第85話 誘う
お待たせしてしまって大変申し訳ありません。
本話で七章終わりにするつもりでしたが、そうすると一万文字を大きく超えてしまうのでもう一話続きます。
夜の"女王"であるジュリアが、縄張りの荒らすことの代償として要求したものはケンにとって相当に意外なもので、理解するために少しばかり時間が必要になった。
「ジュリア様が仰った『食べさせろ』という言葉は、男女間のものと解釈して宜しいのでしょうか? 実は吸血鬼なので血を吸わせろとか、食人鬼なので肉をよこせなんて意味ではなく」
「……ワタシのことを何だと思っているのかしら?」
「いえ、侮辱したいのではありません。ヴァンパイアは永遠の美しさをもち、人間を魅了すると伝えられていますので……もしかしたら、と」
「ワタシは時が経てば老いて朽ち果てる、ただの人間よ。残念ながら、ね」
この世界にも血を啜る、あるいは人間の死体を貪り食うとされる不死の怪物の伝説は存在する。
前の世界で聞いた"吸血鬼伝説"と、今の世界で聞いた吸血鬼の特徴は様々に違っているが、最も大きな違いは「こちらの世界では実在する可能性が極めて高い」というところだろうか。
迷宮や魔法なんてものが存在するのだから、アンデッドが存在すると知っても驚きはなかった。
ともあれ、目の前にいる年齢不詳の美女を「ただの人間」と評すのは少し違和感があるが、あまりそういう事を口にして気分を害するわけにもいかない。
「しかし、交換条件として体を要求するという話はたまに聞きますけれど、それは男から女に対してであって逆は聞きませんので」
「普通の女が何を考えてどう生きているかなんて知らないし、興味もないわ。ワタシにとって、アナタが持っているモノの中でいちばん価値があるモノを欲しいと言っただけだもの」
「仮に、私の所有物の中で最も価値あるものが己の肉体だったとして、それでもジュリア様が何かと引き換えに望むほどとは思えないのです。どうしてそんなものを欲しいと仰ったのか、理由をお聞かせ願っても宜しいでしょうか」
「呆れるくらいに簡単な理由よ? ワタシは、アナタみたいな男が好きなの。好きなモノに高い価値を見出すのは当然ではなくって?」
ケンとしては、過去にジュリアから好かれるような何かをした覚えがない。
そもそも、今回が初対面のようなものなのだ。前に彼女と会った時は、かなり長い時間を同じ部屋の中で過ごしはしたが、碌に会話もしなかった。
思い返してみれば、初対面の時にも今と同じように「抱かれに来い」と誘われたような気もするが、商売人なら当たり前にやる宣伝だと捉えていた。
ケンが抱いている疑問を察してか、ジュリアが説明を続ける。
「ワタシはねぇ……叶えたい夢を持っていて、そこに向かってひたむきに進もうとしている子がとっても好きなの。それと、アナタみたいに女が好意を向けてくるのが当然だと思っていて、内心では女を見下している男もね」
1つ目は、他人を好ましく思う理由として何もおかしくない。しかし、2つ目については嫌われる男の特徴としか思えなかった。
人の好みなんて千差万別、蓼食う虫も好き好きと言ってしまえばそれまでだが、ひねくれた好みに自分自身が該当していると言われるのは受け入れ難いものがある。
年頃の男のわりに女に対して淡白であることは認めるが、全く興味が無いわけではないし、別に見下しているつもりはない。
この世界に来た直後は精神的・時間的・金銭的な面で余裕がなく、生きることに精一杯で女を買うような無駄はあまりできなかった。
パーティを組むのを諦めてソロ探索者となり、人並みの技術を身につけた後であれば余裕もできた。だが、その頃には生理的欲求を無意識のうちに抑えこむ癖がついていたから、金と時間を浪費してまで女を抱く必要は感じなくなっていた。
男から性欲を取り去れば、女を女として扱う理由の大半は消える。そして、男と"女ではなくなった女"を比較すれば、必然的にほぼ全ての部分で男が優位に立つ。
そのことが「女を下においている」のと同じ意味を持つのだとすれば―――なるほど確かに、女を見下していると言えるのかもしれなかった。
男自身が気付いていなかった事実を突きつけた魔性の女は、男の内心の動きなどは全く気にかけず、微笑みを浮かべつつ幸せな思い出に浸る。
