どうやら俺の婚約者は化け物だったらしい
正直あまり自信がないですが、楽しんで頂けたら嬉しいです。
―――グシャ、ガギッ…………ドバッ………
この世のものとは思えない歪な咀嚼音が屋敷の室内に響き渡る。
急いで音が聞こえた方に目を向けると、そこには見るのも憚られるような惨状と化した光景が広がっていた。
血、血、血。部屋の何処を見渡しても視界に写るのはそれだけ。
鮮やか色の絨毯も、真っ白だった綺麗な壁も、全てが真っ赤に染まっている。棚や机の上に並べられてあった調度品は粉々に破壊され、その破片がそこら中に飛び散っていた。
―――何だ、これは
まさに地獄絵面と呼ぶに相応しい光景。ここがついさっきまで自分が楽しく過ごしていた場所だとは到底信じられない。どうしてこうなったのか、たった数刻の間に何があったのか、そんな疑問が頭の中を駆け巡る。
急激に速まる心臓の鼓動をどうにか抑えながら、俺は部屋の中央、この惨状を作り出したであろう存在へと視線を移した。
それは人間の死体に覆い被さっている血濡れた一人の少女。
月光のように煌めく銀色の長い髪に、雪のように真っ白な肌、そして思わず見入ってしまいそうになる幻想的な雰囲気。
顔や表情は見えなくても、その少女が神々しい美しさを持っていることは分かる。
それとは反対に、形からして男のものでろう死体は思わず目を顰めたくなるほど無残な姿へと変わり果てていた。
頭部は完全に潰され、四肢は普通ならありえない方向へと折れ曲がっていて、最早その男が誰なのか特定するのは不可能に近い。無数の裂傷が刻まれた身体からは夥しい量の血がたらたらと流れている。
けれど本当に目を向けるべきなのはそこではない……。
―――少女は死体を喰らっていた。まるで血に飢えた怪物が獲物を捕食しているかのように。
その信じられない光景を見た瞬間、俺は驚愕に目を大きく見開いた。
同時に凄まじい吐き気が込み上げてくる。無理もないだろう。何せ、まだ十代半ばくらいの幼い少女が同じ人間を喰っているのだ。こんな異常な光景を見て正常で居られる方がよっぽどおかしいと言える。
―――ふと、ある一つの可能性が頭に思い浮かんだ。
あまりにも現実味がなく、それでいて何よりも恐ろしい可能性。
俺はそれを必死に否定しながらも、少女に向けてゆっくりと歩き出した。
その間、少女は悪魔に取り憑かれたようにただひたすら死体に喰らい付いている。
肉を喰い千切り、骨を噛み砕き、血肉を喰らうその様はまさに怪物そのもの。俺は人生のおいて初めて恐怖というものを感じた。
一歩、また一歩距離が縮まっていく。
けれど、あと数歩というところで、少女は俺の存在を感じ取ったのかハッと振り返った。
そして俺の姿を目に捉えると、その表情は確かな絶望で染め上がり、怯えたように小さな小さな声でポツリと呟いた。
「…………どうして」
少女の顔が見る見るうちに青ざめていく。その様子はまるで…………そう、まるで今までずっと隠してきた事が見つかった時のように。
はは………。
思わず笑いが込み上げてきた。まさかあの馬鹿らしい想像が本当に当たっていたとは…………。
もしこの世界に神なんて存在がいるとしたら、そいつはとんだ悪戯好きらしい。
俺は自分の足元で恐怖と絶望に打ちひしがれている銀髪の少女―――いや、最愛の婚約者を見つめながらそっと彼女の名前を呟いた。
「エレイン……………」
―――ああ、どうやら俺の婚約者は人喰いの化け物だったらしい。
*****
ソリュートス家は建国当時から長年に渡って国を支えてきた名家である。
王家でも随一の発言力を持ち、特に軍部においての影響力は王家にも勝るとも劣らない。戦争が起これば即座に軍を率いて戦い、その圧倒的な強さをもって幾度となく自国に勝利をもたらしてきた。その為、いつしかソリュートス家は『王国の剣』と謳われるようになる。
そして、そんな名家の後継者である俺ことノア・ソリュートスの人生は生まれた時から全て決まっているようなものだった。
別にそのことに対して不満はない。
