第4話 迷宮初探索の日
2015/4/3 ひっそりと書き直し
残りの書き直しは時間と気力があったらやります
黒尽くめの迷宮探索者、ケンこと鈴木健一郎は異世界人である。
異世界人と言ったのは半分嘘で半分冗談だが、彼には5年より前のこの世界での記憶がなく、その代わりにどこか別の世界で別の人生を歩んでいた時の記憶を持っていることは紛れもない事実だ。
この事を誰かに話したことは今まで一度もない。
こんな馬鹿げた話を聞かせても信じてもらえるとは思えないし、誰かが信じてくれたところで今の状況が何か変わるとも思えなかったからだ。
5年前のその日まで、鈴木健一郎|(28歳/男)は日本の首都圏に拠点をおく中小ソフトハウスでIT土方として生きていた。
振られる仕事は良くて孫請け、大半は曾孫請けなので当然単価が安く、納期は厳しく、仕様がいつまでも確定しない上に質問を投げても返答は来ない。
ただし、飲み会のお誘いに対する返事は即座に来る。
当然のように仕事は火を吹き、炎上を始め、さらに油が注がれまくった結果として死の行軍が始まる。
当時を振り返って「いい生活だったか」と聞かれれば悩むまでもなく答えは「No」だったが、何故か充足感だけはあった。給料が安くても辞めずにいたのは、やはりやりがいを感じていたからだろう。
あの時に戻してやると言われても御免蒙るが。
"向こうの世界"における最後の記憶。その始点はプロジェクト打ち上げの飲み会である。
どうにかこうにか一つのプロジェクトを完走し、顧客への納品と検収を無事に済ませたのは金曜日のことだった。
数ヶ月ぶりに定時に仕事場を出た健一郎は、同じ戦場から生還した戦友たち十数人と共に居酒屋で祝杯を上げた。
次の週初から赴く戦場は今から1ヶ月も前に決定していたので、土日のたった2日間とは言え完全休養日が取れたのは奇跡と言ってもいい。
翌日はずっと寝ていても良いのだと思えば酒は際限なく進み、酒好きの同僚と共に何件も梯子酒を重ね、気付いた時には始発電車が走る時刻になっていた。
終わりにするタイミングを逃し続けて延々と続いてしまった飲み会も、太陽が昇る頃ともなれば流石にお開きにせざるを得ない。
4軒目か5軒目あたりから唯一の道連れとなっていた相手と別れ、最寄り駅へと向かう。
土曜日で、しかも早朝という時間帯のおかげか電車の中は空いていた。
手近な空席の一つに倒れこむように健一郎が座ると、近くの席で静かに本を読んでいた若い女性が顔を顰めて立ち上がり、隣の車両へ移っていった。恐らく彼が酒臭かったからだろう。
酒と眠気でぼんやりとした頭で、なんとなく車内を眺める。
友人同士でどこかへ遊びに行くのだろうか。中学生くらいの集団が周囲に配慮して控えめに、しかしとても楽しげにはしゃいでいた事は今でもはっきりと覚えている。
そんな光景を見て、あの頃は良かった、仕事なんか全部放り出してどこか旅に出てしまおうか、何でもいいからどこか遠くへ行きたいなどと考えはしたが、まっすぐに自宅に帰っていた。
自分にそんな度胸があれば、とっくの昔に転職していただろう。
鍵を開けて家に入ってすぐ、シャワーも浴びず着替えもせずにベッドに倒れこんだ。
(寝て起きたら絶対に二日酔いだろうな……)
軽い絶望感を覚えつつ、健一郎の意識はぷっつりと途絶えた。
◆ ◆ ◆
次に意識を取り戻した時、健一郎は迷宮の入口に一人きりで立っていた。
それが迷宮と呼ばれるものであると知ったのはもっと後のことなので、その当時の彼は目の前にあるものを単なる洞窟としか認識していなかったのだが。
健一郎の正面には比較的まっすぐに伸びている洞窟があった。
ただし、洞窟の中には明りが置かれていないので、入口から差し込む太陽の光で十数メートル先が辛うじて見えているだけだ。
左右には岩でできた壁があり、背後には迷宮の出入口がある。
出入口から外を見た時にまず目に入るのは高さ2メートル強の木柵だった。柵は出入口をぐるりと囲むように立てられていて、1つだけ扉が設置されている。
柵の向こう側、扉の両脇には鎧を着て槍を持った警備員らしき男が2人立っていて、その近くに置かれたテーブルの前には受付らしき椅子に座った男が1人。
