一瞬の宴が終わる時に流れていくもの…
夏の夜のことだった。遠い遠い彼方から微かに聞こえてくる音。カサコソ、カサコソ。でもそれは、俺が聞いている音ではない。俺の耳はそんなによくない。心に感じるのだ。胸に染み渡るのだ。相棒からのメッセージが。
俺たちは兄弟でもなければ、恋人でもない。それでも俺が相棒を感じることができるのは、俺たちが強く引かれあっているからだ。俺には相棒の興奮がわかる。
カサコソ、カサコソ。
相棒が感じる音。空気の振動となって伝わって来る微かな響き。
それは、長さ三センチほどの黒いタンパク質が奏でる足音だ。長いひげと細い足。体の周りはカルシウムで覆われている。
カサコソ、カサコソ。
そいつは相棒に近づいて来た。相棒の体に触れた。長いひげと一緒にぐっと頭を押し込んで、相棒の下に潜り込もうとしている。
そこじゃない。苦し気な相棒の声がした。そいつは、丸い相棒の体の周りをぐるぐると回り始めた…
俺たちは丸い。体は丸くなっている。真横から見ると四角形のように見えるが、真上から見ると明らかに丸い。しかも胴体の真ん中が丸く大きく窪んでいる。その窪みは普段は空洞だが、たまにそこに物が入って来ることがある。すると、俺たちは何ともいえない充たされた気分になる。ぽっかりと開いた空洞が満足感で充たされるのだ。俺たちは何時もその時を待っている。しかし、そんなことは滅多に起こらない。限られた時に起こる、一瞬の出来事だ。
そうだ、そこだ。やっと、そいつは相棒の空洞に向かって、相棒の体を登り始めた。頂上まで来ると、ひげを上下左右に動かして、その先に何があるかを探っている。空洞に降りて行くか、今来た道を引き返すか、迷っている。その時、そいつは空洞に残っている僅かな匂いに気付いた。それは、どうしようもない誘惑だった。匂いのする方へ、そいつは空洞の底へ降りて行った。
やった。相棒の興奮が伝わって来る。久し振りの出来事に胸を躍らせている。
逆さになりながら、そいつは空洞へ降りて行った。底に着くと、そいつはぐるぐると回って、匂いの正体を突きとめようとした。せわしなくひげを動かしている。だが、匂いの元になる物はない。何もないことがわかると、そいつは来た道を引き返し始めた。
やめてくれ。相棒の悲痛な叫びがした。
相棒の中から、三センチのタンパク質が消えていった。たった、三センチでも、少しでも、相棒は充たされたかったのに。後に残ったのは、そいつの僅かなアブラの匂いだけ。
でも、相棒だって、そんなに期待していた訳ではない。大体、この時期に充たされることがおかしいのである。楽しみは、まだまだ先だ。俺たちは、その時を待って、深い眠りに落ちていった…
秋の夜のことだった。虫の声が聞こえる。すすきが風にそよいでいる。実りの時がやってくる。
自分で言うのもおかしなことだが、僕はロマンチストだ。辺りが闇に包まれる夜が大好きだ。夜は静かで何だか空気が澄んだように思える。空を見上げれば、小さな点が一杯輝いている。きれいだな… その中に少し大きな丸いものが輝いている。僕と同じように丸い。でもそれは、何時も丸いわけではない。不思議なことに、半分になったり、細くなったりする。どうしてなのかわからない。
今日は丸いかなあ…
そう思いながら、夜空を見上げると、何かがおかしい。丸いものは光っている。でもその光の中にしみがある。
あれは、何だろう? そう思いながら、じっと見ていると、しみが少しずつ大きくなっていった。
しみが繁殖してる⁉ 白い光の中に、大きくなっていく黒いしみ。やがて、しみは何かの影のようになった。生き物のようだ。頭には二つの細長い突起。背中を丸めて、お尻には小さな膨らみ。手足は異様に短い。手には棒のようなものを持っている。僕がよく見る二本足の生き物とは全然違う。それに、その生き物の前には四角いものが置いてある。
あっ、生き物が動いた! じっと見ていたら、突然、生き物が動き出した。手に持っている棒を四角いものに打ちつけ始めた。
カンカンと鳴り響く硬い音、と身構えたら、やたらと拍子抜けの音がした。
ペッタン、ペッタン…
えっ、何の音? 四角いものの中に何かが入っていて、棒がそれに当たっているらしい。
ペッタン、ペッタン。その音が聞こえてきたら、今まで黒い影だった生き物に色がつき始めた。体全体は真っ白になって、細長い突起は少し赤みがかかってきた。顔のあたりには赤い目が二つできて、口元には黒くて細いひげが何本か生えてきた。
相変わらず手に持った棒を一生懸命に打ちつけている。ペッタン、ペッタン。
四角いものにも色がついてきた。すると、いろいろなことがわかった。四角だと思っていたのは実は真横から見た時で、少し角度を変えて上から見ると、それは丸い形だった。しかも真ん中が大きく窪んでいる。僕と同じみたいだ。でも、色は僕と違って茶色で、背が高い。その窪みの中に白くて柔らかそうなものが一杯入っていて、生き物が棒で打ちつけている。
いいなあ、あんなに充たされていて。僕は空っぽなのに…
ペッタン、ペッタン。それは幸せの歌のように聞こえてきた。なんか、自分も充たされていく感じた。なんて、ロマンチックな夜なんだろう…
今、俺は幸福で充たされている。待ちに待ったその時が、ようやくやってきた。三十八万キロ離れた相棒にも俺の喜びが届いているはずだ。俺の幸せの歌が。相棒よ、次はお前の番だ!
冬の夜のことだった。闇にうっすらと光が射し込む。何かに抱え込まれ、僕は久し振りに外に出た。寒いかもと思ったけれど、それほどでもなかった。
今日が何の日かわからない。でも、何かの日であるような気がした。思い出そうとしても思い出せない。これから何が起こるのかさえわからない。
まず、冷たい液体が注がれた。無色透明な液体だ。ひんやりしている。そこに茶色のぺらぺらした繊維が入って来る。
そうしたら、下の方が熱くなってきた。どんどん熱くなる。液体は少し泡立ち、繊維は緑に染まっていく。熱いのが少し和らいだ。繊維から茶色の液体が出ている。液体全体が少しずつ熱くなっていく。
それから先は凄い勢いだった。白くて四角いタンパク質が入ってきた。緑や赤や白い繊維が入ってきた。丸くて茶色の繊維もあった。ゼリー状の糸もあった。赤いタンパク質があった。殻を被ったタンパク質もあった。みんな一緒になった。みんな一緒に液体の中で熱くなった。
僕の中で、みんなが踊り狂う。上にいったり、下にいったり、大はしゃぎだ。みんな混ざって柔らかくなって、僕の中で溶けていくようだ。
その時、僕は充たされている。みんなの踊りが鳴っている。ぐつぐつ、ぐつぐつ…
おお、相棒よ。お前も遂に充たされたのか。ぐつぐつ鳴っているお前の興奮がわかる!
僕は何時も思い出そうとしている。前に何があったのかを。充たされたことがあったのかを。そんなことがあったかのような気もする。でも、思い出せない。誰かの歌を聞いたような気もする。楽しそうな歌を…
水はすべてを洗い流す。上から下に。洗われるものは、そうしてすべてを失っていく。皿だろうが鍋だろうが。洗われた後は何も残らない。充たされた跡は、決して残らない…