時々厳しい面はあるものの確かな愛情を感じさせてくれる両親、いつも優しく接してくれる周りの人達、そして親友であり、将来は右腕として仕えることになるであろう王太子のウィリアム殿下。
そんな人達に囲まれた俺は案外幸せ者だったと言える。
けれど、この息苦しい生活に耐えられた一番の理由は何かと問われれば、それは間違いなく婚約者である彼女の存在があったからだろう。
エレイン・ウィクトリア。
それが彼女の名前。この王国の王族であり、今は亡き王弟夫妻の唯一の子供である。
初めて彼女が自分の婚約者だと聞かされた時、正直俺はそのことに関心も抱いていなかった。
単純に興味が無かったというのもあるが、王国の大貴族ましてやソリュートス家の後継として生まれた以上、いつか自分の意思関係無く政略結婚をさせられるのは目に見えている。
ならいっそ、無関心を貫くのが互いの為だろう、そう考えていた。
その考えが粉々砕かれたのは、彼女と初めて会った時のこと―――
「貴方、ホント癪に触るわね」
突然、彼女は吐き捨てるようにそう言った。
「その感情を写さない表情も、つまらなそうにしている目も、何に対しても興味なさげな態度も、全部全不快でしかないわ。貴方を見ているだけでイライラで頭がおかしくなりそう。こんな人と婚約しなければならない何て、私の人生もここで詰みのようね」
銀色の長髪に触れながら、次から次へと不満の言葉を放つエレイン。その表情は酷く不機嫌そうで、切れ長の目はより一層鋭くなっている。
………はは、まさかこんな事を言われるとはな。本来ならここで何か言い返すべ気なのだろうが、生憎俺は笑いを堪えるに必死になっていた。
その様子を見て、エレインは僅かに懐疑的な表情を浮かべる。
「あら、私みたいな淑女に罵られて、ついに頭が可笑しくなってしまったの?まあ、所詮は大貴族のボンボンなのだから無理もないと思うけれど……」
「……………」
「何も言い返さないってことはまさか図星なの?それともただ度胸がないだけ?まあ、どちらにしても男として不甲斐ないことは確かね」
まさに息を吸って吐くかのように続く罵倒の嵐も、ここまで来れば感嘆の域である。
ここは無理に何か言おうとせず、ただ黙って見守るのが正しいだろう。それに恥ずかしさを紛らわそうと必死になって言い繕っている彼女の姿は見ていて面白い。
「大体貴方、あのソリュートス家の後継なのだからもっとしっかりしないとダメでしょ。み、見てくれと実力だけは本物なのだから、貴方なら努力すればすぐに出来るようになるわ。こ、これからは、わ、わわわわわっ私が直々にっ色々教えてあげるから、最低週に一回は王宮に来て!!!い、良いわね?!!!」
表情はどうにか誤魔化しているが、エレインの耳元は林檎のように真っ赤になっている。これはもしかしなくてもツンデレという奴なのではないだろうか。
――――まあ、どちらにしても今後の俺の人生は少し期待出来そうだ。
「ええ、勿論です、エレイン殿下」
そう言って、俺は愛おしい婚約者の手の甲にそっと口づけをした。
………その瞬間、思いっきりビンタをされたのは言うまでもないだろう。
それからというもの、俺は彼女の言い付けを守り頻繁に王宮に出向くようになった。
それまでは退屈でしかなかった王宮が、いつ間にか安らぎの場所に変わっている。彼女と出会う前は考えられなかった事だ。
そして一年、また一年と時間を過ぎて行き、いつしか俺は自分でも信じられないぐらい彼女を溺愛するようになった。
いや、むしろ溺愛と言うのも生易しい、執着にも似た醜い感情なのかも知れない。
彼女と数日会わないだけで不安になるし、ましてや自分ではない誰か他の男と話していたら、イライラが止まらなくなる。護衛の男と親しげに会話しているのを見た時は、いっそのことその男を殺してしまおうかとすら思った。
認めよう、俺は狂っている。
とりわけエレインの事に関して言うなら、大量殺人鬼や独裁者にも劣らないだろう。
だから、もし彼女に危害を加える者、俺から彼女を奪おうとする者が現れれば、俺はどんな手を使ってでもそいつを排除する。それが何処の誰であろうと、だ。
「エレイン殿下」
俺がそう呼ぶと、彼女はいつも子供っぽく頰を膨らませる。
