――ミカ、逃げろ。
地面に転がる父さんの頭が、そう言っていた。
瞬間、あたしは駆け出した。もう、何も見えなかった。ただ、走って、走って、走り続けた。
悪魔は、そんなあたしに何の興味も示さなかった。彼の興味はただひとつ。アルディア王・ヘインズ九世の命だけ。
それでもあたしは、走るのをやめない。いつの間にか城を出て、街を飛び出しても、それでも走り続ける。城から、あの悪魔から、逃げたいわけじゃない。現実から、逃げたかったのかもしれない。みんなが死んだという現実から。あたしは走り続ける。肺が新鮮な空気を求め、心臓が体力の限界を訴えても、あたしは走るのをやめなかった。ただただ走り続け、どれくらい走ったか、どこまで走ったのか、もう判らないけど、何かにつまづき、転んだところで、走るのをやめた。やめざるを得なかった。立ち上がる事ができなかったから。大きく息を吸い込む。急激に取り込まれた新鮮な空気に、体が拒否反応をおこした。咳き込む。声は出ない。代わりに、涙が出てきた。肘と、膝と、顔を、擦りむいていた。血がにじんでるけど、痛くはない。何も感じない。痛いのは、心だけ。父さん、みんな、死んだ。あの悪魔の剣の一振りで、死んじゃった。やっと帰ってきたのに。ほんのわずかな間だけど、またみんなで暮らせると思ってたのに。なんで……こんなことに……。
あたしはその場に倒れたまま、肩を抱き、咳き込みながら、ずっと、ずっと、いつまでも、泣き続けていた――。
その夜、世界に名を轟かせた精鋭アルディア騎士団は、たった一人の男の手により、たった一晩で壊滅し、わずか二年で軍神とまで呼ばれたアルディア王・ヘインズ九世もまた、正体不明の戦士の剣の前に、あっけなく倒れた。王を失ったアルディアは急速にその勢力を失い、三ヶ月もかからずに滅亡。世界は平和を取り戻した。
世界を救った男。たった一人でアルディアに立ち向かった勇気と、それを成し遂げた強さを称え、人々は男のことをこう呼んだ。光の戦士・アレスタ・カミュ、と。
――アレスタ・カミュ。
でもその名は、あたしにとっては、憎むべき名前。あたしの仲間と、父さんの命を奪った、悪魔の名前――。
故郷と家族を失ったあたしは、その後、旅に出た。
旅?
ううん。違う。旅なんかじゃない。ただ、さまよってただけ。居場所をなくしたから。
目的もなくさ迷い歩き、たどり着いた街や村で働いて、お金を稼いだ。宿屋や酒場の給仕やお皿洗い、大きなお屋敷のメイドとか、いろいろ。家事は得意だったから、そういう仕事は慣れたもの。でも、少しお金が貯まったら、すぐにやめて、別の街へ行く。同じ場所に、ずっと留まっていたくなかった。どこにいても、自分の居場所じゃない気がしてたから。そんな生活が四年。途中、バハムートという邪悪な竜が現れ、世界を滅ぼそうとしはじめたけど、どうでもよかった。世界が滅びようがどうしようが、あたしには関係ない。ううん。いっそ、滅んじゃえばいいのに。
その日、あたしはいつものように、ふらりと立ち寄った小さな街の小さな酒場で働いていた。小さい店のわりに客が多く、あたしは何度も、厨房と客のテーブルを往復する。休むヒマもない。でも、忙しいのはいい。嫌なこと、全部忘れられるから。
……お客さんも、きっとそうなんだろうな。嫌なことを忘れたいから、お酒を飲むんだ。嫌なこと。もちろん、バハムートのこと。
今日もみんな、バハムートのことを話してる。すでに、いくつかの国は、バハムートのせいで滅びた。次は自分の国かもしれないと、みんな、不安を抱いている。だから、お酒がよく売れる。ああ、やだな。だって、バハムートの話になると、その後絶対、あの話になるんだもん。
「……光の戦士アレスタ・カミュが、バハムートを倒してくれねぇかなぁ」
「そうだなあ。アルディアを滅ぼしたあの英雄なら、バハムートなんて簡単に倒せると思うんだがなぁ」
テーブルにビールのジョッキを置こうとした時、後ろの席の客がそう言った。
……ああ、だめだ。あたし、もうこの店で働けない。
あたし、ダメなんだ。アレスタ・カミュを英雄だの光の戦士だの言う人を、絶対に、許せない。そりゃ、アルディアは他国から見れば侵略国で、それを滅ぼしたあの男が英雄と呼ばれるのは仕方ないと思うけどさ。でも、でも! どうしても、許せないのよ!