そこにいる全員が欧米人のような見た目だった。
昔、ヨーロッパのどこかの国に「中世の鎧と武器を使っての模擬戦」をする愛好家がいるというニュースを見たことがある。あれはどこの国だっただろうか。
そんな事をぼんやりと考えた後で、自分が似たり寄ったりの格好をしていたことにやっと健一郎が気付く。
長剣を腰に佩き、凧形盾を左手に持ち、板金鎧で身を固めたその姿は、どこぞの戦場から迷い込んだ騎士様のようだ。
その時、右手には剣の柄ではなく洞窟の中で灯りを確保するためのランタンが握られていた。今から思えば、2本しか無い手で剣と盾とランタンの3つをどうやって扱うつもりだったのだろうか。
健一郎が所持している武器や防具はかなり質がいいモノではあったが、これから向かうのは騎馬で街道を移動して従卒が身の回りの世話を焼いてくれる戦場ではなく、自分の体一つで全てをこなさなければいけない迷宮の中だ。
全く、何もかもがなっちゃあいない。
しかし、数分前まで戦争どころか殴り合いの喧嘩すらしたことがなかった当時の健一郎に、その時の装備の良し悪しが判断できるはずもない。
夢の中ではあったが、内心憧れていた「異世界中世ファンタジー」の世界に来ることができたという高揚感に背中を押されるままに意気揚々と迷宮の奥に乗り込んでいき―――約30分後、同じ場所には命からがらに逃げ帰ってきた健一郎が倒れ込んでいた。
考えてみれば当然のことだ。
剣を使った戦い方どころかきちんとした剣の握り方すら知らない男が、迷宮の中に棲息するモンスターとまともに戦えるわけがない。
この世界の健一郎の肉体は、現実世界の彼の肉体とは違ってそれなりに鍛えられているようだったが、滅茶苦茶な戦い方でもモンスターをバッタバッタとなぎ倒せてしまうほどの規格外の能力ではない。
健一郎が生きて迷宮の外まで戻って来られたのは、ただただ運に恵まれていただけだ。
全く迷宮向きではなかったにしろ装備だけはしっかり整えられていたし、鎧が全身を覆う板金鎧だったのも良かった。
これが安物の革鎧だったり全身を覆わない形式の鎧だったりしていれば、大怪我を負って動けなくなってしまったかもしれない。
最初に出遭ったモンスターが、迷宮の最弱モンスターである洞窟コウモリの群れだったことも幸運だった。
粗末とは言え武器を持っている小鬼人や、必ず群れている上に複数の個体で連携をとって襲いかかる洞窟狼、はたまた物理攻撃が決定打とはならない粘菌生物が初戦の相手であれば、ここで彼の命運は尽きていただろう。
健一郎が迷宮の奥に向かって歩き始めてから数分後。
最初の分かれ道を適当に進んだ彼は、洞窟コウモリの生息地に入り込んでいた。
当時の健一郎が薄暗い洞窟の天井に止まるコウモリを発見できる理由もなく、戦闘はコウモリ側の先制攻撃から始まった。
背中にサッカーボールでもぶつけられたかのような衝撃を感じ、同時に金属とコウモリが衝突する鈍い音を聞いた。鎧のおかげで全く傷を負わずに済んでいたが、驚いたせいで右手のランタンを手放してしまった。
「うわわっ!」
岩の上に落ちたランタンが壊れ、周囲は完全な暗闇に包まれた。
「何だ! 何だこれ!」
闇の中から聞こえる謎の鳴き声にパニックを起こし、奇跡的に抜くことができた右手の剣と左手の盾をめくらめっぽう振り回した。
不幸なコウモリの1匹が剣に当たって命を落とし、物理的に歯がたたないと判断したのか他のコウモリがあっさりと退却していった。この時、コウモリどもが向かったのが迷宮の奥方向だったことも幸運だった。
初陣で勝利を飾った健一郎は即座に撤退を選択し、どちらが入口の方向かも判らないまま洞窟コウモリの群れから距離を取ることだけを考えて、暗闇の中を急ぎ足で進んだ。
急ぎ足というのは健一郎の主観であって、客観的に見れば壁に手を当てながら老人よりものろのろと歩いている、としか言いようがなかったのだが。
分かれ道まで来た時にやっと、自分が「入口に近づいているのではなく離れる方向に進んでいるのではないか」という可能性に思い至ったが、得体の知れない化け物がいる場所へ戻る勇気が出ない。