「もう!二人でいる時は呼び捨てで良いって、何度言えば分かるの??」
「…………ああ、そうでしたね」
「ああ、じゃないわよ!もう良い加減にしなさい、ノア!!」
「分かったよ、エレイン。これでいいか?」
「………………」
「どうした、そんな顔を赤くして?」
「なっ!!なんでもないわよ!!別に赤くなんてなってないわ!!」
「いや、何処からどう見ても…………」
「うるさいっ!!ノアなんて大っ嫌いよ!!早くどこか行って!!!」
「…………ぷっ、ぁはははははははは!!」
「何笑ってるのよ??!!ノア、こっちに来なさい!!!」
――――ああ、心の底から思う。この日々がずっと続けばいいと。
けれど、現実はいつも残酷なものである…………。
*****
「『喰種』なのか?」
長らく続いた沈黙を破るかのようにして、俺はそう口を開いた。
対して、エレインはビクリと身体を震わせると、突如大粒の涙を流し始める。その様子からして俺の問いが正しいことはほぼ間違いだろう。
喰種とは、その名の通り本能的に人間を捕食する悪魔の一種である。
その見た目は人間と変わらず、何の問題もなく社会で暮らしていけるが、一度感情が昂ぶると、理性を抑えきれず、そのまま捕食行動を取ってしまうと言う。その為、多くに人間から恐れられていると同時に、忌み嫌われている。
ただこれらの情報は過去の伝承から伝わったものであり、実際に本物を目撃した者ほ殆どいない為、その実情は未だに謎に包まれたままである。
そして、そんな存在が今目の前にいて、しかも自分の婚約者だったという事実に俺は凄まじい衝撃を感じていた。例えるなら、そう鉄の鈍器で頭を思いっきり殴られた気分だ。
すると、エレインは子供のように泣きじゃくりながら必死に言葉を発した。
「…………ご、ごめっん、なさい………」
「…………………」
「い、今まで、ずっと隠してて、ごめんっなさい!ずっと、ずっと言わなきゃ駄目って、分かってたのに!!でも、貴方にっ、嫌われるのが、怖かった!!!もし、貴方に嫌われたら、どうしようって!!だからっ、言えなかったっ!!!」
「…………………」
「貴方にだけはっ、ノアにだけはこんな姿見られたくなかったっ!!!なのに、なんでっ!!!なんでいつもこうなるのよ!!」
自暴自棄になってしまったのか、エレインは悲痛の叫びを上げながら血に染まった手で自分の髪を掻き毟った。その表情は苦痛で歪み、今にでも壊れてしまいそうである。
このままでは取り返しの付かない事になるかも知れない。俺は急いで彼女の手を掴み、これ以上暴れさせないようにした。
途端、エレインは俺に懇願するかのように言った。
その足元には相変わらず無残な死体が転がっている。
「ノアっ、ぉ願い、私を見捨てないでっ………貴方に捨てられたら、私、生きてぃけない………好きなの………愛してるの………だから、お願いだから、そばに居させて…………」
今まで何度訊いても決して素直に言ってくれなかった「愛してる」という言葉。
我が儘で頑固な彼女のことだから口にすることはないだろうとずっと思っていたが、やっぱりこうして聞けると嬉しい。
今こんな状況で言うのは不謹慎かも知れないが、俺は少なからず感動を覚えた。
…………………ヤバい。口元のニヤケが止まらない。
そうか。エレインは俺を愛してるか。泣いて懇願する程までに俺を愛してるいるか。
―――なら、当然答えは決まっている。
俺は彼女の前でしゃがみ込み、血に染まった彼女の頬をそっと撫でながら言った。
「ダメだ」
その瞬間、エレインの顔が絶望に染まる。
う?……………ああ、どうやら彼女は勘違いをしてしまったようだ。まあ、紛らわしい言い方をした俺が悪いのだろうが…………。
ここは早く言い直して誤解を解くべきだろう、そう思い俺は再び口を開いた。
「ダメだぞ、エレイン。せっかく喰うんだったら、もっと健康そうな奴にしないと。もし病気にでもなったら、どうするんだ?」
「…………え」
俺がそう言うと、エレインはどうしてか不思議なことに驚きで目を見開いた。
あれ?俺何か間違ったこと言ったか?
