第86話 貪り食う
ケンがファビアンと共に【クリーチャーズ・ハウス】を出ると、出入口から数メートル先には既に馬車が停まっていた。
ごく一般的な形状の屋根付き客室を備えた馬車で、余分な装飾がないので地味な印象を受けるものの、かなり頑丈そうで細部に至るまで職人の仕事に抜かりはなさそうだ。
木製の車体には日常の手入れが行き届き、大きな傷や目立つ汚れは一つも見当たらない。
それを曳く2頭の馬はどちらも体格が良くて賢そうで、店の出入口から漏れる光を反射して艶々と毛が輝いていた。
「おお……! 本当に馬車がここまで。もしやとは思いますが……本当に問題になることはないのでしょうな?」
「ええ、ご心配には及びません。仮に道中で何か問題が発生したとしても、ファビアン様を煩わせることは決して致しません」
「いやいや、これは愚問でしたな。私はこう見えても心配症なもので、あらぬ疑いをかけてしまったことをお許し下さい」
ケンたちが建物から出てくるのを見た御者の男が、肥満体ゆえに段差に弱いファビアンを助けるため、馬車横の地面に木製の踏み台を置いた。
しっかりとした造りなので、2人分以上の体重がかかっても余裕で耐えてくれるはずだ。
踏み台の先にある客室のドアは少しだけ幅が足りていないようにも見えるが、体を横にすれば通れないこともないだろう。
「それではどうぞお乗りくださいませ、ファビアン様」
「では失礼して……よいしょっと」
のったりとした動作でファビアンが踏み台に足をかける。相手がご婦人ならば手を貸す場面だったが、相手がヒキガエルなのでそんな気は全く起きない。
ケンは、欠陥生物に対する冷やかな視線を気取られぬように口元を笑みの形に歪め、その状態でさり気なく周囲を観察する。
馬車を呼んでくると言い、ケンたちよりも一足先に建物の外に向かった盗賊の姿は見当たらない。だが、美味い料理と幻の酒への期待に浮かれたファビアンが、そんな些細な事を気にしている様子はなかった。
【クリーチャーズ・ハウス】の出入口近くに立つ店の用心棒たちは、怯えたような表情を浮かべて何も見ないふりだ。
呆れた職業意識の低さではではあるものの、それを責めようとは思わない。誰しも自分の身がいちばん可愛いのだし、雇い主の行動は誰かに強要されたものでもないのだから、彼らにできることは何も無いとも言える。
店の場所が貧民街からそれほど離れていない関係上、このあたりの治安はあまり良くないはずだが、馬車にちょっかいをかけるような奴は1人もいなかった。
それも当然かもしれない。窓に目隠しの板が取り付けられているような、これ以上はない危険な雰囲気を漂わせる馬車に手を出すような愚か者なら、とっくの昔に寿命が尽きている。
そうやって暇を潰していると、ファビアンが常人の十倍以上の時間をかけてどうにかこうにか馬車に乗り終えた。客室に設置された革張りの座席は、規格外の体重を受け止めても悲鳴を上げず健気に耐えている。
数十センチに満たない段差をたった2段上っただけなのに、ファビアンの額には汗の玉が浮かんでいた。乾いた喉を潤す酒は、さぞかし美味いことだろう。
ファビアンに続いてケンが客室に入り、ドアを閉め、席に座る。鈍重な先客とは違って、一連の動作を完了するまでに5秒もかからない。
ケンたちが乗り終わってからすぐに、御者の男が踏み台を回収し、御者台に上がって手綱を握る。すると賢い馬車馬たちは、合図を受けるまでもなくゆっくりと歩き始めた。
馬車の発進は滑らかで、客室の中には音や振動が全くと言っていいほど伝わってこない。
ケンが乗ったことのある普通の馬車は音も振動も酷く、椅子にはクッションなんて高級な物は付いていないから、1時間も座ったままでいれば痛みで尻の筋肉が麻痺してしまうようなものだった。