「いじっぱりでイジワルな男を優しく抱きしめてあげると……すぐに優しくてスナオな子になってくれるでしょう? そうやって自分の胸の中で男の子が変わっていく様を見るのが、何よりも楽しいの」
恍惚の表情を浮かべ、両腕を使って自分を抱きしめる。柔らかく潰れた胸の中にいるのは、過去に彼女が抱いてきた男たちだ。
「すぐ大人しくなって甘えてくる子は可愛いけれど、なかなか懐かないで逃げようとする男もそれはそれで可愛いわ。どちらかと言えば、ソッチの方が長く遊べて良いかしらね?」
子供がお気に入りの玩具について語るような調子で、ジュリアは男について語る。男という生き物は、彼女にとって愛玩動物とさほど変わらない価値しか持たないのかもしれない。
彼女が男に対して向ける慈愛の眼差しの奥からは、狂気すら感じられる。
「ねえ、アナタはどっちなのかしら?」
ジュリアの価値観は全く理解できそうにないが、彼女が望んでいるものは分かった。
よくよく考えてみれば、こんな要求をしてきたことは不思議でも何でもない。
【楽園】まで来る道すがら、"鼠"の頭領からジュリアが過去に女を使って男を籠絡し、金と権力を奪い取って来たという話を聞いている。
彼女からすれば男が勝手に差し出してきたのかもしれないが、どちらにせよ結果は同じだ。男が持っているものをいちいち奪わずとも、体を通じて心を支配すれば丸ごと彼女のものになる。
「ジュリア様が何をお望みであるかは理解しました。ですが、私はこれでも何かと忙しい身の上でございます故、ジュリア様からのお召にいつでも応えるというわけにはいきません」
「べつに、ずっと相手をしろなんてことは言わないわ。そうね、その邪魔な何とかって男を片付けたときのご褒美としては……せいぜい一度かしらね。アナタが一晩だけワタシに抱かれたら、それでオシマイ」
本当にそれが適当な対価だと思っているのか、要求を受け入れさせるための駆け引きであるかは判らないが、一晩だけ付き合って終わりになるのであれば行動の障害にはならない。
それでケン自身が危ない橋を渡らなくても済むのであれば、かなり割の良い取引だ。
「それであれば―――」
「やめとけ」
ケンが返答しようとするのを止めたのは、交渉の当事者以外で発言権を持つ唯一の人物だった。
「黒鎚の兄弟には、これから先も色々と働いてもらわなくちゃならねえんだ。面白半分で姐ちゃんに壊されちゃあ、たまったもんじゃねえ」
「あら、壊したりなんかしないわよ? いっしょに遊んで、優しくして、甘やかしてあげるだけ」
「それが壊してるって言ってんだよ。ヤられた男は姐ちゃんの事だけ考えて、姐ちゃんの言う通りに動くだけの人形みてえになっちまうのに……飽きたら捨てちまうんだろ? 地位がありゃあ壊れてても使い道はあるけどよ、そんじゃなきゃゴミにしかならねえ」
話に横槍を入れられ、非難を受けてもジュリアは全く気にした様子がない。魅せるような動作で足を組み直し、小首を傾げてとぼけたような返事をする。
「そうかしら? ワタシはそんな事をしたつもりはなかったのだけれど」
「……姐ちゃんがどんなつもりだったかってのは、してもムダっぽいから追求しねえけどよ……そういう事をされると困るんだわ。言われた通りに動く手駒はいくらでも見つかっけど、自分からでかいネタを持ち込んでくれるような協力者はなかなかいねえんだから」
「へぇ? そうなの」
「それに、黒鎚は【黒犬】だけじゃなくて、秩序神教会の戦士長とか魔術師ギルド長とかとも繋がってっから、ちょっかい出すとそっち方面からも怒られちまうぞ?」
「戦士長って言えば……前に見たことがあるのだけれど、あの男も美味しそうだったわね。食べ応えがありすぎてお腹を壊してしまいそうだけれど。お爺ちゃんの方は、今より20歳若かったら食べてみたかったかもしれないわね」
「……俺っちは、たまに姐ちゃんのことが恐ろしくなるよ」
ジュリアにはこれ以上何を言っても埒が明かないと判断したか、"鼠"の頭領は説得の対象をケンに変える。
「悪い事は言わねえからやめとけよ、兄弟。ハナから落ちると判りきってる橋の上を進むんじゃなくて、遠回りでも安全な道を行こうぜ。兄弟はそういう奴だろ?」