まあ、天然なエレインことだから、気にしてもしょうがないだろう、内心そう結論づけて俺は言葉を続けた。
「それにこういうことはちゃんと言ってくれなきゃ困るぞ。これからは時々食料を確保しなきゃならないんだから。普通の罪人にしようにも安全面で色々と不安が残るし、かと言って一般市民を選ぶ訳にもいかないしなぁ」
「………………」
「ああ、後もう一つ。もう直ぐ俺達は結婚して夫婦になるんだから、こういう隠し事はなしにすべきだと思うんだ。ただ今すぐは難しいと思うから、少しずつ二人で直して……………って、どうしたんだ、そんな鳩が豆鉄砲を食ったような顔して?」
俺が我を忘れて熱弁している間、ずっと驚きで固まっていたエレイン。その瞳は大きく見開かれ、信じられないと物語っているようだった。
そしてエレインは震える口をどうにか動かしながらそっと呟いた。
「い、いて………良いの?こんな私でも、貴方のそばにいて良いの?………わ、私みたない、ば、化け物が貴方とい、一緒にいても良いの?」
……………はあああ、何を言い出すかと思えば、そんなくだらない事だったなんて…………。
俺はあまりの馬鹿馬鹿しさに呆れて、一度大きく溜め息を吐く。
エレインは何も分かっていない。もう十年近くも一緒にいるのに何一つ俺という人間を理解していないようだ。
だが、まあ今はいい。もし理解していないと言うなら、無理矢理分からせるまでだ。
「ああ、当たり前だ」
「………………」
「むしろ、力ずくでもい一緒に居て貰うぞ。もしエレインが自分を化け物って呼ぶんだったら、俺はそれを閉じ込める檻だ。どれだけ泣き叫んだって、どれだけ俺から逃げようとしたって、もう決して逃しはしない。これからもずっと俺だけを見て、俺だけを感じて、その命が尽きるまで一緒に生きてもらう。いいな?」
「…………ぅ、うっ、うん」
「そうだ。分かればいい」
喜びが溢れ出てくるのか、歓喜に震えながら小さく頷いたエレイン。その姿があまりにも愛しくて、俺の理性はいとも簡単に吹き飛んだ。
俺は咄嗟に彼女を肩を抱き寄せ、そっと彼女のピンク色の唇に口付けする。
「ッ!!!!!!!」
ただ唇同士が触れるだけの口付け。
それでもエレインにとっては少し刺激が強すぎたようだ…………。
口付けをされたのだと理解した途端、彼女の顔は林檎のように真っ赤に染まり、目をグルグル回して慌てふためく。
その様子が面白くて、俺は悪戯が成功したかのように意地悪な笑みを浮かべた。
それにしても―――――――
キスって思ったより血の味がするんだな…………。
こうして一連の騒動は一先ず決着を迎えた。
後日聞いた話によると、エレインは純血の喰種ではなく喰種と人間のハーフだそうだ。
彼女の父親である王弟殿下は亡くなる数年前までずっと大陸中を旅していたらしく、その途中で出逢った女性との間に出来た子供がエレインらしい。当初、その女性は自分が喰種であった事を隠していたみたいだが、妊娠が分かったのを機に打ち明け、王弟殿下は驚きながら快く彼女を受け入れたのだという。けれど、エレインが産まれて数年が経った頃、女性は流行り病で倒れ、王弟殿下もエレインを王宮に預けたのち彼女の後を追うようにして命を落とした。その結果、エレインは自分の正体を誰にも打ち明ける事が出来ず、今になるまでずっと孤独な日々を送ることになってしまったのだ。
しかし、幸か不幸か今のエレインに自分の過去を気にした様子はあまりにない。
どうしてなのか訊いてみると、彼女はモジモジしながら消え入りそうな声で「ノ、ノアが居るからにき、決まってるじゃないっ…………」と答えてくれた。その時の俺のニヤケ具合といったらもう目も当てられないだろう。