だが、この馬車ならば何時間でも乗っていられそうだ。
「いや、この馬車は素晴らしいですな。これまでに何度も、貴族の方が所有している馬車に乗せていただく機会がありましたが、こちらが圧倒的に上です。これほどの物を所有なさっている方とはいったい……?」
「ファビアン様を招くにあたり、用意できる物の中で最高級のものを選ばせていただきました。無論、料理についてもご期待くださいませ」
「ほほう! それは実に楽しみですなあ……やはり"女神の涙"ほどの酒と合わせるなら、料理も最上級でなければ釣り合いが取れません。良い酒には良い料理、それが存分に楽しむための秘訣ですからな!」
「はい、仰る通りでございます」
ファビアンという男は、美食と、自分より立場が強い人間からのおだて上げに弱い。
あまりにも話を逸らすのが簡単なもので、騙されたふりをしているのではないかと心配になってくるほどだ。
「良い酒と言えば、頂いたワインを部屋に置いてきてしまいましたな。チンピラ共が何もしなければ良いのですが……価値も解らぬ奴らが手荒に扱って、台無しにされてはたまったものではありません」
現在、馬車に乗っているのはケンとファビアンと御者の3人だけ。つまり、ファビアンは1人もお供を連れていない。
カストたちと自分の店の中で会うにも複数の護衛を引き連れていたくらいなので、今回も護衛の1人や2人は連れてくると思っていた。だが、その申し出すらされなかった。
護衛を引き連れてきたところでどうせ出番はないし、腕自慢の男が何人いたところでヒキガエルの運命は変わらないのだから、どちらでも良いことではある。
こちらからすると、口封じをする手間が省けるので有り難い。
これから味わうことになる酒と料理に対する期待感からか、ファビアンはかなり上機嫌だった。
尋ねてもいないのに語られる美食に関する薀蓄を笑顔のまま聞き流し、目隠し板の隙間から見える景色を頼りにして目的地を当てようとするのを、曖昧な返事ではぐらかす。
町の中心から見て北東にある【クリーチャーズ・ハウス】を出発した馬車は南に向かい、マッケイブの町を東西南北に切り裂く大通りの一本、通称"東大通り"に入った。
そのままレンガ敷きの大通りを町の中心に向かって進み、大通りが交わる地点で進行方向を南に変える。
「おや? 南に向かわれるのですか。こちらは貴族の方々が住まわれているだけはあって、数は少ないながらも良い店がいくつもありますからな。そうなると候補となるレストランは―――」
町の中心から少し離れれば、周囲の雰囲気はがらりと変わる。
最も人が集まる町の中心部ではほとんど隙間なく建物が並び、狭い敷地面積を有効利用するために縦に伸びていくのだが、貴族街の建物は縦ではなく横に広がっている。
貴族の移動には馬車が必須であり、だから大通り以外でも馬車がすれ違えるほどに道幅が広くとられ、レンガや石畳によって舗装されていた。
ケンを含む貴族以外の人間はほとんど知らない話だが、この町に住む貴族の間には「敷地と接する道路の舗装を維持・管理すべし」という不文律が存在する。
表向きには、いわゆる高貴なる者の義務の一種という扱いだが、実際には自らの財力の誇示と利便性の追求のためだ。
これは義務ではなくむしろ「道を舗装できる」という権利であるため、不文律を守らなくとも罰則はない。
だが、意外と狭くてどろどろとした貴族社会のことなので、権利を行使しなければどういう扱いをされるか分かったものではない。
そんな貴族街にあるのはなにも個人宅ばかりではなく、そこに住む人間たちが利用する娯楽施設や商店などもある。
例えば、夫人たちが昼のひと時を過ごすための洒落たカフェであったり、旦那同士で交流するための比較的健全なバーであったり、令嬢が喜びそうな服と小物を扱う店や、格式の高い劇場や高級なレストランだったりする。