だからあたし、振り向きざまに、手に持ったジョッキを、思いっきり、その客のテーブルに投げつけた。テーブルの上の料理皿が悲鳴を上げ、床に落ちる。客は驚いて立ち上がり、あたしを睨む。
「何しやがる!」
あたしはその客を睨み返し。
「アレスタ・カミュは英雄なんかじゃない! ただの、殺人鬼だ!」
「てめぇ」
客があたしにつかみかかってくる。厨房から店の主人が出てきて、それを止めた。もちろんあたしは謝ったりなんかしない。客の怒りは収まらず、そして、あたしは店を放り出された。
……またやっちゃった。
もう何度も、こんなことを繰り返してる。でも、後悔も反省もしていない。だって、許せないものは許せないから。でも、今回は初日からやっちゃったから、お給料、全然貰えなかった。泊り込みで働くつもりだったから、今夜の宿もない。ゴロゴロ。空が鳴ってる。見上げると、月も星も見えない曇り空。今にも雨が降り出しそう。そう思った瞬間、降り始めた。冷たい雨。すぐにどしゃ降りになった。まるで、今のあたしの心のよう。
あたしは雨の中、あてもなく街を歩く。歩き続け、やがて、街の真ん中を流れる川にかかる一本の橋を見つけ、その下に座り込んだ。髪も服も、もうぐしょぐしょ。体にぴったり張り付いて、気持ち悪い。ああ、あったかいお風呂に入って、あったかいシチューを飲んで、あったかいお布団で眠りたいな……。
…………。
……あれ?
顔をつたう雫。雨かと思ったら、涙だった。やだな。あたし、泣いてる。こんなこと、もう慣れっこだったのに。何で泣いちゃってるんだろう。
膝を抱き、顔をうずめ、あたしは泣いた。あの日、故郷と家族を失った、あの日のように。
……あたし、何で生きてるんだろう?
もう、あたしには何もない。家族も、故郷も、みんな無くなった。友達もいない。生きてる意味なんて、無いのに。
生きてる意味なんて……。
……ううん。
ひとつだけ、やりたいことがある。
腰に提げている短剣に手を当てた。父さんからもらった、あの短剣。ずっと持ち歩いてる。
アレスタ・カミュに復讐したい。この短剣で、あの男の胸を貫きたい。みんなの、あたしの、恨みを晴らしたい。
…………。
バカだよね、あたし。そんなこと、できるわけ無いのに。
相手は一人で五百人の騎士を殺した悪魔だ。そんな悪魔に、あたしなんかがかなうはずない。あたしに、そんな力があるわけ無いのに。
「――力が、欲しいですか?」
突然声をかけられ、あたし、驚いて顔を上げた。
いつの間にか、そばに男の人が立っていた。タキシードを着た男。男? ううん。女のようにも見える。若い人にも見えるし、老人のようにも見える。不思議な人。身体には雨粒一つついていない。この大雨の中、雨具もつけず、どうやって濡れずに、ここまで来たんだろう?
「力が欲しいなら、あなたに授けましょう」
その人は人差し指を立て、あたしに向けた。その指先がぼんやりと光ってる。見ていると、吸い込まれそうな光。でも、逆だった。その光は、あたしの中に吸い込まれるように、消えた。
「はい、これであなたは、力を手に入れました」
……何? この人。頭がおかしいのかな? 関わり合わない方がいいかも。あたし、適当に挨拶して、その場を離れようとする。
「信じられないなら、試してみますか? ……それ」
その人は左手を広げ、川に向かってかざした。すると、ポン、って小さな爆発が起こって、その後に、大きなヘビが出現した。
……え? ヘビ?