以前とは違い、ツンとデレで明らかにデレの割合が大きくなったエレイン。やはり、不本意ではあるが自分が喰種である事を俺に打ち明けられたのは大きくかったらしい。まあ、俺的にも素直に甘えてくれ方が嬉しいので大歓迎なのだが…………。
因みに、エレインの喰種としての本能にどう対応したかについてはご想像にお任せしよう。色々と口に出してはいてない事もあるからな…………。
そうして何事も無く数年の時が流れ、俺とエレインが二十歳に差し掛かった頃。事態は突如誰もが予想だにしなかった方向へと動き始める。
*****
王城のとある一室。
この日、俺はある人物から大事な話があるという理由で呼び出されていた。
「失礼します」
軽く一礼してから室内に入る。すると、静かな佇まいで椅子に腰掛けながら本を読んでいた一人の優男が手を振って俺を出迎えた。
「わざわざ来てもらって悪いな、ノア。座ってくれ」
そう笑みを浮かべながら言ったこの男こそ、俺の幼い頃からの友人であり、そしてこの国の王太子でもあるウィリアム王子だ。
金色に輝くサラサラの髪と、まるで芸術品のように整った顔立ち。その姿は王族らしい気品に溢れ、何度見ても思うがまさに王族という存在を体現したかのような人である。
内心早く帰りたい気持ちをどうにか抑えながら、俺はウィリアム王子の方へと歩き、彼の向かいにある椅子にゆっくりと座った。
「それで今日はどうしたのですか、殿下?」
「う?久しぶりに会ったのに世間話の一つもしないつもりなのか?」
俺が早速本題に入ろうとした事が気に障ったのか、ウィリアムは不満気な顔をする。それを見て、俺心の中で溜め息を吐いた。
幼い頃から神童と呼ばれ民からの支持も厚いウィリアムだが、何か気にくわない事があるとこうして不機嫌になる事が多々ある。王族なのでそうなってしまうのは当然かも知れないが、こちらとしては正直一々相手にするのは面倒だ。
「しないと言うより、する必要が無いと思いますが」
「はああ、全くお前は相変わらずだな」
やれやれと苦笑いを浮かべながら、呆れたように頭を抱えるウィリアム。しかし、直ぐに真剣な表情に戻すと、威厳を含んだ声で言葉を発した。
「まあ、今日はそっちの方が都合が良い」
「………と言うと?」
「今日呼び出した理由は他でもないエレインに関しての事だ。それに友人としての頼みというよりかは命令に近い。悪いが、嫌でも従ってもらうぞ」
「………彼女がどうかしたのですか?」
予想していたものとは違い、突然エレインの名前が出た事に驚く。話の先が全く読めず、俺は少し困惑気味な表情を浮かべた。
まあ、心当たりがあるか無いかで言われればあるのだが……。どうやら、少し警戒しておく必要がありそうだ。
そして、ウィリアム殿下は椅子から立ち上がり、声を高らかにして言い放つ。
「ノア、お前には直ちにエレイン・ウィクトリアとの婚約を破棄してもらう。そして準備が整い次第、彼女を国家反逆容疑で拘束しろ!」
――――落ち着け。
そう何度も何度も頭の中で自分に言い聞かせる。もし万が一にでも此処で怒りに呑み込まれてしまえば、後々取り返しなのつかない事になる。心の奥底から湧き上がる激情を必死に抑え込みながら、俺は絞り出すかのように呟いた。
「……………反逆容疑とは、どういう事でしょうか?」
俺がそう言うと、ウィリアムはフンと鼻を鳴らし心底不快そうな表情を浮かべる。
「…………はっ、分からないなら教えてやろう。エレインは、いやあの女は喰種だ!!人間ですらない化け物だ!!」
やはりか……………。
ウィリアムの口からエレインの名前が出た時点で少し嫌な予感はしていたが、まさか本当に当たっていたとは。