分かれ道を通ってから十分も経っていないはずなのに、ここが進む時に通った道かも判らない。
半信半疑のまま出口があるはずの方向に怯えながら歩き、入口から差し込む太陽の光を見た時の喜びは筆舌に尽くしがたい。
入口まで辿り着き、健一郎が迷宮に入っていった時と変わらない場所でのんびりと雑談する警備員の姿を見た瞬間、肉体的・精神的な疲労感からへたり込んでしまい、しばらく立ち上がることができなかった。
迷宮への初挑戦があっさり失敗に終わった直後、健一郎が痛感したのはあらゆる物事に対する知識不足だった。
『彼を知り己を知れば百戦殆からず。彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆し』
有名な格言である。
現在の彼は迷宮のことどころか自分のことも知らない状態だ。これでは負けて当然だろう。
ゲームをプレイする前に必ず説明書を呼んでチュートリアルもこなし、場合によっては攻略サイトを参照して事前に綿密な計画を立て、それから本番に臨む。
慎重な行動を心がける普段の健一郎からは、信じられないくらいの無謀さだった。
よほど「異世界」に興奮して我を失っていたらしい。
どういった作用に依るものかは不明だが、警備員の雑談を聞く限り言葉は理解できているし、今までに見たことがあるどんな文字とも違っているのに書かれている内容も理解できる。
何はともあれ情報収集は必須、となれば次の行動は決まっている。
「そうだ、ギルドに行こう」
冒険者ギルドに登録して謎の超技術で作成された身元証明証を貰い、初心者講習を受け、あわよくば仲間も見つけ、その後はコツコツとランクを上げていく。
冒険モノの王道だろう。
不安と期待を胸に抱き、健一郎はすぐ隣にある立派な建物へと向かった。
そして夢と希望はあっさりと打ち砕かれた。
まず、迷宮入口の隣にあるのは冒険者の同業団体ではなく、【迷宮管理局】という国家機関だった。
ちなみに、この世界では迷宮外でモンスター退治などの活動を行う人間の総称が「冒険者」で、迷宮内で同じような活動を行う人間は「探索者」と呼ばれているらしい。
管理局とギルドはどう違うのかと問われれば、答えは簡単だ。迷宮管理局が管理するのは「迷宮探索者」ではなく「迷宮そのもの」なのだ。
この国家機関が取り扱うのは迷宮からの出入りであって、迷宮内で発生した事象についてはその影響が迷宮の外に及ばない限り一切関知しない。
迷宮に入るためには入場税を支払う必要があるのだが、入場税さえ払えるのならばあとは老若男女を問わず、王族だろうと乞食だろうと身元不明の犯罪者だろうと迷宮に入ることが許されている。
迷宮の中で死のうが生きようが、完全に自己責任として放って置かれる。
逆に言えば、迷宮の外に出れば一定の制限と義務がある。
例えば、魔石の扱いだ。迷宮の中で得られる魔石は戦略物資であるため、その探索で得た魔石の半分以上を迷宮管理局に売却するという義務が存在する。
誤魔化す気になればいくらでも誤魔化すことは可能だが、万が一にでも不正が発覚すれば全ての魔石が没収された上で罰金が課される。
特別な伝手でも無い限りは迷宮管理局の買取価格より極端に高い価格で売ることもできないので、わざわざそんなリスクを取る奴はほとんどいないようだ。
健一郎が先ほど入った洞窟は世界四大迷宮の一つとして知られるマッケイブ迷宮で、一攫千金を夢見た者どもが大陸中から集まってくるらしい。
毎日数人から十数人が新たに迷宮探索者となり、そのうち3割から4割は1ヶ月以内に姿を消す。
新人探索者たちが姿を消す理由はモンスターに殺されたり、精神的もしくは肉体的な怪我で再起不能になったり、自分には探索者としての適性がないとあっさりと見切りを付けたりと様々だが、こんな状況では探索者全員を識別した上で管理することは不可能だし、管理したところで何のメリットもない。
健一郎が訪れた場所はギルドではなかったが、探索者ギルドもそれはそれで別に存在している。
探索者ギルドは健一郎が日本にいた頃に触れていた創作物に登場するような、世界規模・国家規模の統一組織ではなかった。