しかし、ケンたちを乗せた馬車が目指していたのはそういった店ではなく、貴族街の外れの方にある一軒の屋敷だった。
貴族の邸宅にしてはさほど広くもない敷地を囲む塀は高く、門扉は頑丈そうだ。<持続光>の魔道具で明るく照らされた門の内側には、きっちりと武装した2人の門番が立っている。
門番たちは馬車を見るなり、すぐに門扉を開け放った。馬車が一度も停止することなく門を通過し終えると、元通りに扉を閉じてからしっかりと閂をかける。
馬車は玄関のすぐ前まで進み、そして静かに停止した。
「ご乗車お疲れ様でした、ファビアン様。下車の準備が整うまでもう少々だけお待ちください」
「本当に……ここが目的地で間違いないのですか?! レストランではなくただの屋敷ではありませんか!」
ファビアンが今さら慌てているが、もう手遅れだ。
それに、ケンは「食事の席を用意した」と言ったのであって「レストランに行く」なんて事は一度も言っていない。ファビアンが勝手に勘違いしただけだ。
「はい、間違いありません。本日のお食事の席はこちらに用意してございます。屋敷の中ではちょうど、ファビアン様をお迎えするためだけに、一流の料理人たちが腕をふるっていることでしょう」
「……そうですか。そういうことなのであれば、事前に教えてもらえるとありがたかったですな」
「申し訳ありません。ファビアン様に最高の料理を味わっていただくことばかり考え、当然の配慮が欠けておりました」
「…………」
ファビアンが何と言い返そうか考えている間に降車の準備が整い、客室の扉が開かれた。
暢気だったファビアンもさすがに警戒を露わにしているが、笑顔を崩さず無言のまま降りろと促し続けるケンに根負けし、覚悟を決めて馬車から降りる。
だまし討ちではあるがいちおう嘘は吐いていないのだし、ファビアンの体型では門を乗り越えて逃げるのも不可能である。毒食わば皿までという心境だろうか。
ファビアンがのろのろとした足取りで屋敷に近付いていくと、扉の前で待ち構えていた執事服の男がこちらに向かって一礼し、屋敷の扉を開いた。
この先に待ち構えているのはどんな地獄だろうか。どうにでもなれという半ば投げやりな気分で入口をくぐると、そこにあったものは―――天国だった。
屋敷の天井や壁には美しい装飾が施され、床には毛足の長い真紅の絨毯が敷かれている。そして、魔道具で明るく照らされた玄関ホールには大勢の人間が集まっていた。
揃いのお仕着せを着た何人もの美女が道を作るように両脇に並び、その道の終着点には他の美女たちが霞んでしまうほどの存在感を漂わせる、一人の女が立っていた。
その女は首から足首までを覆う漆黒のドレスを纏い、両手にも光沢のある黒の手袋を填めている。
装いだけであれば、主人に先立たれてこれから先の一生を喪に服し続ける貞淑な貴婦人のようだが、溢れ出る色香は隠しようもない。
「あの方は、"女王"……?! これはどういうことですか。貴方はギルドマスターに会わせるのだと言って、私をここに連れてきたのではありませんか?!」
「はい、ですからあの方が我が主人でございます。ファビアン様に対して、探索者ギルドのマスター如きでは釣合いがとれませんので」
「それならばそうと前もって……!」
ケンとファビアンが小声で言い争いをしていると、いつの間にか漆黒の女がすぐ近くにまで歩み寄っていた。
「ようこそいらしてくださいました、ファビアンさま。もしや、私の使いが何か粗相でも?」
「はっ! あの、いえ、そんな事は……! 本日はお招きに預かり誠に光栄でございます。奥様、いえ―――」
「あら、奥様だなんて他人行儀な呼び方は嫌ですわ。どうぞ、私のことはジュリアとお呼びくださいな」