だが、問題なのはエレインの秘密が知られた事より、どうしてウィリアムがそれを知ったのかだ。色々と証拠隠滅に手を尽くしたので、偶然と言うこともないだろう。何かきっかけがあるはず、俺はそう結論付け、なるべき無表情を保ちながら問いを投げかけた。
「………………どうして彼女が喰種だと思うのですか?殿下のことですから、何の利用もなくこんな馬鹿げた事を言うとは思いませんが…………」
「数週間前、かつて叔父が旅をしていた地方を視察している時に風の噂で聴いたのだ、エレイン・ウィクトリアは喰種なのではないか、とな。私も最初は耳を疑った。だが、気になって部下に調べさせてみれば、その地方ではエレインが産まれるとほぼ同時期に数十もの人間が突然行方不明になっている事が分かったのだ」
「……………」
「それから更に調査を進めてみると、エレインの母親にあたる女性、エレノーラが喰種である事が判明した。そうなると、エレインが喰種であると言う噂も確かだろう」
…………もうこれは誤魔化しが効きそうにないな。エレインを罪に追いやるだけの証拠も揃っているし、何よりウィリアム自身がそうする事にかなり積極的だ。
それに今までの様子からして、ここで俺が何を言っても聞き耳を持たないだろう。
俺は大きく溜め息を吐き、一度態勢を整えた。それを見て肯定した受けたったのか、ウィリアムは再び立ち上がり言葉を続けた。
「諦めろ、ノア。十年近くも婚約していたから信じられんかもしれんが、お前の婚約者であるエレインは人喰いの化け物だ。人を喰らってしか生きれない醜い怪物だ。そんな存在をこれ以上王族の一員にしておく訳にはいかん」
――――ああ、ようやく理解した。
「それに昔からあいつは気に入らない女だった。高々王弟の娘の分際で王太子である私の顔を立てる事なくいつもいつもやりたい放題。学業や剣術では直ぐに私の上を行き、国民の支持もここ数年で伸びて来ている。その結果、この私よりあの女の方が次期国王に相応しいのではないかと言い出す貴族共も出始めた。挙句の果てには、王位を狙っているかのような素振りすら見せている」
――――目の前にいるこの男は、ウィリアムは………
「ノア、聞け。あの女は薄汚い笑みを浮かべなら万人を騙す悪魔だ。このままいつか必ず王国に災いを齎す。そうさせないために何をするべきなのか、王国の剣ソリュートス家のお前なら誰よりも分かっているはずだ」
――――間違いなく俺の敵だ。
「我が剣ノア・ソリュートス。偽りの王族エレイン・ウィクトリアを捕らえ、直ちに始末し――――」
その瞬間、パチンッと何かが切れたような音がした。
「黙れ、三下」
気が付くと、自分でも思わず耳を疑ってしまうほど冷たい言葉が口から零れていた。
それと同時に大瀑布の如く常軌を逸したプレッシャーが室内を襲う。その影響で空気が急激に凍っていき、まるで時間そのものが停止してしまったかのようにこの場から全て音が消えた。
一方で、ウィリアムは突然の俺の豹変が信じられないのか、呆然とした様子で俺を見ている。けれど数秒が経ち、ようやく俺の言った事を理解すると、ワナワナと身体を震わせながら額に青筋を浮き立たせて激しい怒鳴り声を上げた。
「ききき貴様っ!!こ、この私に向かった!!自分が何を言ったのか、分かって――――」
「黙れ、と言ったのが聴こえなかったのか?それとも二度言わないと分からないほど馬鹿なわけ?」
あまりの不遜な物言いにウィリアムは唖然とし言葉を失う。
まさか友人であり右腕だと思っていた俺にこんな言葉を言われるとは思っていなかったのだろう。
明らかに血走っているその瞳には強い怒りの感情と、僅かな絶望が混在している。