善意からきた忠告のように思えるが、悪意がないからと言って必ずしも正しいとは限らない。
そもそも、このぎょろ目出っ歯が"良かれと思って"ここに連れてこなければ、初めから必要がなかった駆け引きと選択だ。
「安全な道が遠回り過ぎるから問題になってるんだろうが」
「いやいや、そのへんは俺っちもできる限りの協力をするからよ。なにも好き好んで、獣の巣穴に全裸で飛び込むような真似をするこたあねえ」
「ワタシは条件を変えるつもりはないわよ? 待つのは苦手じゃないけれど、手が届く所に飛び込んできた獲物を黙って見逃して挙げられるほど忍耐強くないもの。坊やを抱けないのなら、ワタシの庭で遊ばせてあげない。フラレちゃったら……そうね、その何とかって男に会いに行くのも良いかしら? この前こんなことがありました、ってお話をしに」
今まで何十人もの男を喰ってきた女は、そう言ってケンに流し目をくれた。
排除目標に謀略の存在が知られれば、その時点で失敗は確定的になる。
被害者が加害者を官憲に突き出さずに監禁しているのは、交渉次第で大金を得られると思えばこそ。
こちらが交渉ではなく実力行使を目論んでいると知られ、交渉成立の見込みがなくなったと判断した場合、アードルフを確保しておく理由がなくなる。
ファビアンが金を得ることを諦めなかったとしても、交渉成立への道は厳しさを増すはずだ。
あの男は【ガルパレリアの海風】の状況を知らない今でさえ、法外な賠償金を要求するほどの強欲さだ。弱みを見つければ、さらに請求額を吊り上げるであろうことは想像に難くない。
こちらがどうしても"遺跡"調査に参加しなければいけないと知れば、要求額は天井知らずになるだろう。
だからと言って強行手段に出るのは愚の骨頂である。
襲撃を警戒して警備を固めるに違いないし、妨害をくぐり抜けて目的を達成できたとしても状況は好転しない。一度疑いを持たれれば、こちらが犯人である証拠を何一つ残さなかったとしても疑いは残る。
これらのことは、魔術師ギルドがカストたち【ガルパレリアの海風】を「素行不良である」と断じるに十分な理由であり、公になれば"遺跡"調査計画への参加の道は断たれてしまう。
つまり、実質的に残された選択肢は「誘いを受けて【ガルパレリアの海風】を助ける」か「誘いを断って【ガルパレリアの海風】を見捨てる」の2つだけ。
「さあ、アナタはどちらを選ぶのかしら?」
"鳩"は誘い、"鼠"は視線で止めろと訴える。
どちらがより確実に"遺跡"調査を進めることができ、彼女の目覚めにより近付けるのか。
ケンの中では既に答えが出ていた。
◇
陽が昇り、地面が明るく照らされている間に必要な準備を整え、陽が沈むのを待つ。
夏の高い太陽が地平線の下にようやく隠れた頃、ケンは"鼠"の頭領から借りた手下1人を伴って、営業を始めた直後の【クリーチャーズ・ハウス】を訪れた。
ケンは高級なレストランで働く給仕のような、一見して探索者や盗賊とは思われないような服装で、あからさまな武器は一切身に帯びず、手には何も持っていない。
無言のまま付き従う手下の方も似たり寄ったりの格好をしているが、両腕で縦横十数センチ、高さ三十数センチほどの木箱を抱えている。
【ガルパレリアの海風】の人間ではなく盗賊を伴ったのは、これから行う交渉の内容を仲間たちに知られないためだ。
カストとポールに今後の交渉を一任してもらえるように話を付けてあるため、鉢合わせの心配はしなくていい。
ケンたち2人は正面から店に向かい、開け放たれた入口の隣で周囲を窺う用心棒に堂々と声をかける。
「御免ください、私はケンイチロウと申します。ファビアン様とお会いする約束をさせていただいたのですが、こちらにおいででしょうか?」
「……ああ! もしかして、あんたらが人を寄越してきたっていう奴か?」
「はい、然様です。是非、お話ししたい事がございますので、ファビアン様に様にお取り次ぎ願えませんでしょうか」
【クリーチャーズ・ハウス】へは事前に人を遣り、訪問の時間と目的を伝えてあった。
連絡員として派遣したのは【黒犬】の人間で、それとなく盗賊ギルドとの関係を匂わせるように頼んでおいた。