魔性の女が向ける微笑みのせいで熱に浮かされたようになってしまい、ファビアンは返事を返すことができない。
「お嫌かしら? ファビアンさまとはぜひ、仲良くしたいと思っているのですけれど……」
「ぃえ、はい、ジュリア様。私としてもぜひとも仲良くさせていただきたいかと!」
「まあ、嬉しいですわ」
「ではファビアンさま、早速ですがこちらの方へ。食事をしながらゆっくりとお話させていただきたく存じますわ」
「ええ、ええ! もちろんですとも!」
直前まで抱いていた不満と不信はどこへやら。鼻の下をだらしなく伸ばしたファビアンは、ジュリアに誘われるがままに屋敷の奥へと進んでいった。
ケンは行く末を見届けるために彼女たちの後を追い、メイドたちは自分の仕事を果たすために屋敷の各所に散っていく。
ジュリアとファビアンが向かったのは、十人以上が余裕を持って食事を楽しめる大テーブルが置かれた広間ではなく、屋敷の奥にある個室だった。
部屋の中央にはテーブルが1台と椅子が2脚だけ置かれ、2人で食事を摂るならば十分なだけの大きさを持つテーブルの上には、既に食器が並べられている。
主客が席に着くと、すぐさま一人のメイドが一本の酒瓶を手にテーブルへ近づいていった。瓶の形状からして、ワインのような醸造酒ではなく蒸留酒だろうか。
「早速ですが、乾杯をいたしましょう。こちらは今日のために用意させていただいた、特別なお酒ですのよ?」
「まさか、それが"女神の涙"ですか?!」
ジュリアが黙したまま微笑み、メイドが酒瓶の栓を開ける。すると、部屋じゅうに甘い香りが広がった。
ファビアンから数メートルの距離を置いたケンにまでこれほど強く香るくらいだから、間近に居るファビアンはさぞ強烈に感じているだろう。
「おお……! この芳しい香り……さすがは"女神の涙"ですな」
しかし、ケンにとっては誘われるような香りではなく、こんな状況でなければ部屋から逃げ出したくなるくらいに嫌な香りだった。
これは人を狂わせ、堕落させる香りだ。
そんなケンの内心など知った事かとばかりに、2人だけの宴席はかなりの盛り上がりを見せた。
美食家の男は酒ばかりでなく料理も甚く気に入ったようで、出された料理は全て残さず平らげている。
「いやあ、ジュリア様は素晴らしい料理人をお持ちですなぁ……これまでに美味いと思って食べてきた料理は何だったのか、と思ってしまうくらいに格が違います!」
「美食家として名高いファビアンさまから絶賛されたと聞けば、料理人たちもさぞかし喜ぶことでしょう」
「いやあ、こんな料理をいつでも食べられるジュリア様がとても羨ましい! 私は一度しか味わえないというのに、何度も味わえるジュリア様が妬ましくなってしまいます! そしてこの"女神の涙"……天にも昇る心地とはこういうことを言うのでしょうな!」
そう言って、グラスの中にあるわずかに白濁し、少しだけとろみのある液体を次々と胃に収めていく。
酒には強いのか、かなり顔が赤らんでいるものの手つきはしっかりしている。言動が酔っ払ったようになっているのは、たぶんジュリアの色香のせいだろう。
やがて全ての料理が出尽くし、酒を何本も飲み干した頃になって彼の食事は終わった。
次は、彼女の食事の時間だ。
「いやいや、とても満足させていただきました。料理が美味すぎるせいで、酒も進みすぎてしまいましたが流石にもう飲めません」
「あら……もう、満足なさってしまったんですの? ワタシはゼンゼン満たされていないのに、ひどい方ね……」
一人の女から、一匹の男を貪り食らう雌の獣に。それまでの淑女然としていたジュリアの雰囲気が、一瞬で全く違うものになる。
男から憐れな獲物に成り下がったファビアンは、状況の変化についていけない。
「へっ?! いや、申し訳ありません……何と言えば……」