「ノアッ!!!良い加減にしろっ!!!いくらお前であってもこれ以上の狼籍は見逃せんぞ!!今すぐ頭を垂れて謝罪するというなら、聞かなかった事にしてやる。だが、もしそれが出来ないというなら、その時はソリュートス家共々お前を罰することになるぞ!!」
王族という身分を使って脅せば何でもいう事を聞かせられると思っているのか、ウィリアムは余裕そうな笑みを浮かべる。
逆に俺は自分の心がどんどん冷たくなっていくのを感じた。馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、まさかここまで愚かだったとは。
確かに王族が一番の権力者だという考えはどこの国にも共通するものだ。
けれど、"例外"というのはいつも存在する。
ソリュートス家は建国から今に至るまでの数百年の間ずっと大した軍事力もないこの国を他国の侵略から守護してきた。
それはつまり、逆に言えばソリュートス家がいなければ国はとっくの昔に滅亡していたか、大国の属国になっていたということ。そうして歴史的な背景から考えて、王族がソリュートス家よりも強い権力を持つというのはどう考えてもあり得ないことだ。
けれど、ウィリアムは自分が王族であるという表面的な事実しか受け止めていないせいか、物事の本質が全くと言っていい程見えていない。
……………どうやらこれまでずっと俺はウィリアムという人間を過大評価していたらしい。
「好きにしろ」
凄まじい殺気を放ちながらそう言った俺に、ウィリアムは思わずゴクリと息を呑む。
予想していた反応とは違っていたのだろう、さっきまで余裕そうにしていたウィリアムの目が瞬く間にして恐怖一色に染まる。
「ど、どういう意味だっ?」
「どうもなにも、そのままの意味だよ」
「………………」
「エレインを陥れようとした以上、お前はもう俺の敵以外の何者でもない。そして敵となったからには、どんな手を使ってでもお前を排除する。俺の為に、そしてエレインの為にな」
「なっ!!ノア、貴様正気か??!!王族を、国全体を敵に回して本当に無事でいられると思っているのかっ?!!」
「それはこっちの台詞だ。たかだか王族の分際で誰を敵に回そうしているのか分かっているのか?付け上がるのもいい加減にしろよ。頭沸いてんのか、お前?」
俺が本気であると気付いたのだろう。きっぱりと告げた言葉にウィリアムは一度目を大きく見開くと、やがて悔しそうな表情を浮かべてテーブルに勢いよく自分の手を叩きつけた。
ガトンッ!!!!
「失望したぞ、ノア!!!!まさかお前があの女にそこまでご執心だったとはなっ!!!!私の命令に従わず化け物と一緒にいる事を選ぶと言うなら、勝手にしろ!!!!!だが相応の報いは受けてもろうぞ!!もう後悔しても遅いっ!!」
報い、ね。…………それはまた大きくでたものだな。
「ノア・ソリュートス!!今この瞬間からお前はエレインと同様国家に仇なす反逆者だ!!!近衛兵、今すぐこの男を拘束しろッ!!!!」
ウィリアムがそう叫ぶと、部屋の近くで待機していたであろう十人ぐらいの騎士が武器を構えながら押し入ってきた。その洗練された無駄のない動きからして、恐らくは精鋭部隊の者達だろう。
……なるほど、一応俺が命令を拒否した場合に備えて、あらかじめ準備はしていたのか。どうやら完全な馬鹿ではなかったらしい。
だが、一つだけ言わなければならない事がある。
「なあ、まさかたったこれだけの戦力で俺をどうにか出来ると思っているのか?」
いくら精鋭部隊であったとしても、たったの十人で相手を出来ると思うのは、流石に過小評価が過ぎないだろうか。
そう思って不満を口にすると、ウィリアムは思惑通りとばかりにニヤリと口元を吊り上げる。