受け付けた人間がその事に気付くか否か、盗賊ギルドの人間であることに気づいたとして、娼館の主がどう対応するかによってある程度は人物を推し量れるだろう。
「ウチの旦那には、あんたらが来たらすぐ通すように言われてる。案内する奴を呼ぶから少し待っててくれ」
「はい。お心遣い有難うございます」
用心棒は店の中に向かって二三言声をかけてからケンたちに向き直り、改めてこちらを観察する。すると当然、ケンの後ろにいる男が抱えている木箱が目に付く。
「ところで、そっちの奴が持ってる箱は何が入ってんだ?」
「はい、こちらは私の主人からの贈り物でございます。主人からはファビアン様へ『直接お渡しするように』と仰せつかっております」
「中に酒でも入ってんのか? ちょっと見せて―――いや、やっぱいい……です」
用心棒は中身を改めようとして一歩踏み出しかけ、木箱に小さく捺された【黒犬】の紋章を目にして動きを止めた。
箱には黒いリボンが巻きつけられており、そのリボンの端が封蝋で箱の表面に留められているため、開封した場合ことがすぐ判ってしまう。
おそらくは、盗賊ギルドの有力者から雇い主に対する贈り物を開封した場合、叱責されるかもしれないとでも考えたのだろう。
それ以降、用心棒は全くの無言になり、びくびくとしてこちらと目を合わせようともしなくなった。
こちらから振るような話題も特になかったので無言のまま数分が過ぎ、店の奥からやって来た男に案内されてケンたちは建物の中に入った。
着いた先はそこそこ良い造りをした応接室である。部屋の様子からして、カストたちが交渉の際に待ちぼうけを食わされた部屋とは別の場所らしい。
しかし、得体の知れない人間をこれから雇い主に合わせるというのに、用心棒が一度も身体検査をしないというのはどういうことだろうか。
最初からするつもりがなかったか、あからさまな武器を持っていないことで不要と判断したか、それとも相手が盗賊ギルドからの使者ということで怖気づいたのか。
いずれにせよ、用心棒の質はあまり高くない。
入念に調べなければ見つけられず、見つかっても言い訳ができるような武器をわざわざ仕込んできたのに、準備が全くの無駄になってしまった。
ほんの少しだけ長期戦も覚悟していたが、それから十分と待たされることはなく目的の人物は現れた。
でっぷりと肥えた娼館の主に続いてもう1人だけ部屋に入ってきたが、そちらはひょろひょろとした体格の禿げかけた中年男で、全く護衛のようには見えなかった。単なる従者のようだ。
「いやはや、お待たせしてしまいましたかな?」
「いいえ、そのようなことはございません」
樽を更に上下に押しつぶしたような体型のファビアンは、突き出た腹を左右に揺らしながら部屋を横切り、奥にある自分専用の頑丈な椅子に苦労しながら腰を下ろした。
ひどく緩慢な動作のように見えたが、息の切れ方と汗の掻き方を見る限りでは精一杯急いで来たらしい。
大きなハンカチで額の汗を拭い、テーブルの上に用意されていた水差しの中身をコップに注ぎ、一息で飲み干した。
「っぷふぅ! ……いや、お客人の前で失礼しました。私は見ての通りの体型ですので、少し動いただけで喉が乾いて乾いて仕方なくなってしまうのですよ」
「はい、お気になさらずどうぞ」
愛想笑いを浮かべながら言い訳をしたファビアンは更に2杯も水を飲み、それでようやく落ち着いたようだ。
空にしたコップをテーブルの上に置き、椅子になるべく深く腰を掛けたファビアンは、大きく出っ張った腹の上で手を組んだ。
悠然としているように見せかけているが、手の指は忙しなく動き、視線は落ち着きなく部屋の中を彷徨っていところからして酷く緊張しているようだった。
ファビアンは少しの間、こちらから用件を切り出すのを待っていたようだが、すぐに耐え切れなくなって自ら口火を切った。
「貴方たちが本日こちらにいらっしゃったのは、店でお預かりしている狼の魔術師に何やら関係があってのこと、と聞いておりますが……」
「はい。それについてお話させていただく前に、まずはこちらをお納めくださいませ。我が主より心ばかりの品にございます」
「おお、これはご丁寧に……」
ケンがテーブルの上に木箱を置くと、ファビアンは箱に捺された紋章を見て納得したように頷き、それから封蝋に捺された印璽を見て僅かに首を捻る。