「こうなったら、ワタシはファビアン様を食べるしかありませんわね?」
「はい? それはどういった意味で―――何をする!」
給仕を行っていた美女メイドたちが、主人の意を受けて素早くファビアンを取り囲んだ。
椅子の背もたれががくりと倒されてベッドのようになり、自らの体重のせいで身動きが取らなくなったファビアンの体に手をかけて、服を脱がせ始める。
寝そべったままでは脱がせようのない部分については容赦なく切り刻み、あっという間に全裸にしてしまった。
脂肪が何重にも重なった醜い肉体が露わとなり、ガマガエル男の雄の象徴は何もしていないうちから固く尖り、天に向かって起立していた。
「ななななっ、何を! ジュリアさ、ま……?」
慌てて股間を隠しつつ、命令を発した人間に対して猛烈な抗議の声をあげようとするが、言葉の途中でその勢いは失われてしまう。
ファビアンの視線の先には、漆黒のドレスを脱ぎ捨てて一糸纏わぬ姿になったジュリアの姿があった。
男の醜さ極まる体とは対照的に、女の体は美しい。大きいが大きすぎない程度に膨らんでいるが、ハリを失っていない胸と尻。対照的に腰はくびれ、男が持つ理想的な曲線を描いている。
彼女こそが美の女神であると誰かが主張すれば、それに頷く男はいくらでもいるだろう。
立ち上がっていたジュリアはまた椅子に足を組んで座り、真っ赤なワインが注がれたグラスを傾ける。
「なにを? お客様が裸になったのだから、主人であるワタシも裸にならなければ失礼でしょう。違うのかしら?」
「いいえ、違いませんとも!」
猿人族の鼻の下はここまで伸びるものなのかと感心してしまうくらいにだらしなく顔が緩み、反対に一部分だけがどんどんと硬度を増していく。
ファビアンが女の肢体に見惚れている間に、服を剥ぎ取ったメイドたちが服の切れ端と共に去り、別のメイドたちが手にした布で男の全身を拭き清め始めた。
体の表面を撫でるだけではなく折り重なった肉の間や、手足の指の股、固く尖った部分やその近くにある不浄の部分までも含めて、全身くまなく清められていく。
それが終わると、次はメイド服を脱ぎ捨てて下着姿になった女たちがやってきた。
彼女たちはどこからか持ち出してきた壺の中身を手で掬い、ねばねばとしたその液体をファビアンに塗りたくる。女たちの手が全身を這い回り、同時に耳や首筋に舌が這わされる。
淫猥で粘着質な音と、聞きたくもない野太い喜悦の声が部屋の中に響いた。
全身から完全に力を抜き、女たちに身を任せきった男を蔑むような目で眺めていたジュリアだったが、全ての準備が整ったところでおもむろに立ち上がり、男に歩み寄る。
男にまとわり付いていた女たちが一斉に身を離すと、男は肌寒さを感じてぶるりと身を震わせた。
閉じていた目を開き、目の前でこちらを見下している女に懇願する。
「あっ……! なんで、お願いです、もっと……お願いします、ジュリア様!」
女はそれに何の答えも返さないまま男の顔に跨がり、全く温度を感じさせない冷たい声で命じた。
「舐めなさい」
「あああっ……!!」
情けない男の悲鳴と同時に、あっけなく一度目の噴出が行われた。
それから行われた内容は筆舌に尽くしがたい。
そこで繰り広げられた光景はとてつもなく下品で、醜悪で―――これ以上はないくらい美しく、魅力的だった。
女の体が男の上で踊り、欲望の証をいとも簡単に抜きとっていく。男が限界を超えてしまった後も、ありとあらゆる手段を用いて再び勃ち上がることを強制された。
人間としての尊厳を汚され、男としての矜持を砕かれる。
日付が変わる頃には、男だったものは欲望に濁った液体を吐き出すだけの、ただの肉の袋と化していた。
恍惚とした表情を浮かべ、ぴくりとも動かなくなった肉の塊を床の上に放置したまま、ケンとジュリアは隣の部屋に居場所を移した。