な……何なの? これ? 魔法?
大ヘビは鎌首をもたげ、牙を剥き、舌をチロチロ出しながら、あたしを威嚇する。
「手をかざしてください。早くしないと、襲われますよ。強力な毒を持っていますから、人間なんてひとたまりもない」
な……な……な……何言ってんの、この人? 何でそんなモン、あたしの前に出すのよ!あたしを殺す気?
シャーッ! 大ヘビがあたしに襲い掛かってきた。あたし、どうしていいか判らず、両手を向ける。
すると、両手から白い光があふれ出た!
へ? 何? これ?
白い光は大ヘビを包み込む。大ヘビの動きが止まった。そして次の瞬間、パタリと倒れた。
……何? まさか……死んだの?
「それが、あなたにあげた力です。あらゆる生物の、魂を抜くことができます。つまり――誰でも殺すことができますよ」
――――!
な……何バカなこと言ってんの? この人、やっぱり頭がおかしいよ!
で……でも……。
確かに今、あたしの手から白い光が出たし、その光に包まれた大ヘビは、ピクリとも動かない。死んでるとしか思えない。
じゃあ、まさか……まさか! ホントに?
「使い方は、あなたに任せます。うまくすれば、英雄にだってなれますよ。なぜなら、その力を使えば、あのバハムートだって倒せますから」
――そ、そんなにすごいの? 世界を滅ぼそうとしている、あのバハムートを倒せる? すごい! すごいよこの力!
あ、でも。
バハムートなんて、どうでもいい。この力、使うとしたら、ただ一人。
「あの……この力、人間にも、使えますか?」
恐る恐る、あたしは聞いた。その人はにっこりと微笑んで。
「もちろん、使えますよ。人間にも、ね――」
その言葉を最後に、その人はいなくなった。
なんだったんだろう? あの人は。判らない。判らないけど、それは問題じゃない。あの人の正体なんて、別にどうでもいい。
あたしは、両手を見つめる。
あは……あはは……。あたし、すごい力を手に入れた……。父さん……みんな……あたし、仇を討てるかもしれないよ。あいつを……あの悪魔を……アレスタ・カミュを! 殺せるかもしれないよ! あはは……あははははははは!
雷鳴轟く漆黒の空に、あたしの笑い声が吸い込まれていった――。
「――ミカ、大丈夫か?」
「――――!」
不意に肩に手を置かれ、あたしは、反射的に振り払った。
「――おい?」
アレスタは驚いて、あたしを見る。
アレスタ・カミュ――!
全身に、殺意がみなぎる。
そうだ。思い出した。あたしは、ミカ・バルキリアル。あたしの目的は、アレスタ・カミュを殺すこと。この力は、そのためのもの――。
「どうした?」
心配そうな表情で、あたしを見るアレスタ。
…………。
急速に、殺意が消えていく。記憶が戻っても、記憶を失っていた間の記憶は、消えなかったから。今まであたしを助けてくれたアレスタを、ここまで導いてくれたアレスタを、あたしに優しく微笑んでくれたアレスタを、覚えているから。
「……なんでもない。なんでも。記憶、戻ったよ……全部思い出した。ゴメン、ちょっと、混乱してて。うまく話せそうに……ない」
「そうか。そうだな――」
「うん。ホントにゴメン。心の整理がついたら、全部話すから」
「じゃあ、とりあえず行くか」
「そうだね」
あたし達は、ガーランドさんの書庫を出た。
心の整理がついたら――あたしは、どうするだろう?
…………。
☆
「…………」
「…………」
「明奈、次のをくれ」
「ん。じゃ、これ」
明奈は、「第八章・心の封印」を、俺に渡した。
「ちなみに八章の次が終章だからね」
「お? そうか。じゃあ、あと二章だな」
「うん」
いよいよクライマックスか。よし、読んでみるか。