それどころか都市規模で統一された公的機関ですらなく、小規模であれば数人、大規模であっても数十人の探索者が集まっただけの私的機関のようだ。
かなり予想外の組織形態だったが、同職者の互助組織だと考えればむしろそれが普通なのかもしれない。
探索者ギルドでは知識の共有やメンバーでパーティを組んでの探索を行っているので、新人教育も頼めばやってくれないこともないだろう。
迷宮管理局の業務内容を聞いて呆然とした健一郎を哀れに思ったか、探索者ギルドについて親切に教えてくれた受付担当―――若い女性ではなく筋骨隆々の中年男性だった―――に丁寧に礼を言い、迷宮管理局を出た。
その足で有名どころのギルド拠点を訪れて入団を願い、全て門前払いの目にあった。
これはずっと後になって知ったことだが、健一郎が訪れたギルドは全てが迷宮中層以降を主戦場としている、オンラインゲーム風に表現すれば「攻略ギルド」であり、ド新人が加入するのは不可能に近かったようだ。
その男から声をかけられたのは、何回目かの無謀な挑戦に失敗した健一郎が有名ギルドの拠点入口近くで項垂れていた時だった。
話を聞くと、その男は最近設立した小規模ギルドの一員で、現在はメンバーを絶賛募集中とのことだった。
「うちなら、ここのみたいな有名な所とは違って誰でも受け入れてるぜ? 今まで迷宮に入ったことがなくったって良いしな」
就職活動でお断りの連続だった健一郎にとっては、とても甘美な誘いだった。
「決めるのは話を聞いてからでも良いさ。これも何かの縁だから飯ぐらいおごってやるよ」
そこまで言われてはあえて断る理由もない。
男に連れて行かれたのは酒場兼食堂兼宿屋といった感じの雑然とした店だった。
昼飯時はとっくに終わっているが夕食を摂るには早すぎる、という中途半端な時間だったせいで客は少ない。そこで適当に飲み食いをしながら色々と話しを聞いた。
出てきた料理はあまり美味い物ではなかったが、タダ飯の上にいろいろと教えてもらっている立場の健一郎が文句を言えた筋合いではない。
男の語り口は軽妙で機知に富んでおり、話す内容は含蓄深く、教訓に満ちていた。
自らの身に降りかかった災いや友人が犯した失敗についての笑い話の形で、恐らくはかなり誇張と脚色が行われていただろう。
だが主題は明確で分かりやすく、迷宮の中では何をすべきで何をすべきではないかを色々と考えさせられる内容だった。
楽しい時間だった。話を聞いているうちにどんどんと酒が進み、この店で出される料理がそれ単品ではなく酒と一緒になることで完成するのだと気付いてからは更にペースが上がっていく。
「是非、ギルドに入れて下さい!」
「おうよ! 歓迎するぜ!」
それから入団祝いと称して更に飲んだ。
飲み会はかなり長い時間続けられ、お開きとなった頃には深夜というほどではないがかなり遅い時間になっていた。
健一郎が正式に加入するためには他のメンバーの意見も聞かなければならないが、時間が遅い上に初対面から泥酔しているのは問題があるだろうということで、他のギルドメンバーとの顔合わせは翌日に先送りされた。
男に促されるままにその店で部屋を取り、肩を貸されて2階へ上がる。
狭苦しい部屋の中でなんとか鎧を脱がせてもらい、藁の上にシーツを被せただけという粗末なベッドの上に倒れ込んだ。
(寝て起きたら絶対に二日酔いだろうな……)
強い既視感を覚えつつ、健一郎の意識は闇の中に沈んでいった。
覚醒したと同時に、激しい頭痛と吐き気に襲われて思わず身体を丸める。
痛飲した翌朝には毎回そうしているように、二度と酒は飲まない事を神に誓い、だから苦痛が早く過ぎ去るようにと神に願う。
波状攻撃の第一波をどうにかこうにか乗り切って、重い目蓋を何とかこじ開けた瞬間、二日酔いの症状は丸ごとどこかに吹き飛ばされていった。
それは神への願いが聞き届けられたのではなく、混乱したせいで少々の体調不良を気にする余裕が無くなってしまっただけだ。
見覚えのない部屋で目覚めた理由については何とか思い出すことができたが、問題は昨日の出来事も含めた現在の状況についてだった。
つまり、健一郎が現在見知らぬ場所―――より正確には見知らぬ異世界にいるのは何故かという点である。