メイドに命じて体に残っていた運動の跡を綺麗に拭き取らせ、元のように漆黒のドレスを纏い、気怠げな動作で椅子の上に体を乗せる。
「これで、ワタシのお仕事はおしまい……アレの目が覚めたら、アナタが言ったとおりのことを伝えさせるわ」
「はい、有難うございました。その後はこちらで良いようにさせていただきます」
ファビアンはもう、絶対にジュリアの意向に逆らうような行動は取らないだろう。これからの彼にとって、彼女に嫌われることは世界の終わりを意味するからだ。
「ワタシはきちんと約束を守ったのだから、次はアナタの番ね?」
「……はい。契約を違えるようなことは致しません」
次が自分の番だと思うと、ケンの体に抑えきれない震えが走る。
これは期待によるものか、それとも自分が自分でなくなってしまうことに対する恐れによるものだろうか。
「そうね……でも、どうしようかしら」
何故か悩んでいるような様子を見せたジュリアは、部屋の隅で控えていたメイドに命じて、酒とグラスを持ってこさせた。
手ずから2つのグラスに酒を注ぎ、一方をケンに差し出す。
「飲みなさい」
「……申し訳ありませんが、私は酒を嗜みません」
「アナタがどうしたいかなんて知らない。ワタシは飲みなさいと言ったのよ」
有無を言わせない命令に抵抗するのを諦め、グラスを手に取る。
グラスからは得も言われぬ香りが立ち昇り、鼻を抜けて脳をかき乱した。だが、全く不快ではない。
「この酒は? かなり良い物のようですが」
「ホンモノの"女神の涙"」
「……こちらが本物だとすると、あの男に出した物は……?」
「そこらへんにあったお酒に、キモチよくなれるおクスリを入れただけ。あの程度の男に飲ませるのはもったいないでしょう? ……大丈夫よ、こっちには入れていないから」
薬が盛られていようとそうでなかろうと、ケンには飲まずに済ませるという選択肢がない。
ジュリアに見守られながら、グラスの中身を少しだけ口に含む。5年以上ぶりの、この世界で飲む2度目の酒は口の中で溶けて消えた。
「ワタシはねぇ……好きなものは最初に食べることにしているの。いつまでも残っているかどうかわからないし、好きでもないものを食べてお腹いっぱいになってしまったら、美味しいものが美味しくなくなってしまうでしょう?」
「はぁ……」
いつの間にか、手にしたグラスの中身が全て消えていた。
その事に気を取られて気のない返事をしてしまったが、|ジュリアはそれを気にした様子もなく、独り言のように、自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「今のワタシは、好きじゃないものを食べてお腹が膨れてしまった状態なの。たまに食べるとゲテモノも意外と悪くはなかったから、ついつい食べ過ぎてしまったわ」
「……左様でございますか」
同意を求めているわけではないのだろうが、他に何とも言いようがない。
「だから、好きな物を今すぐでも食べたいのだけれど、でも、もっと良いコンディションの時に食べたいの。一度しか食べられないのだから、イチバン美味しくなるように食べたいわ。我慢して、もっと時間が経ったら、果物が熟すみたいに美味しくなるかもしれないのだし」
「熟しきる前に風で落ちてしまったり、腐ってしまったりするかもしれません」
「その時はその時ね。運が悪かったと諦めるわ。でもね―――」
ジュリアは手にしていたグラスを置き、ケンをまっすぐに見つめた。
「私が食べに行くまで、せいぜい美味しくなって待っていなさい」
その時の表情は無垢な少女のようで、不覚にも一瞬だけ見惚れてしまった。
お読みいただきありがとうございました。以上で第七章は終了です。
次の章はもうちょっと間を開けずに書きたいです。と毎回誓って毎回挫折するという。