「どうやら気付いていないようだなっ!」
「………?」
「分からないなら教えてやろう。今この場にいる者達は全員が『精霊契約者』だ!!!お前達、見せてやれ!!!」
瞬間、騎士一人一人から膨大な魔力が溢れ出し何かの形を形成していく。そしてたった数秒も経たない内に数多く精霊達が出現した。
青い炎を全身に纏った凶暴そうな虎もいれば、人間の形に限りなく近いものもいるなど、その見た目は多種多様。けれど、どれも強力な精霊であると一目で分かる。
精霊契約者とは文字通り精霊と契約を成して、一軍隊にも匹敵するような強力な魔法を行使する者達のことである。しかし、その人数は世界的に見ても非常に少なく、各国に十人いるかいないかぐらいだと言われている。
そんな強大な戦力が自分の手元にあるからか、ウィリアムは勝ち誇ったような笑みを浮かべて自慢気に話し始めた。
「どうだ、ノア?ずっと黙っているが、まさか怖気付いたとは言うまいな。ほら、さっきまで威勢を私に見せてみろ。まあ、どのみちこれだけの戦力がいたら、どう足掻いたところで無意味だろうがな………。ああ、それにしても今は気分が良い。王国の剣などと呼ばれ付け上がっているお前に目のもの見せてやったのだからな。この者達さえいれば、私は十分他国とも渡り合って行ける。もうお前もソリュートス家も用済みだ!!やれ、お前達っ!!!」
ウィリアムは一人悦に浸かりながら、一気に腕を振り下ろした。すると騎士達は精霊の力を借りて魔法を発動しようと瞬時に動き出す。
俺はその光景をただただ興味無さ気に見ていた。それを怯えていると思ったのか、ウィリアムの笑みが一層深まる。
確かにこれ程までの戦力を揃えたのは素直に認めてやろう。もしこれが普通の人間だったなら、とうに決まっている。
――――だがな、お前は一つの致命的な可能性を見落としているぞ、ウィリアム。
―――どうして俺も精霊契約者であると考えなかった?
直撃したら確実に即死するであろう凄まじい威力の魔法が向かってくる中、俺はゆっくりと宙に手をかざした。
その瞬間、先ほどとは比べ物にならないぐらい魔力が一気に膨れ上がり――――
「来い、『暴食の悪魔』」
凄まじい爆発が辺りを包み込んだ。
「どうした?!!」
「何があったっ!!?」
「あの男は死んだのかっ??!」
無数の怒号が煙に覆われた室内に飛び交う。俺の死体を確認するまで安心出来ないのか、その声は若干焦っているようにも聴こえる。
しかし、徐々に煙が晴れていき視界が鮮明にならと、彼等は一斉に目を見開いた。
そこにいたのは――――
禍々しい漆黒に彩られた鱗を持つ双頭の大蛇と、それに護られているようにして立つ俺。
「な、な、なん、だっ、それは?あ、あり、えないぞっ!こ、こんな、こ、事があって、いい、訳がないっ!!!」
どこかの神話や伝承で語られるような怪物を前に、ウィリアムは足が竦んで全く動けないでいる。それでもどうにか逃げようとするが、椅子にぶつかって尻餅をついてしまう。
ははは、その姿があまりにも滑稽で、俺は思わず笑い声を上げてしまった。
正直、もう暫くこいつらの怯える姿を見ていたいが、そろそろ終わりにしてやるべきだろう。
俺は殺意に満ちた声でそっと呟いた。
「――――『暴食の悪魔』この場にいる人間を肉片一つ残さず全員喰い殺せ」
*****
月明かりが差し込む王都の街道を、一人の青年が狂気に染まった笑みを浮かべながら歩く。
「あああ、早く帰ってエレインに会いたいなぁ」
―――――そう小さく呟いた青年の背後には、業火の炎に包まれ今にも崩れ堕ちそうになっている王城があった。
もし時間があったら、感想、評価の方よろしくお願いします。