昨日の時点では特に悩まず、状況に流されるままに行動していたのはどうしてだったかと考えてみると、恐らくはずっと混乱しっぱなしだったからだ。
ずっと現実逃避し続けていたと言い換えることもできる。
これまでに「主人公が今とは別の世界に行った」という創作物に触れて、もし自分が同じ状況になったらどうしようかなどと夢想したことはあった。
しかし、そういったものは他人事だから娯楽として楽しめるのであって、実際に自分がその立場になってしまえば嬉しさよりも不安の方が大きい。
元の世界には戻れるのだろうか。できることなら戻りたい。
しかし、例え戻る方法があったとしてもどうやって戻れば良いのかが今は解らない以上、この世界でどうにかして生きていかなければならない。
もう戻れない可能性はあるが―――それならば尚更、安定した生活を確保したい。
現在、自分が入っている身体の以前の持ち主はどうやって生活していたのだろうか。
想像するしかないが、健一郎がこちらの世界に来た直後の状況から考えれば迷宮探索者として過ごしてきたか、少なくともこれからそうやって生きていこうと考えていたのだろう。
これからどうしていくにせよ、まずは現状を理解するために情報を集めなければならないだろう。
一応の方針を固めたことである程度は落ち着きを取り戻し、周囲を観察する余裕が出てきた。
まずは今いる部屋の中を見回してみる。
藁の上に薄汚れたシーツをかけただけのベッドがあり、そのベッドの他には何一つ家具を置くスペースが無いような狭苦しい部屋だった。
自分の部屋ではないので当然だが、私物は何一つ置かれていない。
健一郎が着ている服以外は何一つ、健一郎の所有物がない。
―――昨日、色々と世話をしてくれた男はどこに居るだろうか。
あれだけ長い時間話していたのに、彼の名前すら聞いていなかったことに気付く。右も左も分からない健一郎に対してあれだけ親切にしてくれたというのに、なんという失礼をしてしまったのだろうか。
部屋から出て1階に行き、受付にいた店の人間に男について尋ねてみたが、何も知らないという答えが返って来た。
前日の夜に店で働いていた店員に確認してもらったが、判明したのは泥酔した健一郎を2階の部屋に連れて行った後、すぐに帰っていったという事実だけだった。
ならばその男がどこの誰か教えてくれと頼んでも一見客だから分からないと言われ、半狂乱になりながらそんなはずがない、部屋から荷物が何一つ無くなっているのだと訴えた。
「ははっ……やられたねぇ、兄ちゃん」
前夜からずっとそこで飲んでいたのだろうか。体中から酒の匂いをぷんぷんと漂わせた酔っぱらいの言葉を聞いて、健一郎の全身から力が抜けていった。
実を言えば、部屋に居た時から内心では気付いていたのだ。認めなければ事実が消えてなくなると信じたかっただけだ。
健一郎は八つ当たりで薄笑いを浮かべていた酔っぱらいに殴りかかり、あっさりと返り討ちに遭って店から放り出された。
◆ ◆ ◆
そこから先の事まで詳しく語るには時間が足りなすぎるので、今は概要を述べるだけにしておこう。
店を叩きだされた健一郎は、まずこの世界の警察署に当たる場所に向かった。
官憲に事情を話して犯人を捕まえてくれるように訴えたが、相手から返って来たのは嘲笑と破れかけのオブラートに包まれた「騙されたお前が悪い」という主旨の言葉だった。
怒りに任せ、町中を走り回って自分を騙した男を探したが、そんな事で見つかるようなら娑婆に盗人や詐欺師など一人も歩いていないだろう。
その後、金を稼ぐ手段がなく、かと言って盗みを働くこともできずに行き倒れていたところを【花の妖精亭】のエイダに拾われ、どうにか命を繋ぐことができた。
食堂の片隅を寝床として無料で貸してくれ、朝夕の食事代をツケ払いにしてくれた上にその他も何くれとなく世話を焼いてくれた女将の存在が無ければ、今のケンイチロウは存在していない。
エイダには多大な恩を受けているのに、5年経った今でもまだ利子分すら返せていない。
これから先の一生をかけても返しきれるとは思えなかったが、それならそれで一生返し続ければ良いだけだ。