従者に命じて箱に巻かれていた黒いリボンを外させ、ファビアン自身が蓋を開いた。
木箱の中に入れられていたのは、緩衝材代わりの真っ赤な絹布に包まれたワイン瓶が1本。布を解き、現れた瓶のラベルを見て、美食家の男が感嘆の声を上げる。
「おおっ! これはロースロート、しかも当たり年のものではありませんか!」
「はい。ファビアン様は美食と酒を愛しておられると伺いました。ですから、お詫びとお近づきの印として相応しいと思われる物を、伝手を辿りに辿ってどうにか手に入れた次第でございます」
ロースロートというのは、高級ワインの産地の中でも最も上質な酒を造るとされる醸造家の名である。
ここ数十年間で一番の「当たり」とされる年に仕込まれたその酒は、なかなか希少なものだ。普通は店に並ぶようなものではないが、仮に売るとすれば1本で庶民の数カ月分の収入を超える値が付くはずだ。
「とても嬉しい贈り物ですが……魔術師でも探索者でもない貴方が、どうしてこのような?」
「私は盗賊ギルドの関係者ではありますが、普段は探索者として活動をしている身です。技能的にどちらにも共通する部分がありますでしょう?」
「ああ! なるほど、なるほど」
「今は理由があり、一時的に【ガルパレリアの海風】という探索者ギルドに属しております。つまりは、ファビアン様の大切なお店を破壊し、今も揉め続けている者たちの一味でもあるということです」
目の前の男は、これで「盗賊ギルド員が何かの理由で探索者の真似事をしている」という、事実とは違った認識を持っただろう。
今後どういう展開になってもいいよう、嘘は言わずに誤解を招くような言い回しを考えたのだから、そうなってくれなくては困る。
「それで、貴方がおいでになったという訳ですか……私は、魔術師ギルドがやっている迷宮調査の件で、何か盗賊ギルドの不利益になるような事をしてしまったのではないかと思い、ビクビクしていましたよ。そうではないと判って一安心です」
気付くかもしれないとは思っていたが、やはりアードルフが"遺跡"調査のために【ガルパレリアの海風】に加入した事に気付いていたようだ。
若い魔術師を捕まえたのに、引き取りに来たのが何故か探索者だったというだけで疑問を抱くには十分な理由になるし、魔術師ギルドが行っている調査計画の存在は秘密でもないのだから調べればすぐに分かる。
この場に居るのがケンではなくカストとポールだった場合、これは更なる要求を通すための材料にされていたのだろう。
そして、ケンが【黒犬】からの使者という立場で高圧的に接していれば、簡単に全面降伏した違いない。
(……やっぱり、この男とは対等な交渉ができそうにないな)
まだ顔を合わせたばかりだが、この短い時間だけでファビアンの底は知れた。
"鼠"の頭領と違い、ファビアンは他の誰かと対等な関係が築けない奴だ。付き合っていくためにはどちらかが上になり、もう一方が下になるしかない。
だが、下にすれば裏切りを警戒し続けなければならず、上にすれば食いつぶされるのに抵抗し続けなければならなくなるだろう。
―――進むべき道は決まっている。後は終着点に向けてこの男を誘導するのみ。
「事件が起きた時、間の悪いことに私は所要があってギルドを離れていました。戻ってきてから事件の存在を知り、詳しい内容を聞いた途端にひどい眩暈がして倒れてしまいそうでした……ファビアン様のようなお方が経営してらっしゃる店で騒ぎを起こしただけではなく、その後の交渉で揉め続るなどということは許されざる事態です!」
「いえいえ、私ごときはそれほど大層なものではありません」
口からは謙遜の言葉を吐いているが、顔にはニヤニヤとした隠し切れない笑みが浮かび、三大盗賊ギルドから一目置かれていたと知って誇らしげな様子である。
「寛大なファビアン様であるからこそ、狼藉を働いた未来ある若者のことを考えて官憲に突き出さず、何とか穏便に済ませようとしてくださったというのに……まるで人攫いであるかのように扱い、『いくら出せば返すのだ』『法外すぎる要求だ』など、まるでファビアン様が金の亡者だとでも言わんばかり。交渉の席ではさぞかしご気分を害されたことでしょう」
「私もこのような見た目をしていますから、悪人のように見られるのは慣れています。ですが、善意が伝わらないという状況は何度味わっても悲しいものです……」
「たいへん申し訳なく思っています」
善意など一片もない悪意まみれの行動だったくせに、よくもまあ舌が回るものだ。
しかし、舌が一枚でないのはこちらも同じこと。余計な事は考えず、今はせいぜい自分に酔って気持ち良くなっていればいい。
「残念なことに探索者という愚昧の輩は、多少金を持ったからと礼儀も何も知らぬまま、ファビアン様のようなお方と対等になれたと勘違いしているのです。私が付いていながら、今回のような事態が起こってしまったことに責任を感じております……」
「いいえ、貴方に何の責任がありましょうか! 私こそ、道理を弁えぬ子供を諭すように彼らに接していれば、ここまで話が拗れることが無かったのではないかと反省しているのですよ」
弱者に対して傲慢なこの男が反省などするはずもなく、盗賊ギルドの人間という強者に煽てられてその気になっているだけだろうが、これを利用しない手はない。
「それでは、厚かましすぎるお願いではありますが……ここは神のように深いファビアン様の慈悲をもって、失礼の数々をお赦しいただけますでしょうか?」
「……ええ、素晴らしいお詫びの品も頂いたことですし、ここは私が大人になりましょう」
「ありがとうございます! もちろん、言葉による謝罪のみではなく、形のあるお詫びもさせていただくつもりです。まずは和解の証として、我がマスターとの食事の席を設けましたため、これからご足労願いたいのです」
「はぁっ?! 今すぐに、ですか?! それはちょっと……」
何故か難色を示したファビアンだったが、ここで引いて考える時間を与えたくない。
「はい。善は急げと申しますし、寛大なるファビアン様であれば必ずやお赦しいただけるものと考えて、前もって準備させていただきました。もしや、何かご予定がお有りでしょうか?」
「いえ、そういう訳では。私はこの通りの体型ですから、外出する時は前もって移動手段を準備しておかなければいけないのです。今晩は出かける予定がなかったもので……」
「それでしたら問題はございません。お招きするにあたって、店の入口まで馬車が来るように手配しておりますので」
「店の前まで、ですか?! ……レンガ敷きになっているような大通り以外に馬車を走らせていいのは、貴族だけのはずでは……?」
誰に向けるともなく呟いたファビアンが浮かべる疑念の表情を見て、失言だったことに気付く。
ケンは町の中で馬車に乗ったことがないし、手配してくれた人間が当たり前のように「店の入口のすぐ前まで馬車を行かせる」と言っていたため、そんなものだと思ってしまった。
「はい、ファビアン様をお招きするにあたり、なんとか手を回しました」
しかし、ここで黙ってしまえば更に怪しまれる。
馬車についてのこと以外にも、【黒犬】と【ガルパレリアの海風】の関係がどうなっているのか、性急に外に連れ出そうとしているの何故なのかなど、落ち着いて考えればいくつも不可思議な点がある。
他人を思い通りに躍らせたいと思うなら、冷静にさせてはいけないのだ。
「ご用意させていただいた料理も、必ずやご満足いただけると自信を持っております。料理に合わせる酒についても、実は"女神の涙"と呼ばれる幻の……」
「なんと、それは本当ですか?! そういうことであれば、例え町の端から端まで歩くことになったとしても行かないわけにはいきませんね!」
ファビアンの体型が示す通り、噂に違わぬ美食家ぶりだった。
あまりにも簡単に踊ってくれるせいで、むしろこちらが踊らされているのではないかと心配になってしまうくらいだ。
「喜んでいただけて幸いです。すぐに馬車が到着するはずですので、ファビアン様のご準備が宜しいのであればいつでも出発できます。いかがなさいますか?」
「それはもちろん、一秒でも早く参りましょう」
脂肪で膨らんだ体をぶよぶよと震わせながら精一杯の早さで椅子から立ち上がり、そわそわとして待ちきれなさそうな様子を見せた。
これで、蛙は自ら鍋の中に入り込んだことになる。後は火にくべて、せいぜい上手く調理するだけだ。




